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国旗国家問題で建設的な妥協はできないのか?

 私は国旗国家の公教育導入を支持しているものです。  しかし数年前の約束を反故にし、罰則・強制を行ってまで導入を図るのは本当に正しい事なのでしょうか?私は特定の価値観を公教育で勧める事は可能だと思っています(現にいくつかの徳目の指導は学習指導要領にも明記されています)、しかしその徳目は国民の普遍的な支持を得ていなければならないのではないでしょうか?  国旗国家推進反対の方にも疑問を持っています。反対する理由にかつての日本の帝国主義政策を挙げる人がいますが、ならば戦後保障が充分におこなえば日の丸君が代を認めるのでしょうか?認めないのであればそれに変わる腹案はあるのでしょうか?その腹案が現国旗国歌以上の国民の支持を受ける事がありえるのでしょうか?そもそも、ある共同体の維持・向上には構成員の帰属心が重要な役割を果たすといった価値観さえ共有できないものなのでしょうか?  第二次大戦が終了してからすでに60年以上の月日が経ちます。国旗国歌といった“国の顔”に関して未だに国民的なコンセンサスがでていないというのは日本の民主主義の未成熟さの由縁と感じてしまうことがあります。議論を進めて暫定的な合意くらい出せないものなのでしょうか?

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回答No.14

NO13です。 >ほぼ単一民族によって国家 民族を形成するものは血縁や地縁以外に、宗教や共有する歴史観があります。 今の日本では前者は当てはまりますが、後者はいかがでしょうか。 宗教は先に触れましたので、歴史観に関しては戦後教育により、人によってかなり異なる歴史観となっていますし、ネガティブ過ぎる歴史観の共有では民族自身の否定にもつながりかねないと思っております。 民族としての価値観自体が希薄化していると言えないでしょうか。 >そもそも何故日本人はこれほど対立する意見に耳を貸さなくなってしまったのでしょう? これは戦後からだと思います。 戦後の壮大な実験として、よく言われるいい方では日本を骨抜きにするためとして、日本人のアイデンティティの破壊が行われました。 同じことを欧米各国で行うとしたら、キリスト教の破棄となり、文化や教養から政治のまでの基盤となる精神を失わさすことと同義です。 ベースとなる価値観を言い替えると、国民の精神的骨子でもあり、骨子のない状態で価値の多様化を認め尊重したらどうなるでしょうか。 共通点がなければ互いの価値観を理解するのは困難ですし、また骨子がない状態では相手の価値観を認めるだけのゆとりがなくなり、更には明確な根拠なき価値観では相手を説得することも出来ないため、耳を貸し難くなっているのだと思います。 もう一つの理由としては、日本は古来から議論より和を尊んでおり、対立的な意見を鮮明にすること自体望ましくないという考え方が残っているからだと思います。 >欧米のような漸進的社会民主主義が大きな勢力とはなりえなかったのでしょう? 1つ目の理由としては、共産主義と異なり社会民主主義はマルクス主義とともにキリスト教の人間観(自由・平等)を取り込んでいます。 (日本の社会党の設立者はほとんどキリスト教の信者でした。) 2つ目の理由としては、受け皿が存在しなかったことがあげられます。 欧米に比べ日本の社会民主主義政党は、理想論を唱えすぎており、現実社会から解離しており、受け皿になり得なかったのではないでしょうか。

tooma37
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 >民族としての価値観自体が希薄化していると言えないでしょうか。  諸外国との深い交流によって価値観が相対化され民族意識が希薄化するのであれば、それはそれで人類史的な実験として意義があると思うのですが、中身は排外的な島国根性のままで自己の民族意識だけが内部崩壊してしまうというのはなんともやりきれない話です。 >日本は古来から議論より和を尊んでおり、対立的な意見を鮮明にすること >自体望ましくないという考え方が残っているからだと思います。  元来、民主主義というものが日本人の精神には馴染み難いのかもしれません。 >欧米に比べ日本の社会民主主義政党は、理想論を唱えすぎており、現実社 >会から解離しており、受け皿になり得なかったのではないでしょうか。  旧社会党がもっと現実的であったなら日本の民主主義ももっと早く成熟できたのではないかと思うときがあります。

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  • pluto003
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回答No.15

そういう事は主に若者の役割でしょうね。若者というより次世代といったとこでしょうか。 ここの書き込みを見ていればわかるように、どこどこの組織がとか、どこぞの勢力が といったネガティブキャンペーンを鵜呑みにして自分の頭で考えない操り人形の人が結構います。まずはこういう人やUFO研究家まがいの人を相手にしない事でしょうね。 政治政党のネガティブキャンペーンの応酬がある程度沈静化しないと、何も始まらないし、次世代がそれに飲み込まれない事が大事というところでしょう。

tooma37
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 手厳しいですね(笑) >政治政党のネガティブキャンペーンの応酬がある程度沈静化しないと、何 >も始まらないし、次世代がそれに飲み込まれない事が大事というところで >しょう。  個人が充分なメディアリテラシーを得る為には教育が大きな役割を担うと思いますが、単に大学進学率やOECDののテストのランキングを上げるより難しい問題のように思います。どうすれば政治的中立性が担保された教育が可能になるのでしょうか。  

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回答No.13

この問題や徳育に関して、他の国は別として日本ではコンセンサスを得ることは不可能です。 国民の間にベースとなる価値観が存在していないためです。 日本の憲法では多様な価値観を認めています。 ベースにした西洋型の憲法では人権や平等と言った概念を持ち、日本の憲法もこれを受け継いでいます。 しかしながら、このベースにはキリスト教が存在しているのです。 平等の概念も日本では「法の下の平等」と一般に理解されているものも、本来の趣旨は「神の下の平等」(米国憲法では明示)です。 また人権と言う概念も、キリスト教における自然権を発展させたものです。 (人権後進国と言われている国にキリスト教国がほぼ無いのもこの為) つまりは西洋型の憲法の認める多様な価値観は、ベースにキリスト教が存在しており、コアたる価値観を共有した上で、それをベースにした多様な価値観を認めるものなのです。 逆に一般的に民主主義が最も行われていなかった社会主義国の基礎概念を作ったマルクスは、ユダヤ教からキリスト教への強制的な改宗やそれに伴う宗教への強烈な嫌悪感を持っており、マルクス主義の中の宗教否定の概念は彼の宗教への嫌悪によるものです。 つまりキリスト教国(=民主主義)、非キリスト教国(=非民主主義)と言う形態になってしまっているのです。 「日本の民主主義の未成熟さの由縁」とありますが、これも西洋の民主主義の概念に基づく限り、完成した民主主義国家になり得ることはありません。 キリスト教系の国家以外でも大抵の国には、共通の価値観を有する宗教や民族的継りが存在しています。(共産主義はそれ自体宗教の代わりに) イスラム国家であれば、イスラム教と言う共有された強固の価値観がありますし、仏教国家のタイ(人口比90%以上)では国王は仏教徒である必要があり「仏教・民族」の頂点を権威としています。 これらの国々は今の世界から見ると非民主的とされますが、国民の間にはしっかりとした共通の価値観を有しています。 日本では戦争の原因を神道と陛下にあらせらると言う考えや、戦後の教育界でのマルクス主義の影響で、宗教自体を否定する人(無宗教主義)が多数を占めるようになっています。 また併せて明治以前、戦前と共通していた儒教的な価値観も否定されるに至っています。 このような中では国民におけるベースとなる価値観が存在しないため、価値観の集約を望むことは困難です。 特に、「国旗国家の公教育導入」はマルクス主義の強い影響下にある日教組が多数占める教育界と深い関わりが存在しており、価値観を揃えることは困難では無くほぼ不可能だと思います。 日本の行き過ぎた価値観の多様化は、義務を放棄し権利ばかりを主張する人の増加の原因ともなっており、「共同体の維持・向上には構成員の帰属心」さえもあやふやになっています。 学校や幼稚園等の給食費問題などもこの一例ですね。 政治における様々な問題も、国民が選んだ政治家に起因する問題であり、国民にも責任は間違いなくあるはずです。 しかしながら、多くの国民は政治家や官僚ばかりに非を求め、自分たちには責任がないと言った顔をしています。 国旗・国歌などのように価値観の共有をはかるものであれば、今の日本では罰則・強制を行うほかに対処方法があるのでしょうか。 民主主義では少数者と対話による理解の上での多数決を行うことを理想としています。 日本では、価値観を内心の自由と捉え、憲法で保証されているから内心の自由は絶対だとする考えが一部で広がっています。(教育界など) 話合いを行っても、信条的な価値観における部分においては相互の理解は事実上不可能です。 (国歌の強制は踏み絵のようなものだと捉える教師もいますので、まさに信条ではないでしょうか) 相互理解が形成されないのであれば、多数決において決める以外はありませんが、西洋型の民主主義が成熟していない日本では、多数決で負けても内心の自由を盾に自らの価値観を押し通そうする向きがあります。 特にマルクス主義では「思想の闘争」という概念があり、たとえ少数派であっても彼らは価値観を貫き広めようとします。 現在の日本では、上記のような理由により、国旗国家問題で建設的な議論を行うことは可能であっても、決して結論は出ることはありえません。 暫定的な合意を形成することは不可能です。

tooma37
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。 >国民におけるベースとなる価値観が存在しないため  確かに戦前の宗教的価値観の多くが否定されてしまってはいますが、それでもほぼ単一民族によって国家が構成されていることはベースとなる価値観を育む要素にはならないのでしょうか。例えば共産党や旧社会党のような革新的政治集団であってもその排外主義や内部統制のあり方は非常に日本人的であるという印象を抱いていたのですが。    そもそも何故日本人はこれほど対立する意見に耳を貸さなくなってしまったのでしょう?マルクス主義の影響についても解答中でふれられていましたが、何故日本では欧米のような漸進的社会民主主義が大きな勢力とはなりえなかったのでしょう?

回答No.12

導入の方法とかに問題があったと思います。 個人的にはどこの国であっても自国の国旗や国歌には国民が敬意を払うのが当然のことであり、それを強制することもやむを得ないと思います。 ただし、一方で日本の国旗が「日の丸」であり国歌が「君が代」であることに違和感を覚える人もいるのも当然のことであると思います。 しかしながら、もし希望する国旗や国歌を国民投票(アンケート)で選べば確実に圧倒的多数で国旗に「日の丸」、国歌に「君が代」が選ばれるのはほぼ確実と思えます。 とはいえ、この手続きがなされないために結果として直接「日の丸」「君が代」を強制する結果となり、反対者が出ていると思います。 国民の大多数が選んだ国旗国家であればそれを冒涜する行為は即ち国民を冒涜する行為に変わりません。言葉を換えればテロ行為と同様です。

tooma37
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。やはり何はともあれ国旗国歌に関する国民投票はやっておいた方がいいのかもしれませんね。

  • sudacyu
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回答No.11

 国旗国歌そのものについて、国民的コンセンサスがないとは到底思えません。  あらゆる国際的な場面で使用されて続けてきており、誰もそれに代わるものを示せないと思います。立派にコンセンサスは成立し続けています。  国旗国歌について、法律で規定しなければならないかどうか、(例えば、イギリスには憲法がない。)平成11年に国旗国歌法ができる以前も、国旗・国歌として扱われてきたということは、法律以上に強力な日本国民のコンセンサスがあったということの証拠と考えます。 <なぜ、コンセンサスがないように言われるのか>  国旗国歌について、単に日本を表現する象徴として扱う以上の政治的思惑を右派・左派が持っていて、既にあるコンセンサスを無いかのように扱うことで、現状を変える道具にすることを目指しています。  ですから、はじめから妥協など考えていないでしょう。 A.国旗・国歌に対する表面的態度で、個人の愛国心を量ることが出来るかのような論のこじつけを行い、特に教育の場で踏み絵として扱い、教育の場の管理強化を狙う右派的考え。 (某県の教育委員会では、各学校に音量計を配布。クラス毎の生徒達の「君が代」を歌う声の音量で、生徒を指導する教師の愛国教育の程度を数字化しようと考えたらしい。)  国を愛する心を、国が求めるなど全く無意味。そんなことで愛国心ができるような心の構造を人間は持っていない。  私を愛してと求愛を続けても、愛する人からの愛は得られない。馬鹿な人だとの哀れみは得られるかもしれないが。  無私の愛を人に与える人が、他の人から愛されるように、国民が愛国心を抱くのは、「国民が安心して暮らせるように努力し続ける。」そういう国であればこそ。  赤字国債を乱発し多額の借金を次の世代に押し付けたり、国際緊張を高めたり、環境悪化に目をつぶったり、少子化なのに総合病院の産科・小児科がどんどんなくなって子供が安心して生み育てられない状況を放置したり、納めた年金保険料のデーターを粗略に扱ってわけのわからない状況にしてしまったり・・・  こういうことに先手を打って、国民が安心できる国であれば、愛国心が育つのは当然だし、そうでなければならない。  幼いうちに子供に外から植えつけた観念的愛国心は、国民が愛せないような不幸な国を、権力者が支配する便利な道具に簡単に変わってしまう。  この分かりやすい実例として、北朝鮮という国が身近にあるのはご存知の通り。 B.戦争責任ということを安易に考え、看板・見掛けだけ変えれば責任が消えるかのような、短絡的現状変更を夢見る左派的考え。  侵略戦争の象徴となった国旗国家だから変更せよという、まるで現実味のない主張。  単なる責任逃れであり、国旗国歌に対する冒涜にすぎない。  元々「日の丸」そのものには、侵略の意味も平和の意味も無い。不名誉な「侵略」というイメージが付いたというのなら、それを雪ぐ努力をすべき。  日本が国是として、国際平和活動・国際協力を積極的に行い、その結果として日本国旗・国歌が、「平和の象徴」として見られるようになることを目指すべきとの主張が正論。

tooma37
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。 >国旗国歌について、単に日本を表現する象徴として扱う以上の政治的思惑>を右派・左派が持っていて、既にあるコンセンサスを無いかのように扱う>ことで、現状を変える道具にすることを目指しています。  このような現状を変える方法はないものでしょうか? >某県の教育委員会では、各学校に音量計を配布。クラス毎の生徒達の「君 >が代」を歌う声の音量で、生徒を指導する教師の愛国教育の程度を数字化 >しようと考えたらしい。  これは驚きますね…。

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.10

>国旗国歌といった“国の顔”に関して未だに国民的なコンセンサスが >でていないというのは日本の民主主義の未成熟さの由縁と感じてしまう >ことがあります。 国旗・国歌に反対している勢力は、基本的に自民党主導の政府に対する反対のツールとして、国旗・国歌反対を唱えているのが実情です。 最初から反対ありきなので、反対勢力との間で合意を得ることは最初から不可能です。 そもそも、反対勢力が何かしらの手段で問題解決をする意思があるのであれば、日の丸・君が代に変わる国旗と国歌の提案くらいありそうなものですが、代案をまったく出していないので、反対のための反対であることは明白です。 よって、今後もコンセンサスを得ることは不可能であるので、今までどおり押し切るしかないでしょう。

tooma37
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。 >国旗・国歌に反対している勢力は、基本的に自民党主導の政府に対する反 >対のツールとして、国旗・国歌反対を唱えているのが実情です。最初から >反対ありきなので、反対勢力との間で合意を得ることは最初から不可能です。 反対派の方にしてもこのままでは意見を無視されつづけるだけですし、もう少し建設的になろうとは思わないものなのでしょうか?

tooma37
質問者

補足

すみません、改行が見苦しくなってしまいました。

  • mealment
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回答No.9

まず日の丸の歴史からです。今の日の丸が最初に使われたのは、源氏の時代からです。有名な壇ノ浦の戦いで、源義経が平氏に対して掲げた旗が、白地に赤の日の丸で、平氏が源氏に対し掲げた旗が、赤字に白の日の丸でした。源氏の後に出てきた武将たちは、織田信長も徳川家康もみな、自分たちは源氏の流れを汲んでいるという意識を持っていました。 そして彼らは戦いの時には必ず日の丸を掲げたのです。例えば長篠の合戦の時です。信長と家康の連合軍が、武田勝頼と戦ったとき、信長も家康もそれぞれ自分の家紋をあしらった旗を持っていたのですが、連合軍として戦う時は、日の丸を使用していました。対する武田側も同じく日の丸を掲げていました。つまり日本を支配するのは自分たちと思った時には、日本の国印として、日の丸のイメージが武将たちの頭に入っていたのです。1853年に米国からペリーがやってきた時も、日の丸は日本の総船印として掲げられました。源氏の時代から1000年の歴史があって、米国から開国を要求してきた時、結果として幕府が日の丸を日本の旗として定めたのです。つまり日の丸は日本の文化の中から、ごく自然に生まれ育ったのです。それが一時期戦争に使用されたと言っても、戦後の民主主義国家としての歩みの際にも常に日の丸があったことを思えば、日の丸そのものを否定すべきではありません。櫻井よしこWEBサイト​http://blog.yoshiko-sakurai.jp/2000/12/post_8.html​ 君が代も世界の国の中でも、もっとも非戦闘的な歌です。 例えばフランスの国歌の、「武器を取れ、市民よ! 軍隊を組織せよ! 進め、進め、 汚れた血が田畑をひたすまで」や、中国国歌の「立て 奴隷となるな、血と肉もて きずかん」、米国国歌の「砲弾が赤く閃光を発し、砲弾が空に炸裂する中にあっても、我々の旗はずっと要塞にはためいているのだ!」などと比べてもわかります。イギリスの国歌の王室への崇拝ぶりは日本とは比べものにもなりません。 国歌というのは忠誠を高めるためにどの国もそういう感じです。 今の日本は、あまりにも愛国心が欠けています。逆に君が代を歌わない教師がいるとしたら大問題です。外国では愛国心を教えるのは当然のことです。

tooma37
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。 >織田信長も徳川家康もみな、自分たちは源氏の流れを汲んでいるという意 >識を持っていました。  織田信長は平氏の末裔を自称していたのでは?他の戦国武将にしても源平藤橘の一族の流れを汲むことはあれ、源氏のみという事ではなかったと思いますが… >外国では愛国心を教えるのは当然のことです。  私は愛国心教育は望ましいと思いますが、何が何でもしなければいけないものとは思いませんし、コスモポリタニズム的な考えも現実性を伴うのであれば構わないと思っています。外国で当然=日本でも当然とはならないのでは?

  • netcatme
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回答No.8

>どこかで日の丸は国民の90%に、 >君が代は国民の70%に支持されているという統計を >読んだ事があります。 >30%というのは一方的に無視してもよい数字には思えないのです。 #2です。まあ、そんなものかな、という気がします。30%が反対というわけでもないのですよね。分からないとか、どちらかといえばとかも含んでいるのではないでしょうか?  まあ、それでも日の丸並みに支持率をあげようとするなら、国民投票で新しい国歌を選んでみてはどうでしょう。「さくら、さくら」ぐらいしか対抗馬がなさそうですが、結構盛り上がるのでは? 特に君が代に固執する必要もないでしょう。憲法九条の改正の国民投票時に、一緒にすると、この改正が軍国主義化とは関係ないですよ、というアピールにもなるのでは?

tooma37
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >30%が反対というわけでもないのですよね。  その統計を示していた記事の論調が国旗国歌反対でしたので、賛成派の70%には「それでいいんじゃないの?」といった類の消極的賛成も含まれるという言い回しをしていました。 >国民投票で新しい国歌を選んでみてはどうでしょう。  私も後腐れがないのであればそれも一案だと思うのですが、投票結果が出て“多数派の横暴だ!”では結局有意義なものにはならないと思います。

noname#70326
noname#70326
回答No.7

国旗国歌法に反対している人というのは日本に帰属意識を持っていない人です。 日本の国体をどうすべきかということの議論の場に、日本に帰属意識を持たない人間が入り込むこと自体が問題なのです。 日本に帰属意識のない人というのは、かつて、大陸から渡ってきて日本社会に生活の基盤を作った人々です。 彼らが、国家への帰属意識の象徴である国旗国歌法に理解を示さないのは、日本が、天皇を頂点とする立憲君主国家としての形式を取っているからです。 彼らから見れば天皇制・日本の民族主義の象徴なんですよ。現在の国旗国歌法は。 漢民族・朝鮮民族は、日本人以上に血縁を重視する傾向にあり、そういう目で日本の国旗国歌を見ると、日の丸・君が代は、偏狭な民族主義・血縁主義の象徴のように見えるのでしょう。 彼らが望むことは、天皇家・皇族を解体し、日本が共和制国家となることです。 その際に作られるであろう新国旗国歌については、彼らは大賛成すると思いますよ。そういう部分では、日本人以上にナショナリズムの高い人種ですから。 日本は島国のため、異民族との交流が少なかったことから、異民族への警戒感が強いことは事実ですが、それは一種の防衛本能的な面が出ているだけであって、ある意味「しょうがない」んです。 しかしながら、そういう性質があることを持って「日本人は民族主義である」と決め付けることは、誤った考え方だと言わざるを得ません。 例えば、聖徳太子が作った日本最初の憲法の第1条「和を持って貴しとなす」が示すとおり、日本人は、事を荒立てずに共存共栄を図っていこうとする意識が強い民族です。(これが「談合」という、日本に顕著に見られる問題になっていることもまた事実ですが。) なぜ「和を大切にせよ」などということを、法律に盛り込まざるを得なかったのか?たった17条しかない憲法条文の筆頭に持ってこなければならなかったのか?それをよく考えなければなりません。 公務員への罰則規定の導入は、基本的に彼らが「公務員」だからなのであり、そのこと自体を議論する意味など実は無いこと位、あなたもわかっていると思います。 国民的理解など到底得られていません。 まあ、国旗国歌に反対する現在の既成政党や各種団体などは、日本の敗戦や社会主義の台頭といった社会背景を前提として、独自の既得権益を作り上げてしまっていますから、彼らの立場からすれば、日本国民に敗戦の十字架を背負わせつつ、自分たちは被害者として日本国政府にさまざまな社会権益を要求しつづけることができるという今の「あやふやな状態」こそ実は理想的なんです。 どこかで強権的な措置(在日制度廃止など)を取らない限り、問題は解決しないと思います。

tooma37
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました >日本の国体をどうすべきかということの議論の場に、日本に帰属意識を持 >たない人間が入り込むこと自体が問題なのです。  日本国の国政に関わる為の要件は“日本国籍をもっている事”のみであり帰属意識の云々は必ずしも必要ではないと認識しています。 >日本に帰属意識のない人というのは、かつて、大陸から渡ってきて日本社 >会に生活の基盤を作った人々です。  日本に帰属意識をもたない人=帰化人というのはどうでしょう、日本人というのはもう少し多様な意見をもった民族であると思います。 >日本人は、事を荒立てずに共存共栄を図っていこうとする意識が強い民族 >です  その性質はあくまでも共同体の内部に向けられるものではないでしょうか? >公務員への罰則規定の導入は、基本的に彼らが「公務員」だからなのであ >り、そのこと自体を議論する意味など実は無いこと位、あなたもわかって >いると思います  公務員の業務不履行に対する罰則自体を問題としているのではありません。その前に話し合いでなんとかできなかったのか、という事を賛成派、反対派双方に問いたかったのです(残念ながら今の所、国旗国歌賛成派の方からしかご回答を頂いていませんが)

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回答No.6

>数年前の約束を反故にし・・・ 公務員(教師)に強制する旨は 最初から決まっており、 生徒などに対してのみ 強制は行なわない事になっているので、 約束通りなのだが・・・ 元々、教師が校長などをイビリ殺したので、それを防ぐ為に 法整備を行なっただけの話。 公務としてキチンと決まっている以上 それ(公務)を拒否すれば査定が下がる(クビになる)のは、何処の会社でも一緒ですね。 オリンピックなどで 相手の国旗や国歌に敬意すら示さなくなり 国際マナーを失った結果、 それらの常識(国際マナー)を学校で教えるのは ごく普通の事。 まず、マナーを教え それに対する反対者もいる旨説明すれば良いだけであり どれを選択するかは 各個人の自由。 複数の選択肢を儲けている事が重要であって、国歌などを拒否する(食わず嫌い)は駄目ですね。

tooma37
質問者

お礼

>数年前の約束を反故にし・・・ >公務員(教師)に強制する旨は 最初から決まっており、  今調べて納得しました。当時マスコミで報道していた内容や反対派の方々の意見を鵜呑みにしていました。不勉強をお詫びします。 >元々、教師が校長などをイビリ殺したので、それを防ぐ為に 法整備を行なっただけの話  自殺のような事態が起こる前に話をつけられなかったのかという意味で質問をさせて頂きました。 >オリンピックなどで 相手の国旗や国歌に敬意すら示さなくなり >国際マナーを失った結果 そういう話もあったのですか?例えば自国の国旗国歌に対する態度を保留しつつ他国のそれを敬う、というのは不可能なのでしょうか? >まず、マナーを教え それに対する反対者もいる旨説明すれば良いだけで >ありどれを選択するかは 各個人の自由。  現在の自民党に“反対者もいる旨を説明”する意思があるようには見えないのです。与党はどれだけ反対派の意見を容れるのでしょうか?

回答No.5

#4の者です。 質問者様のお考えに、私も同感です。 国旗の意味は多いと思います。皆さん、いろいろなご感想やご意見があると思います。 <白地とのコントラストで静かさの中にある激しさ・・・・・> このことも素晴しい意味だと思います。 <その時代の国民がその時代にあった解釈> 勿論、その時代の人が解釈すればよいと思います。 この他ですが 現国歌は、私が生まれたとき既にあり、学校、会社などで歌ったので自分の中に入っています。 今後は、新国歌を支持する人たちが増えて、この時代に沿う国歌を制定することも良いと思います。 子供たちが覚えれば、新国歌に愛着を持つと思います。 今から、国民が求める「歌」が広まり、国歌として定着するのも良いと思います。

tooma37
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  なぜこのような質問をしたのかというと、国旗国歌の問題に限らず日本では多数派が少数派を無視し続け、少数派は到底多数派に受け入れられないような主張を続けているように思ったからです。この問題に限らず議論によって意見を形成していけるような世論を期待して止みません。

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