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トンブクトゥはなぜ栄えた?
西アフリカのマリ共和国内のニジェール川沿いに位置する、砂漠の民トゥアレグ族の都市であるトンブクトゥは、かつて「黄金と学問の街」とだったようですが、なぜ栄えたのでしょうか?これを黄金と学問に触れながら書きたいんですけど、どのようにかいたらいいですかね。 お力貸してください。おねがいします。
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NO.3です。 私が今回、回答の基礎としたのは、HPではなく講談社現代新書で1997年に初版発行された「新書アフリカ史」という本です。この本に簡単な略図も載っているのですが・・・。 ただウィキペディアでも「サハラ交易」で、ガーナ王国(私はガーナ帝国としましたが・・・)と、マリ帝国の交易路の地図が載っているので参考になると思います。また、「ソンガイ帝国」もウィキペディアで国の形・大きさの地図が載っていますので参考になると思います。 HPを貼り付けられたらよかったのですが、やり方を知らないもので・・・もうし訳ありませんが「サハラ交易」と「ソンガイ帝国」で検索してウィキペディアで見て下さい。
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- DieMeute
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NO.3です。補足の質問があったので・・・ 私ならアフリカ西部の地図を使います。 アフリカ西部の地図に、まず最初にガーナ帝国の範囲を描きます。次にマリ帝国の範囲を描きます。さらにソンガイ帝国の範囲を描きます。 そして塩の産地(テガーサ)と金の産地(ニジェール川上流のブーレ、セネガル川上流のバンブク、ボルタ川上流のコング他)、マリ帝国の首都ニアニと、トンブクトゥの位置を記します。 地図で描けばわかるとおり、ガーナ帝国の時代、トンブクトゥはガーナ帝国の勢力圏にない事がわかります。 そして、マリ帝国の時代、ニジェール川上流にある首都ニアニの周辺には金の産地(ブーレ、バンブク、コング他)が幾つもあった事が示せ、さらに川の下流であり、メッカ巡礼に向かう方向であり、帝国の端の方でありサハラへの出入り口にトンブクトゥが位置している事が示せます。 さらにソンガイ帝国の時代では国の中央ともいうべき地点にトンブクトゥがあり、重要な位置にある事が示せます。 これによりトンブクトゥが時代とともに、国の移り変わりとともに、発展していった事が理解しやすくなると思います。 さらに当時の交易ルートを書き込めばより分かりやすくなると思います。
- DieMeute
- ベストアンサー率70% (571/807)
トンブクトゥが本格的に栄え始めたのマリ帝国の時代です。 マリ帝国の王は、それまでのガーナ帝国時代に使われていた西サハラ交易路に代わる新しい交易ルートをサハラ中央に求め、またその道をメッカ巡礼の道としても使用しました。その時、重要な都市となったのがトンブクトゥです。 トンブクトゥはサハラ砂漠を縦断するサハラ交易路の南における終結点であり、さらに、そこからニジェール川を使用する河川貿易路での港という陸路・河川における重要な交易の拠点でした。トンブクトゥにはサハラ砂漠から岩塩が、森林地帯からは金が運ばれました。その他にも多くの産物が交易品として運ばれ、交易都市として発展しました。 なお、王達は大量の金を持って豪華な隊列を組んで、メッカ巡礼を行った為、アラブ世界に「黄金の国マリ」の名が響き渡る事になります。 特に、マリ帝国の王の中で第九代のマンサ・ムーサが、トンブクトゥの発展に寄与しています。彼はメッカ巡礼後、トンブクトゥにモスクを建てており、それがトンブクトゥの学術都市の始まりともなりました。 また、塩の交易ルートにしても、マンサ・ムーサの時代にトンブクトゥが重要な位置を占めるようになりました。それまでは、サハラ西部のイジルとサハラ中央のテガサから陸路で、交易都市のワーラータやアウダグストへと運ばれていましたが、トンブクトゥからニジェール川を使って運ばれるようにもなりました。 トンブクトゥが最盛期を迎えたのは、マリ帝国の次に起こったソンガイ帝国の時代です。 そのソンガイ帝国の中でもアスキア王朝を起こしたアスキア・ムハンマドは信仰心の厚いイスラム教徒で、メッカ巡礼を行った後、アラブ世界から宗教指導者や学者を招き、トンブクトゥに神学校を建て学術都市としても繁栄させたと言われています。なお、一説によると、アスキア・ムハンマドはトンブクトゥに首都を移していたとの話もあります。 トンブクトゥが衰退したのは、1591年のモロッコの侵略によるところが大きいです。モロッコはサハラ砂漠を越えて軍隊を送り込み、トンブクトゥを占領・支配します。この時、多数の建物が破壊され、書物が奪われ、富が奪われ、学者が連れ去られたりしました。 その結果、交易都市として重要性が減り、交易が大幅に減ったのです。サハラ交易路を使用していた商人達は、安全な交易路として、東のハウサ諸王国方面の交易路を使うようになり、トンブクトゥを避けました。また、同じ頃、ヨーロッパ人が海路を使って、トンブクトゥの南側にある海岸線に現れ、現地の人々と直接、貿易するようにもなり、ますますトンブクトゥの交易都市として重要性は低下していき、衰退していったのです。 トンブクトゥの事を書くなら交易で栄え、また金の産出地に近く、金が重要な交易品であった事と、熱心なイスラム教徒の王の厚い庇護の下で、学術都市としても発展したという事を書いたらいいのではないかと思います。
補足
よくわかる説明ありがとうございます。 あとひとつ聞きたいんですが、このことを発表するときに、どんな図や表などを用いて行うとわかりやすくなりますでしょうか? いろいろと質問ばかりですみません。
- straker505
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『・・・・トゥアレグ族の特定の季節だけの野営地が起源であるが、その後、金や象牙、奴隷、塩などの交易品が行き来するサハラ砂漠の通商路において重要な中継地として都市へ成長し、この地に興隆したガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国を通じて莫大な富が集まる重要都市となった。 1500年代初頭、トンブクトゥの繁栄は頂点を迎え、その途方もない富の物語や伝説が伝えられたことを動機として、多くのヨーロッパ人がアフリカへの探検に向かうこととなった。16世紀の旅行家・地理学者であるレオ・アフリカヌスが、1512年に繁栄の絶頂にあったソンガイ帝国を訪れて次のような記述を残している。 「トンブト(ママ)の富める王は、金で出来た杯や笏を数多く持ち、その重量は1,300ポンドにもなる(中略)また常時3,000人の騎手を揃え、(中略)さらに多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、彼らは王の財によって手厚く養われている。」 しかし、ポルトガルや他のヨーロッパ諸国から来た探険家や奴隷商人が海路から西アフリカに上陸し、サハラ砂漠を経由しない通商路を開拓するに至って、トンブクトゥは衰退を始めた。さらに1591年にはモロッコ人のスルタンに仕えていたムーア人の傭兵集団に占領されたことが、それに拍車をかけた。後に彼らの子孫は現地の黒人と混合した。1800年代にはキリスト教徒の伝道者が訪れている。』ウィキペディアですが・・・・ 交易収益で王がスポンサーとなり 知的階層を育成したなどと・・・
- Yelm
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トンブクトゥが栄えた最大の理由は北アフリカのイスラム教圏と西アフリカに興った大国(ガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国)との文化の交わる地であり、交易の中心地となったからです。 交易の内容は当然、時期によって異なりますが黄金と岩塩は常に中核だったと言われています。 そしてトンブクトゥは16世紀に絶頂を迎えますが、皮肉にもそれが衰退の呼び水となってしまいます。 トンブクトゥの繁栄を聞きつけたポルトガル商人達は海路で西アフリカに上陸して、サハラ砂漠を通行しない交易路を開拓して交易の利益を奪ってしまいました。 このため16世紀後半にはトンブクトゥは衰退していったのです。
補足
そのような地図を書いて見ましたが、書き方が下手なのと、知識不足であまり伝わらなさそうなものになってしまいました。 この地図が載っているHPなどご存知でないでしょうか?