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仏教徒に食前・食後のお祈りは必要か

私は熱心な仏教徒ではありませんが、京都の本願寺派に属するお寺の檀家になっております。先日、本願寺の食堂にて食事をしましたところ、以下のような紙が置かれていました。  食前のことば み仏とみなさまのおかげにより この御馳走をめぐまれました  深くご恩を喜び  ありがたくいただきます  食後のことば 尊いおめぐみにより おいしくいただきました  おかげで御馳走さまでした 食事の前後にこれを唱和するのだそうです。 なんか笑っちゃいました。まるでキリスト教徒が食前食後にするお祈りみたい。「欧米か!」です。 わたしは普通にいただきます。ごちそうさまでした。は言って食事をします。それで十分じゃないですか。なぜ決まり文句を強要させる必要があるのでしょうか。それから「ご馳走をめぐまれました」「おかげで御馳走さまでした」とは日本語の文法上おかしくないですか? 勉強不足で教えていただきたいのですが、仏教では食事のときにこのような感謝の言葉を言うような教義はあるのでしょうか。 また、せめて正しい日本語に校正いただくよう本願寺にお願いするつもりなのですが、文法として明らかに誤りであることの説明ができるか教えていただけないでしょうか。

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  • amida3
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回答No.2

食事の際「いただきます」や「ごちそうさま」をとなえるのは、日本の素晴らしい習慣です。実はこの元になったのは仏道修行であり、各宗旨宗派とも、それぞれの「食事のことば」があります。 現代では、食事が出来るのが当たり前になってしまっていますが、昔は食事が出来ないのも当たり前で、ましてやお米が食べれるなどまれであったのです。その辺の感覚の違いもあるのでしょう。 浄土真宗本願寺派の現在の言葉は、ご質問のとおりですが、20年くらい前までは (食前のことば)   われ今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とにより、  この美(うるわ)しき食を饗(う)く。   つつしみて食の来由(らいゆ)を尋ねて味の膿淡を問わじ。   つつしみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。「戴きます」 (食後のことば)   われ今、この美わしき食を終りて、心ゆたかにちから身に充つ。   願わくは、この心身を捧げておのが業にいそしみ、誓って四恩にむくい奉らん。「御馳走さま」 でした。「食の来由を尋ねて」みると「仏祖の加護と衆生の恩恵」によって頂いた食事であったという仏教徒としての味わいがあります。 ちなみに <天台宗>は (食前観) 我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵により此の美わしき食を受く。 謹しみて食の由来を尋ねて味の濃淡を問わじ。 謹しみて食の功徳を念じて品の多少を選ばじ。「頂きます」 (食後観) 我今此の美わしき食を終りて、心豊かに力身に満つ。 願わくは此の心身を捧げて己が業に勤しみ 誓って四恩に報い奉らむ。「御馳走様」 <浄土宗> は (食前のことば)  われここに食をうく、つつしみて、天地の恵みを思い、その労を謝し奉る。(または「みひかりのもと、今、この浄き食を受く。つつしみて、天地の恵みに感謝いたします」)南無阿弥陀仏(十念)いただきます。 (食後のことば)  われ食を終りて、心豊かに、力身に満つ。おのがつとめにいそしみて、誓って、御恩にむくい奉らん。南無阿弥陀仏(十念)ごちそうさま。 真宗大谷派 【食前のことば】    み光のもと、われ今、幸いに      この清き食をうく        いただきます 【食後のことば】    われ今、この浄き食を終わりて      心ゆたかに、力身にみつ        ごちそうさま 曹洞宗など禅宗系はお勤めがあり <食前> に五観の偈、食三分の偈(上分三宝 中分四恩云々)  三匙の偈(一口為断一切悪云々) <食後>  普回向(願わくは~仏道を成ぜんことを) とさまざまですが、仏教徒としての領解があります。 合掌

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。宗派によりいろいろな文言があることも教えていただき、大変ためになりました。 食事の前のお祈り?はごく普通にあるのですか。知りませんでした。 このような風習はキリスト教から来ているのではないかな。単にそれを真似しただけではないのかなと思っていたのです。 キリスト教の場合は、(これも受け売りですが)神は自らの姿に似せて人を作り、この世の支配者とした。他の動植物は人間が支配し、生活の糧とした。しかしながら不必要な殺生を戒め、自分が生きんがために他の動植物の命を絶った事を悔い改めるため、そして神への感謝の意を唱えるために食事のときにお祈りをする。 仏教では輪廻転生の考えがあり、人も他の生き物と同等と考える。他の動植物が人間のために存在するかのような傲慢な考え方は無く、殺生への戒めはあっても犠牲になった命への感謝・追悼の気持ちは希薄で食事という行為に対してはあまり重要な意識付けはされていないように感じておりました。手を合わせるのも仏様への感謝というよりもお百姓さん、漁師さん、作っていただいたお母さん、そしてご先祖様 への感謝の気持ちが強かったと思います。

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noname#61690
noname#61690
回答No.4

このご質問、スルーするつもりでしたが締め切られないので少し述べましょう。 作法の文言がしっくりいかなかったようですね。仏教の言葉は99パーセントがしっくりいきません。そんなもんだと思っておきましょう。 本題に入ります。 「いただきます」「ごちそうさま」 お坊さんじゃないのだからそれで十分です。しかし、一般の方に食事(じきじ)作法をしてもらうのは、 「お寺の生活を体験してみましょう。」 という意味合いがあります。もちろん、強制されるべきではありません。 ご指摘の食事作法は茶道、華道等の“お作法”や、コートマナー、テーブルマナーと同じだとおもってください。 それをわかってもらえなかったお寺に問題がありますね。 感謝は、誰かに強要されるものではありません。心をともなわせるために形から入りましょうということですよ。心があれば“いただきます”も“ごちそうさま”も必要はありません。 でも、必要だからやるのではなく自然と口から出るものですよね。 ちなみに、天台宗の「吾今幸いに・・・(No.2は少し間違ってます)」は一般向けの略食事作法で、正式には般若心経等をとなえる“斎食儀”というかなり本格的なお勤めをします。 合 掌

  • yuhkoh
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回答No.3

>>仏教では食事のときにこのような感謝の言葉を言うような教義はあるのでしょうか  質問者さんがご存じないだけで、宗派により作法に差異はあれどもあります。インド仏教時代から行われています。なぜなら食事は仏教では大切な修行の一つだからです。(本願寺さん同様に多くの宗派で、檀信徒向けの略式の「食前(後)の言葉」というものを配布しています)  だからこそ、修行者としての生活・行動の決まりを記す「律(りつ)」でも、食事(じきじ)作法を明確に記されますし、奈良や京都などの古い寺院ほど、僧侶が食事を取る「食堂(じきどう)」は重要な位置を占めます。 真言宗では修行僧が行う正式な「食事(じきじ)作法」では、食堂(じきどう)には文殊菩薩やビンズル尊者を祀り、まずは皇室の弥栄と檀信徒の幸いを祈り、十方三世の仏に祈りを捧げるため読経します。  そして飯の一部を諸々の仏や菩薩、天人、鬼神には感謝のために、さらには地獄道・餓鬼道に堕ちた亡者も平等に救われるように食事を供えます。そして体の中にある多くの命も養うこと。  そして“食事が届くまでにどれほどの労苦があったかを心せよ”・“食事を受け取るにふさわしいほどの善行を行ったか反省せよ”・“必要以上に食を求めないように慎みをもて”・“欲を満たすためでなく、上をしのぎ、体を養う薬としてありがたく食せよ”・”世間的な名誉を捨て、修行に励むための食事であると心せよ”を意味する言葉を唱え(五観偈<ごかんのげ>)、さらには食事によって身を養うことでより修行に専念することを意味する言葉を述べます。これらの作法の際に一つ一つ、願文が唱えられます。 真言宗の五観偈 一(ひとつにには)、巧(こう)の多少を計り彼の来処(らいしょ)を量る 二(ふたつには)、己が徳行の全か、欠か、多か減かをはかれ 三 (みつには)、心を防ぎ過(か)を顕すは三毒に過ぎず 四 (よつには)、正しく良薬を事とし形苦(ぎょうく)を済はんことを取れ 五 (いつには)、道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為なり、世報(せほう)は意に非(あら)ず  本願寺さんの「ご馳走をめぐまれました」・「おかげで御馳走さまでした」。私とは宗派は違いますがなるほどですね。食事を取るのは他者の命を取り、多くの人々の労苦を取っている。そのことを再認識すれば天地の生命に感謝しての言葉ですから、正しい日本語ですね。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 自分は修行をしているわけではないので食事を修行と感じたことはありませんが、食事をいただく時の文言は昔からあったのですね。 正しい日本語とのご判断ですが、 「このご馳走にめぐまれました。」 「おかげさまでおいしくいただけました。御馳走さまでした。」のほうがしっくりくるのですが。

  • zorro
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回答No.1

この世に生きる人間はすべて仏の加護がありそのおかげで生活しているのだという理解があれば、解釈は簡単です。それを批判しても始まりません。そのような決まりがいやなら参加しなければいいのであって、そのような教えを批判できる権利は誰にもありません。

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質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私が小さい頃にはこのような風習はありませんでした。最近できたようです。 感謝の気持ちを持って食事をいただくということは私も理解し、そのように実践してまいりましたが、言葉まで強要されるのは抵抗があります。感情的に拒否することは容易ですが必要であれば理解しようと私なりに考え、このような質問を出しました。お気に障りましたら済みませんでした。 申し訳ありませんが批判する権利は誰でもが有しており、その権利を否定することはできないと思います。

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