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覚悟を持ち得るには
私はある覚悟を持てないでいます。 その覚悟とは、ある使命に命と今後の人生を賭けることです。 理由があり具体的なことはお伝えできませんが、自分以外の命を危険にさらすことなく、他者の命が不本意に不条理に消えるのを防ぐことです。その使命とは、誰かがやらなければならないことであり、しかし絶対的に不可能といえることであり、かつ行為自体は正しいと言い切れうることです。 私自身、自分の思うこの使命は正しいと信じていますし、人から間違っていると言われたことも一度もありません。(おそらく皆さんにお話しても内容を正しいと思われない方は至極少数だと確信します。ご回答頂ける際には正しいことだと判断した上でお願いします)ですが「何故私が」と、どうしても考えてしまいます。ほぼ間違いなく不可能なことなのです。「死にたくない。死にたくない。死にたくない。幸せになりたい。だけど、死なせたくない。皆が幸せであってほしい。」と心の中で二人の自分がいつも戦い続けています。必ず死ぬわけではありません。しかしリスクは桁が違います。私は死にたくありません。ですが、死なせたくもありません。 私は、過剰共感体質です。他人の心痛を他人のものとして、受け流すことができません。おそらく異常だと思います。新聞やニュース、実際に見たもの等、毎日の生活の中でたくさんの人が苦しみ、死んで、殺されたのを見ます。私はその苦しんでいる人、無くなった人、その家族等たくさんの立場に自分を置き換えて苦しみます。自覚的にではなく、気付くと胸がどうしようもなく痛くなっています。頭が痛くなります。当事者の視界で想像しています。車に爆弾を積み自爆するテロリストにも、そうされる軍人にも。一度、幻覚を見るようになったこともありました。戦争で怪我をし、栄養失調で異常に膨らんでしまった腹部と枝のような手足をした黒人の子供が、指をくわえながら、虚ろな薄くなってしまった眼で、私のほうを見続けていました。起きていても、夢の中でも、彼は私を見つめ続けていました。何も言わず見つめ続けていました。何も言う必要が無かったのでしょう。何年か経った今でもその顔は、はっきりと浮かんできます。理由はおそらく世界を少し知ってしまったからだと思っています。 私がこうしてパソコンにむかっている間にも、勝手に悩んでいる間にも、私はその自覚無しにおそらく世界のどこかで未だ見ぬ誰かの命を消す手助けをしてしまっています。私は今まで、一体何人の顔も知らない誰かを殺してきたのでしょう。いくつの家族を不幸にしたのでしょう。日本という国に生きる私は、その存在の存続そのものが「殺すこと」と同義であるのだと気付いてしまいました。 正直に言って、知りたくなかった。そんな咎に気付くことなく、ただ自分とその周りの命の幸せを願って生きていきたかった。ただ日々の平和を願い、生きていきたかった。 しかし、私は知ってしまいました。私は、それを無視するには心の器が小さすぎます。しかし、私は、私たちは、圧倒的に非力です。 ですが、やはり咎を背負ったまま、何の償いをすることもなく、何食わぬ顔をして生きていくことはできません。苦しすぎます。それは自分のことです。ですが、死にたくないのです。「何故私がしなければならないのだ」と考えてしまいます。どうしても考えてしまいます。 多くの人は自分の幸せを純粋に望んでいるように見えます。それを良とし、疑わない、世の中です。不都合なことは「存在させない」世の中です。私も突き詰めれば贖罪願望を満たすという幸せを願っていると言えるかもしれません。しかし、それは詭弁ではないでしょうか。「価値観の違い」と言う絶対の剣を、相手の喉元に突きつけながらの理論ではないでしょうか。それは卑怯ではないでしょうか。 本当はわかっています。「何故私が」ではなく、「誰かが」ではなく、「私は」だという問題であることを。他人や世の中を責める自分の醜さも、臆病さも、幼さも、本当はわかっています。こんな自分が一番恥ずかしくて、一番憎いです。本当に憎いです。 だから皆さん教えて下さい。自分で答えを見つけられない私に、どうか力をお貸し下さい。どうすれば、覚悟を持ちえられますか。 長文読んで頂きありがとうございました。
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- shift-2007
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お礼
>役に立たなければならない。 これも上と同様に考えて事実です。多数がそれを否定しても、私はその多数の否定を否定するので、事実です。 以上三点について、一貫して言いたいことは、人が感情を持つ生き物だということです。感情なしには判断は存在しません。主格が無いからです。ただし、その感情は、言い換えるところの自分という主格は、留まってはいけません。正しいこととは何かを探し続けなければなりません。留まっている主格は、その主格自体が留まっていないものと比較して、正しくはない。しかしここでも、義務感などの根源はやはり感情にあります。ならば感情を信じるしかありません。私が人間だからです。 この私の理論は共感能力によって実感されます。虐げられている他者と同じ状況に立ち、同様に何か大切なものを奪われれば、理性より心が実感します。「嫌だ」と。「こんなことになりたくなかった」と。それは事実です。そう思わなければ、それは大切なものではなかったということであり、同じ状況ではないから、実感はされません。大切なものが何も無い場合は、想像によってそれを補ってもらうしかありません。 そして自分が嫌だと思うことを避けることは、同時に他者についても避けなければならず、その根拠は「感情」、「共感」にあります。 だから私は、自分の感情の、責任放棄に対する覚悟の優位性を認識しながらも、責任放棄に対する大きすぎる感情を実感したために、それを乗り越える方法を教えていただきたくて、このような質問をさせていただきました。 気分、つまり感情の問題ですが、それがこのような問題の根源です。 だから私は、「辛い」「悲しい」「羨ましい」「信じている」「思う」等の言葉を多用し、それに共感してくださることを望んでいます。覚悟についてお尋ねすると同時に、皆さんにも考え、感じていただきたかったというのも事実です。以上です。
補足
解答ありがとうございます。前半です。 shift-2007さんの名前を見たことがあるような気がしていたのですが、私はリンク先のその質問を以前に見たことがありました。そして今回も内容を確認させていただきました。その上で、shift-2007さんの抱いているであろう想いと、私の抱いている想いは違うように思いました。その違いと、shift-2007さんの問いに対して私なりに答えたいと思います。 私は人間です。私がこのような想いを抱くまでにも私は生きてきました。そしてこのような想いを今の私は抱いています。その過程や原因を探ることはできても明確な答えは見つかりません。なぜなら、私は自分が今までどうやって生きてきたのかを完全には覚えていないし、また認識できていないからです。 人は感情を持つ生き物です。ですから、人の全ての行動には何らかの感情が働いていると思っています。客観的に、普遍的に、などということは存在しません。私たちの使う「客観」や「普遍」は、「比較的客観に近いと思われるもの」などであり、「思われる」という時点で「主観」です。自分は自分でしかなく、他人になることはできないからです。もしも万が一他人になりえたとしても、自分から離れられたとしても、それはもはや自分ではありません。感情と人とを、感情と自分とを切り離して考えることはできません。 そうすると、自分にとって何が真実で何が使命なのかは、私の知りえた情報と、貯蓄してきた経験、おかれている状況、今後の予測、そして今の私の感情によるものだと思います。 従って、私たちの生きる人間の社会には、主観を超えたものは存在しません。 以上を根拠としてshift-2007さんの問いに、答えたいと思います。 >信じるという心理の裏には恐怖、不安があるのではないでしょうか。 あります。私が生きてきた中で経験した恐怖や不安が、今の私の一部を形作っているからです。私が優しさに関する信念を抱くようになったきっかけの中で、恐怖や不安は大きな要因であることは容易に感じることができます。「優しさ」という概念自体が明らかに主観を含むものであるので、私の主観として、優しさのあるべき姿が前述したようなものであると信じています。疑っていないという点において、私にとっては真理です。 >”当事者”は事実ですが”思わなければならない”は理想じゃないでしょうか。 事実です。私が理想だとは思わないので、私にとっては明らかに事実です。他者が「それは事実では無いと思っていること」は、私にとっては「責任からの逃避」などと思えるので、同一の事象に関しての見解である以上、他者にとっては「理想」であっても、私にとっては「事実」です。より多くの人間の思うことが「事実」であるのなら、私の言う「思わなければならない」は、「理想」でしょう。ですが私は私の理論を信じています。ですから、事実です。私の信じている「事実」とは、その勢力によりません。