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覚悟を持ち得るには
私はある覚悟を持てないでいます。 その覚悟とは、ある使命に命と今後の人生を賭けることです。 理由があり具体的なことはお伝えできませんが、自分以外の命を危険にさらすことなく、他者の命が不本意に不条理に消えるのを防ぐことです。その使命とは、誰かがやらなければならないことであり、しかし絶対的に不可能といえることであり、かつ行為自体は正しいと言い切れうることです。 私自身、自分の思うこの使命は正しいと信じていますし、人から間違っていると言われたことも一度もありません。(おそらく皆さんにお話しても内容を正しいと思われない方は至極少数だと確信します。ご回答頂ける際には正しいことだと判断した上でお願いします)ですが「何故私が」と、どうしても考えてしまいます。ほぼ間違いなく不可能なことなのです。「死にたくない。死にたくない。死にたくない。幸せになりたい。だけど、死なせたくない。皆が幸せであってほしい。」と心の中で二人の自分がいつも戦い続けています。必ず死ぬわけではありません。しかしリスクは桁が違います。私は死にたくありません。ですが、死なせたくもありません。 私は、過剰共感体質です。他人の心痛を他人のものとして、受け流すことができません。おそらく異常だと思います。新聞やニュース、実際に見たもの等、毎日の生活の中でたくさんの人が苦しみ、死んで、殺されたのを見ます。私はその苦しんでいる人、無くなった人、その家族等たくさんの立場に自分を置き換えて苦しみます。自覚的にではなく、気付くと胸がどうしようもなく痛くなっています。頭が痛くなります。当事者の視界で想像しています。車に爆弾を積み自爆するテロリストにも、そうされる軍人にも。一度、幻覚を見るようになったこともありました。戦争で怪我をし、栄養失調で異常に膨らんでしまった腹部と枝のような手足をした黒人の子供が、指をくわえながら、虚ろな薄くなってしまった眼で、私のほうを見続けていました。起きていても、夢の中でも、彼は私を見つめ続けていました。何も言わず見つめ続けていました。何も言う必要が無かったのでしょう。何年か経った今でもその顔は、はっきりと浮かんできます。理由はおそらく世界を少し知ってしまったからだと思っています。 私がこうしてパソコンにむかっている間にも、勝手に悩んでいる間にも、私はその自覚無しにおそらく世界のどこかで未だ見ぬ誰かの命を消す手助けをしてしまっています。私は今まで、一体何人の顔も知らない誰かを殺してきたのでしょう。いくつの家族を不幸にしたのでしょう。日本という国に生きる私は、その存在の存続そのものが「殺すこと」と同義であるのだと気付いてしまいました。 正直に言って、知りたくなかった。そんな咎に気付くことなく、ただ自分とその周りの命の幸せを願って生きていきたかった。ただ日々の平和を願い、生きていきたかった。 しかし、私は知ってしまいました。私は、それを無視するには心の器が小さすぎます。しかし、私は、私たちは、圧倒的に非力です。 ですが、やはり咎を背負ったまま、何の償いをすることもなく、何食わぬ顔をして生きていくことはできません。苦しすぎます。それは自分のことです。ですが、死にたくないのです。「何故私がしなければならないのだ」と考えてしまいます。どうしても考えてしまいます。 多くの人は自分の幸せを純粋に望んでいるように見えます。それを良とし、疑わない、世の中です。不都合なことは「存在させない」世の中です。私も突き詰めれば贖罪願望を満たすという幸せを願っていると言えるかもしれません。しかし、それは詭弁ではないでしょうか。「価値観の違い」と言う絶対の剣を、相手の喉元に突きつけながらの理論ではないでしょうか。それは卑怯ではないでしょうか。 本当はわかっています。「何故私が」ではなく、「誰かが」ではなく、「私は」だという問題であることを。他人や世の中を責める自分の醜さも、臆病さも、幼さも、本当はわかっています。こんな自分が一番恥ずかしくて、一番憎いです。本当に憎いです。 だから皆さん教えて下さい。自分で答えを見つけられない私に、どうか力をお貸し下さい。どうすれば、覚悟を持ちえられますか。 長文読んで頂きありがとうございました。
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- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
#9です。 なるほど、気持ちは分かる気がします。 同じような気持ちで質問したことがありますので暇だったら見てください。 ただ我々がこの究極の問いをするには準備が必要ではないかと思うのです。答えを求める前に、なぜその問いを発するのかを十分に検証する必要があるのではないでしょうか。そうしないとその答えが心理に利用される可能性があるんじゃないでしょうか。 >「相手の幸せを考え・・・」であると信じています。 信じるという心理の裏には恐怖、不安があるのではないでしょうか。 >私は当事者であるのだ。そう思わなければならない ”当事者”は事実ですが”思わなければならない”は理想じゃないでしょうか。 >役に立たなければならない これは事実ですか、それとも理想ですか?大我、小我で見るとどちらでしょう。 自分の心理、問いの動機、から自由になれますか。それができなければ理想は非現実で、覚悟は気分の問題のままじゃないでしょうか。
再びANo7です。もったいないようなお礼、 こちらこそ平凡なだけで取り柄もない者で 羨まれない様恨まれない様、 充分気を付けていたのに、失敗だったか! knightenさん弱くないですよ! それに身勝手さもお礼から全然伝わりませんでした(笑)。 そんなに自分を責めなくていいじゃないですか。 自分を許せれば他人も許せていくんじゃないかと思います。 私には身勝手な恩師いたのですが、行方不明です。 師匠は死ぬ程明るい人なので もし死んでもあの世でも悩めそうになく、 ずっと心配ないです(オイオイ) アイロニーです。 自分が好きになる瞬間一緒に時空を越えて笑いに来てくれますよ。 knightenさんはストレートですね。 悲しい辛いをそのまま表現されているので 足りないのは強い意志より「ダンディズム」なのかもです。 師匠の教えで世には 「自分より強いか弱いかを決めて態度を変える人種」と 「そうでない人種」の二種類の人種しかいないそうです。 態度を変える人種は、利己心で競うことや 人に合わせることが励みとなって人生を謳歌するでしょう。 そうでない人種は利己心で 嫉妬や恨みや嫌悪することに早々に飽きて 自由を満喫すると思います。 その他の分類では人間関係において 苦悩する原因も理由も整然としないので、 同種で付き合えば楽になると思いますよ。
お礼
(後半です) 「自分より強いか弱いかを決めて態度を変える人種」と 「そうでない人種」 私はどちらにあたるのでしょうか。何を持って強いとするか、「強い者」と「弱い者」にどう接するか。そして「自由を満喫する」ということ。私は哲学的な「自由」だと解釈しましたが、今の私たちにとって自由であるとは。 私は明らかに前者ですね。嫉妬や妬みや嫌悪に操られている。自分も他人も許せずにいる。許すべきではないとさえ思っている。反省しなければならないのかもしれません。 私は現実主義者で夢想家です。存在しない理想を叶える為に、目的の実現の為には、あらゆる策略や謀略をめぐらすつもりでいます。しかし究極的な部分で、人を動かし世界を変えうるのは、純粋な想いなのではないかとも思います。人を信じない者が、人に信じてもらえるのか。信じていると取り繕うには限界があるのではないか。 誰かを憎み許さず信じないことは、誰かを愛し許し信じることよりも簡単です。ここでも私は、逃げているのかもしれません。期待することが裏切られることと隣り合わせだと思っているからです。 カントの言う動機の純粋性が大切であることは理解しています。しかし命は一度きりで、たとえ命が生まれ変わるものだと仮定しても、今のその命は、今の意識と思考と経験と状況にいるその命は、もう二度と存在しません。すると、過程よりも結果です。助けられたか、助けられなかったか。助けられた方に意味があり、できなかったほうに意味はありません。 「強者」と「弱者」。「自由」と「責任」。ずっと考え続けなければならないことなのでしょう。人類の大きなテーマです。 少し脱線してしまった感も否めないですが、人生に対する認識と「私という人物の在り方」。深く考えさせられました。覚悟とは自由と責任と共に存在するのかもしれません。 本当にありがとうございました。
補足
(お礼文前半です) 再度の解答ありがとうございます。 「ダンディズム」かっこいいですね。そうかもしれません。他の皆さんにも教えていただいたのですが、人間は自分の発する言葉に浅からぬ影響を受けるようです。 「無理だ」と思い続ければそう思うようになり、「できる」と思い続ければ、またそう思うようになる。私は元来前向きな方ではないので、何事にもリスクや可能性に注目しがちです。すると自然に発言もネガティブなものが多くなってしまいます。そうしてその声を聞いているうちに、自分の声が無意識に私を方向付けていた部分もあったと思います。 私はこの質問をするまで、この問題を一人で抱えていました。ですから、この質問は私にとっては質問としてだけではなく、抑え続けてきた私の感情を吐露する場所としても使ってしまっていました。やむを得ませんでした。限界だったんです。お許し下さい。実際にストレートな表現が私の意図を皆さんに理解していただく手助けになると思っていたのです。しかし質問文や皆さんの解答に対するお礼の文などを見返してみると、確かにそう感じられるのももっともだと思います。そして私自身が自分の文章に影響されていたのかもしれません。 「ダンディズム」を持つ粋な人間は、辛いはずのことも「辛くない」と言い、不可能だと思うことも「やってみせる」などと言う気がします。そして自分の言葉に責任を持って、それに誠実に取り組むと。そういった発言や行動の中で、自分を鍛え理解し成長するかもしれません。そんな人間が、小粋な皮肉なんて言えたらかっこいいですね。憧れます。
- spitzer3
- ベストアンサー率9% (3/32)
>>ANo.8 お礼 >しかし、たとえ矛盾を含むものだとしても、やらなければならないことだという、私にとっての真実は変わりません。変えられないみたいなんです。滑稽でしょうか。 でも、ずっと、自分を苦しめて人を助けても、将来また苦しくなるかもしれないので、永遠に苦の連鎖に陥る気がするんです。たとえ、死んだ後だろうと苦かもしれません。また、愛する家族を必死の救助をしたところでも、そのあと苦かもしれせん。将来がどうなるかなんていうのは一可能性にすぎないのですから、苦になる可能性はいくらでもあるんだと思います。たとえ、絶対に将来あると言ったところで、それが絶対に存在するような世界じゃないと思います。結局、何をやっても無駄になるという感じです。生きていれば苦はどうしてもつきまっとっちゃもんだと思います。それなら、死ねばいいんですが、肉体が死んだからと言って本当に意識がなくなり死ねるか分からないので、生きるという感じでいいんだと思います。 ですから、どうせ将来も苦なら、私は適当に人を助け、楽になる可能性をできる範囲で上げます。 しかし、苦しか見えなくても人を助けたければ、助ければいいと思いますが。最後はその人その人の判断によりますから。自由にしていいんだと思います。 また、あなたの言う覚悟は永遠にこの世ではできないのかもしれません。そうすると永遠に探し求めて苦しむことになってしまいますよ。諦めた方がいいのかもしれません。どこかで諦めて他の道を探すのも大事だと思いますよ。しかし、別に諦めずに探し求めてもいいですがね。
お礼
解答ありがとうございます。 「永遠に苦の連鎖に陥る」そうですね。というよりも、そうだと思います。「叶わないこと」を「叶えようとすること」はそういうことなのかもしれません。「生きていれば苦はどうしてもつきまとう」これもそうだと思います。仏教の釈迦も一切皆苦と言いましたよね。私は信仰心はほとんどありませんが、決して信仰を否定しているわけではなくて、信じられていないだけです。私の尊敬する、目指すべき偉人たちは、マザーテレサにしろ、シュバイツァーにしろ、ガンディーにしろ、キング牧師にしろ強い信仰心を持っていました。もしも彼らの力にになったのが、私に欠ける信仰であるのなら、私は神を信じられない自分をとても残念に思います。 話がずれてしまいました。人を助けたいのは本当です。しかし私の望んでいることは人を助けること(=償い)だけではないから迷ってしまうんです。もしもspitzer3さんのおっしゃるように永遠にできない覚悟なのだとしたら、諦めるのもいいかもしれませんね。私は永遠にできない覚悟だとは思いたくありませんし、今は思っていませんが、もしも覚悟をできなかったとしても、実際に使命を果たせばいいわけですから。勿論私は苦しむのでしょうが、今から先を見ずに自分を逃げられないように追い込むのも一つの方法かもしれませんね。現在の私がいるこの道も、過去の私が今よりも深く考えずに、「未来の私」つまり「今の私」を追い込んだのだということを今思い出しました。過去の私は、今よりも強かったのかもしれません。だったらこの「今の私」も、自分を追い込んで実際に覚悟なく命を懸けてしまったら、その次の時には、本当の覚悟できるような気も少しだけします。 何かで読んだことがあります。 「考えるだけの天才より、行動する馬鹿が勝つ」 無論私は天才ではないですから、「勝つ」というより「克つ」には、行動するしかありません。すると、目をつぶって走って、ぶつかって、逃げられなくなって、そこから目を開けて立ち向かえばいいのかもしれません。意図的エポケーですね。情けないけれど、この方法が一番現実的な気がしてしまいます。自分を客観的に使えればいいのかもしれませんが、それが正しいことなのか私には判断できません。 spitzer3さんの飾らない意見はとても参考になります。本当にありがとうございました。
- G131
- ベストアンサー率26% (195/746)
何度もすみません。気になったもので。 もう、お決めになっていたのですね。 理由や気持ちがどうあれ、必ず生きて帰ってくることをお祈りしています。 その時は、きっとご自身の価値を見出していることでしょう。 あなたのいるべき場所へ戻ってきてくださいね。 それまで、お元気で!
お礼
「何度もすみません」なんて、とんでもないです。解答本当に嬉しいです。ありがとうございます。 激励の言葉本当に嬉しく思います。ここで大変申し上げにくいのですが、一つ謝罪させてもらいたいことがあります。 本当にすみません。私の曖昧な説明がG131さんの誤解を招いてしまったようです。 私は現在、私の考えるプランの途中にいます。それはNO.6のpyutazさんの解答に対するお礼の文には書いたのですが、私の表現がはっきりしないせいで、実際に命を懸ける場面が間近に迫っていると思わせてしまったようです。本当にすみません。 今の私のするべきことは、覚悟の有無に関わらず一つです。そして命を懸ける場面に至るにはまだ時間があります。おそらく皆さんがお考えになっているよりも、かなり長い時間です。この時間は私がこの道から逃げなくても必要な期間なので、今現在の私は逃げていませんが、感情や使命を抜きに考えれば、まだ逃げるという行為自体は十分に可能です。 しかし私は逃げたくはありません。まだ迷いは消えませんが、いずれ来るその時から逃げないように、覚悟を持てるように、今の私にできる戦いをしようと思います。誤解をさせてしまって偶然に頂いた励ましの言葉ですが、勝手ながら、私の勇気にさせてもらいました。本当にありがとうございました。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
色々な思想をお持ちのようですが、結局は弱い自分を変えたいということじゃないでしょうか。 ・覚悟=自信を持った強い自分 ・過剰共感体質=常に心が不安や劣等感でいっぱいなのでその手の情報に感化されやすい。 ・使命=世の中の役に立てる自分(逆に言えば自分には価値がないと思っている) 色々思うところはあるみたいですが、ひどく平凡でありきたりな悩みに思うんですがどうでしょうか。覚悟以前に自分の心理について理解していないと、すべてが弱い自分からの逃避の手段になるんじゃないでしょうか。
補足
解答ありがとうございます。参考URL読ませていただきました。 確かにshift-2007さんのおっしゃるとおりかもしれません。客観視はできているつもりでいたのですが、やはり自分の心を客観視するのは難しかったようです。私は逃げ道を探しているのでしょうか。 解答を頂いてから、もう一度真に求める答えを考えてみたのですが、私自身はっきりしません。確かに自分は弱いと思う。それははっきり自覚しています。そして、強くなりたいという想いもはっきりしています。ですがそれだけでは割り切れていない部分を感じています。 例えば、「常に心が不安や劣等感でいっぱいなのでその手の情報に感化されやすい」これは、少しずれている気がします。 私は、真の優しさとは 「相手の幸せを考え、なおかつ自分の想像と影響の限界を認識しながら、それでいてその限界を超えようとすること」 であると信じています。この認識からの影響もあると思います。 それと一番の違和感(こちらの説明が足りなかったのです。すみません)は、「感化されやすい」という部分です。私は、「戦争や飢餓など大きな問題を他人ごととしてはいけない。私は当事者であるのだ。そう思わなければならない。それが今の私の最低限の責任だ」と思っていました。今も思っています。そして上記にあるような信念から、そういった話を見るたび、聞くたびに、その痛みを想像してきました。そういったことを重ねるうちに、規模の大きな問題だけではなく小さな問題についても同じように想像するようになっていったように思います。 つまり、不安や劣等感は強くありますが、それが主な理由ではないと思うのです。なぜならば、もしも私が未来への強い意志を、覚悟を持ちえても、過剰共感体質が消えるようには思えないからです。当然現在の私はそれを持ちえていませんから、予測の域を出ないのは言うまでもありません。しかし、私は自分の体質を辛く苦しいものだと思いますし、誰にでもお勧めできるようなものだとも思いませんが、一度なった、というよりも、なりえたこの状態から抜け出していいものだと断言できません。 それとは別に、使命が「世の中の役に立てる自分」だとも、思えません。もしもその世の中というのが「私たちが原因で苦しんでいるひと」を指すのであれば、それは近いかもしれませんが、「役に立てる」ではなく、「役に立たなければならない」のです。 日本で人を殺せば罰せられます。つまり、お金や服役によって償いをしようとするわけです。それと同様に、我々が存在することで殺してきた人々や苦しんだ人々、苦しんでいる人々に、我々は償わなければならないのです(ここで、人殺しの是非を問うつもりはありません)。目に見える世界ではないというだけで無視することは許されません。 しかし、shift-2007さんのご指摘された「自分には価値が無い」というのはとても当たっているように思います。自分にはといういのはまず間違いありませんが、「償いをしていない人々」も私と同じ種類の人間だと思っています。 総括して、確かに私が強くなれれば、ほとんどの問題は解決されます。しかし、そうなれば、今の私が抱いている私の疑問や妬みが全て消えるとは思えません。そういった矛盾をも抱えられる強さを得られればあるいは、そしてその方法が知りたいと思います。 だらだらと書いた割に、要点を押さえられていないのをお許し下さい。返答お待ちしております。
- spitzer3
- ベストアンサー率9% (3/32)
>>ANo.4 お礼 >道が近づいてきた時、大きな覚悟が必要になった時、恐れを抱いてしまった。周りを疎ましく、羨ましく思ってしまった。迷ってしまった。 これって結構自分に無理を強いていると思いますよ。私の信念としては、私に極度に害を及ぼそううとするものがいたら、徹底的に非道とでも言う方法で排除します。もっと冷酷になった方がいいですよ。やらなければ、やられてしまうときもあると思うんです。 >助けたところで楽になれるとは思っていません。というよりも、思えていません。責任を果たさなければと思うのです。がんばりたいです。 私にはこれが矛盾に聞こえてしまいます。責任っていうのは自分が他者から認められて、その他者が自分を必要とするために楽を与えてくれ可能性が高いので、まっとうしたいものだと思うのです。楽を得られそうでもないのに、ただ苦しいだけの責任なんて持つ必要がないでしょ。もし、それでも意味もなく、責任を持ちたいと思うなら、それはガンになって苦しみたいとか、皮をはがされる拷問を受けたいとか、砂漠で水も飲まないで遭難したいというような訳の分からんことになっていると思います。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 「自分に無理を強いている」おっしゃるとおりです。純粋に心から願えていないのは明らかです。私の弱さですね。自覚しています。 「やらなければ、やられてしまうときもある」そうですね。そんな状況あってほしくありませんが、そんな状況だらけだとも実感します。しかし、私たちがこの与えられた環境の中で生きていることは、「やらなければ、やられる」そういうことではないと思うのです。「やってしまうから、やられるものがいる」そんなことだと思うのです。避けられない事象もあるでしょう。ですが、避けられる事象、避けなければならない事象もあると思うのです。特に、私たち「やってしまっている」側の人間には。 「~しなければばならない」ことがある人間には、責任があるのだと私は思っています。持ちたい責任があれば、持ちたくない責任もある。楽を得られない責任もあると思うのです。私たちにとってはただ苦しいだけかもしれないことを、必要とし、待っているいる人たちがいます。そして、私たちがその人たちをそんな状況に追い込んでしまっているのです。これは咎であり、償わなければならない罪です。それは義務であり、そこに責任はあると思うのです。避けていいことではないと。 私は、ガンも、拷問も、砂漠で遭難することも、全てが怖いです。避けられるなら避けます。しかし、その可能性を高めることになってしまうのだとしても、本当は逃げ出したくなることだとしても、やらなければならないことがあると思っています。spitzer3さんには矛盾に聞こえるかもしれません。しかし、たとえ矛盾を含むものだとしても、やらなければならないことだという、私にとっての真実は変わりません。変えられないみたいなんです。滑稽でしょうか。 反抗的に聞こえてしまったかもしれませんが、spitzer3さんがお思いになることを教えていただけたこと、本当に感謝しています。とても参考になりました。本当にありがとうございました。
そうしたいと願うのはそうなること(命掛けの決意を固める) が目標にあるからでなく、 そうしてい続けたくてするのですよね。 本当にしたくてする良い事に一々理由も覚悟も必要ないです。 理由が必要なのは微塵にでも悪事を正当化するためだけに必要です。 ですので、私は無意識に他人を憤慨させたり、 間違いを指摘されたり注意されたりしても素直に認めるし 感謝こそすれ言い訳しません。 言い訳したところで自分や誰の役にも、 誰に無関係でも幸せの恩返しにならない無駄だからです。 「過剰共感体質」というのが本当の問題かもしれませんね。 当然なことと洗脳されている理屈、道理が何一つないこと に気がつくもの哲学の趣きといえますよ。 いつ自分が飽きたり、考え方を変えないという保証は 自分に強い願望があっても 未来というパラレルを神や天地も、 サムシンググレイトに誓って保証できないです。 愛する無責任な相手を変えることより、 「自分は変われない」という執着が見えるなら 時既に終焉の幕が降り始めている証ではないですか。 愛はどんどん変わります。 自分で決めない内に。 しかし愛ほど成長の遅いものもないそう。 子育ては自分の限界を知ることと育児書にありました。 限界を感じながらも子供に親にさせられて、 子供は成長するし、 親も限界を何度と超えていって 随分変わりながら親でありつづけて、 それで子供の愛しさが増して 「子供は生き甲斐、自分だけの人生より楽しみが増す」 になりますよね。 「あんたのせいで苦労した」 をいう親だと自分が良くない親ということを隠したいがために 理由をつけて相手より自分が変わることをしなかった (愛すべきを愛せなかった後悔の気持ちがある) からといえるでしょうね。 覚悟というより大切に想う、愛することが足りているか? ってことに自己満足でいいので、意識を向ければ 愛し方を向こうから教えてくれるのではないかと思います。 見当違い回答な可能性もあります。その時は温かく流して。 一つの答えに結びつかない哲学だからいいじゃないですか;(←言い訳例)
お礼
(以下続きです) miko-desiさんのおっしゃる、世界に絶対はないこと、特に人の心は最も移ろいやすいものの一つであることもわかっているつもりです。しかし、人の心は最も変わらないものの一つであると信じたい自分がいます。たとえ変わっていくものだとしても、変わらない、変えられない、変えてはいけない気持ちがあるはずです。少なくとも私は、今の私が抱いた想いは、「変えてはいけないもの」だと強く信じています。だから、「変えなくてはならないもの」、つまり、私の弱さや、汚さを変えたいと思うのです。 miko-desiさんからすれば、私の愛す対象は無責任なものに見えるでしょう。迷いを抱くということ自体、無責任の動かぬ証だ。そうお思いになられるでしょう。わかります。自分でもわかっています。しかし、それは私の弱さであり、薄情さであって、決して対象が無責任な相手だからではないのです。私に愛があれば、溢れる想いがあれば、迷わないのです。全ては、私の弱さです。 大切なものについて、再度考えるきっかけを頂きました。本当にありがとうございました。
補足
(文字数の関係でこちらと下にわけて、お礼文を書かせていただきました。以下本文です。) 回答ありがとうございます。 文中からお察しするに、miko-desiさんは私の憧れる幸せの中におられるように感じました。「愛すべき」つまり「我が子」を愛し、そして愛されることでお変わりになったと。本当に素晴らしいことだと思います。と同時に、羨ましく思います。あなたのいるそこは、どんなにか素晴らしいだろうと、全く筆舌に尽くし難い。とても眩しい場所に思えます。こんなことを言うとmiko-desiさんがされたであろう苦労や、努力を軽視していると感じられるかもしれませんが、断じてそんなはずもなく、そんな甘くはない部分を含めて憧れてしまいます。 私は、強い人間ではありません。この質問文や回答してくださった皆様に対するお礼文から十分過ぎる程に伝わっていると予想します。 私は人に愛されたい。人を愛したい。そう強く願っています。そこにこそ人間の幸せがあると、固く信じているからです。人は、というよりも動物はみな、守るべき者を得た時、何より強くなれる。生き抜く強い意志を持つ。私は、そう信じています。 しかし私は、愛されることを諦めました。私が欲して欲して止まない愛を、諦めると決めました。私は相手の気持ちを想像します。私の様な、現代人をやもすると人間そのものを憎む人間を、誰が心から愛してくれるでしょう。相手も自分もその何より憎い人間なのです。それは不可能です。ありえないことです。だから、本心を隠しながら生きている私を愛してくれる人がいたとしても、根底を知ってなお愛してもらえるとは思えません。 しかし、もしも、もしも万が一、そんな私を愛してくれる人がいたら。 未来を信じ、人を信じ、私を信じてくれる人がいるとするならば。 私を愛してくれるのだとするならば。 私はその人を愛すでしょう。私の最も憎いものと、私の最も愛しいものは同じだからです。私は、人間が大嫌いで、人間が大好きです。きっと何より大切に思うはずです。思うと確信します。しかし、だからこそ、人生を共に歩むことはできません。私の身勝手な生き方に付き合わせるわけにはいきません。私の選んだ道がその大切な人を不幸にするかもしれないと思うからです。絶対ではなくとも、より高い可能性で不幸を覚悟しなければなりません。こんな私を愛してくれるかけがえのない人には、押し付けだとはわかっていても、私の思う幸せを手に入れてもらいたい。たとえその時私が隣にいられなくても。そう思います。 だから今の私は、そのような人、月並みの言い方をするならば「運命の人」と、出会わないことを願うばかりです。私には、その人を遠ざけた孤独は、今の孤独よりも強く深く切ないものだと思うからです。
- pyutaz
- ベストアンサー率27% (13/47)
>どうすれば、覚悟を持ちえられますか。 やるかやらないかを決めればいいだけです。 いかなる事をしたいのか、それは分かりませんが、それによってあなたが死ぬと誰が決めたのですか? あなたが勝手に想像しているだけです。 生きるも死ぬも、あなたがいくら考えた所で仕方のない事です。 生き抜く時には生きるでしょうし、死ぬ時には死にます。 こう考えようが、ああ思おうが、生死には一切関係ありません。 ですから、生死がどうこう考えている暇があれば、どうやるのかプランでも練りなさい。 あなたのやりたい事は、自分が使命に向かう事によって自分が死ぬのか生きるのかを知りたいのですか? そうではなく、使命を果たしたいのでしょう? なら、生き死になど考えるだけ無駄です。 死にたいなら、死について考え続けなさい。 やりたくないなら、自分には出来ないと思い続けなさい。 使命を果たしたいなら、全力を持って使命だけに集中しなさい。 死ぬとか不可能だとか、いらない事を考え過ぎです。
お礼
(続きです) しかし、私は弱い。弱いんです。「もしも」と勝手に想像し、恐れてしまうのです。自分でも本当に情けないです。あなたのような方にお話しできる誠実な理由は、全くありません。ただ、この使命を自分の幸せだと確信できないでいるのです。このような私にとっては許せない世の中で、私が偶然に持つことのできた、たった一度の私の人生を、かけることが怖い。無駄なんじゃないだろうか。普通の幸せを得たい。気付きたくなかった。そう思ってしまいます。みんな卑怯だ。そう押し付ける自分がいます。本当に情けないです。恥ずかしいです。のうのうと生きていることが恥ずかしいです。 でも、私は生きていたい。 死にたくない。 幸せになりたい。 そしてそれは自分だけではない、誰もが抱く想い、願うことを許された想いだと確信します。「ああ、やっぱりみんな生きていたいはずだ。死にたくないはずだ。幸せになりたいはずだ。絶対にそうだ」こう思います。 pyutazさんのおっしゃる、自分の想いを変えようとすること。強く強く想うこと。今からやっていこうと思います。
補足
(文字数の関係でこちらと下にわけて、お礼文を書かせていただきました。以下本文です。) 厳しく、しかし強い力を持った回答ありがとうございました。 骨身に染みました。経験者の方であるとのことで、さらに自分を恥ずかしく思います。本当にすみません。 確かにpyutazさんのおっしゃるとおり、やるかやらないかを決めれば、決められれば、覚悟を持てるでしょう。覚悟をし決めるのではなく、決めると覚悟ができると。 プランは決めてあります。加えて、もうそれに乗ってしまいました。半端な覚悟のままで。今なら降りることができる、そんな位置です。卑怯ですね。ですが今のプランでは、覚悟を持てなくても、持ちえても、今やることは変えられない位置です。詳しくお話できず申し訳ありません。 おっしゃることわかります。やる前に生き死にを考えることは愚かかもしれません。少なくとも経験者であるあなたにとっては、単なる臆病者、口だけの最低な卑怯者に見えると思います。経験者ではない自分ですらそう思います。やらないなら黙っていろとお思いになられるかと思います。本当によくわかります。
- G131
- ベストアンサー率26% (195/746)
ANo.2です。お礼ありがとうございます。 >「生き抜く決意」と「死ぬ覚悟」。私には切り離して考えることができません。 そのとおりでしょう。 ご自身が仰ってるように意志の問題では。 義務感や使命感(死)が先行して、意志(生)が弱いのですね。 死を覚悟するには、死<生しかないと思います。 だって、わざわざ死にに行くわけではないのですから。 死んでもやり抜く、という決意がない限りおやめになったほうが良いのではないでしょうか。 あるいは、安全な所でもできる、小さな一歩を考えてみたらどうでしょう。
お礼
再度の回答ありがとうございます。 「死を覚悟するには、死<生しかないと思います」 そうですね。死んでもやり抜く。死んでも死なない。などという一見矛盾するかのような強い意志、理屈を超えた精神的な何か。それがあれば、「生き抜く覚悟」と「死ぬ覚悟」二つを同時に持ちえるのでしょう。確かにそうです。私もそんな何かが欲しいです。 G131さんの実際的な助言を深く受け止めます。ありがとうございます。しかし、自分の何かを賭けずして、何かを得ることができるのか。不可能と思えるものと、戦えるのか。そう思うと、私の選んだ道、必要な覚悟。この二つは絶対条件であると思うのです。私は、戦わなければなりません。それが、この想いを抱いた者の、今までここで生きてこられた者の全ての、責任だと思っています。 私の責任を改めて認識することができました。逃げないように、迷わないように、がんばります。本当にありがつございました。
- spitzer3
- ベストアンサー率9% (3/32)
人を完璧とまでいうほど助けなくちゃいけないと思いすぎなんじゃないんでしょうか? 天上天下唯我独尊だと思いますから、人を助ける行為というのは自分を楽な方に行かせる行為なんだと思います。 きっと、自分を苦しめてまで、その楽を得ようと努力しすぎなんだと思いますよ。 確かに人を助ければ、自分が楽になる可能性が高いが、人を助けることで、自分が辛い目に合う可能性もあるんだと思います。 人を助けたところで楽になるとは限らないから、適当に助けておこうってな感じでいいんじゃないんでしょうか? まあ、ときには、がんばっちゃってもいいですが。
お礼
回答ありがとうございます。 おっしゃるとおりかもしれません。私も以前から人助けは自分の為の行為、つまり自己満足でしかないのだと考えることがありました。 誰だって自分の目の前で人が血を吐いたりしたら、ほぼ迷わず助けを呼ぶでしょう。結果その人が助かれば、そのひとがその後何も言ってこなくても(お礼などを言われなくても)満足できるでしょう。つまりspitzer3さんのおっしゃる心の平安を求めたのだと。理解できます。理解していました。高校生の時にこれに気付いた時、最初私は一つの真理を発見できたと本当に喜びました。これで相手に見返りを期待せず優しくなれると信じました。ですが、道が近づいてきた時、大きな覚悟が必要になった時、恐れを抱いてしまった。周りを疎ましく、羨ましく思ってしまった。迷ってしまった。 助けたところで楽になれるとは思っていません。というよりも、思えていません。責任を果たさなければと思うのです。がんばりたいです。 参考になりました。本当にありがとうございました。
お礼
>役に立たなければならない。 これも上と同様に考えて事実です。多数がそれを否定しても、私はその多数の否定を否定するので、事実です。 以上三点について、一貫して言いたいことは、人が感情を持つ生き物だということです。感情なしには判断は存在しません。主格が無いからです。ただし、その感情は、言い換えるところの自分という主格は、留まってはいけません。正しいこととは何かを探し続けなければなりません。留まっている主格は、その主格自体が留まっていないものと比較して、正しくはない。しかしここでも、義務感などの根源はやはり感情にあります。ならば感情を信じるしかありません。私が人間だからです。 この私の理論は共感能力によって実感されます。虐げられている他者と同じ状況に立ち、同様に何か大切なものを奪われれば、理性より心が実感します。「嫌だ」と。「こんなことになりたくなかった」と。それは事実です。そう思わなければ、それは大切なものではなかったということであり、同じ状況ではないから、実感はされません。大切なものが何も無い場合は、想像によってそれを補ってもらうしかありません。 そして自分が嫌だと思うことを避けることは、同時に他者についても避けなければならず、その根拠は「感情」、「共感」にあります。 だから私は、自分の感情の、責任放棄に対する覚悟の優位性を認識しながらも、責任放棄に対する大きすぎる感情を実感したために、それを乗り越える方法を教えていただきたくて、このような質問をさせていただきました。 気分、つまり感情の問題ですが、それがこのような問題の根源です。 だから私は、「辛い」「悲しい」「羨ましい」「信じている」「思う」等の言葉を多用し、それに共感してくださることを望んでいます。覚悟についてお尋ねすると同時に、皆さんにも考え、感じていただきたかったというのも事実です。以上です。
補足
解答ありがとうございます。前半です。 shift-2007さんの名前を見たことがあるような気がしていたのですが、私はリンク先のその質問を以前に見たことがありました。そして今回も内容を確認させていただきました。その上で、shift-2007さんの抱いているであろう想いと、私の抱いている想いは違うように思いました。その違いと、shift-2007さんの問いに対して私なりに答えたいと思います。 私は人間です。私がこのような想いを抱くまでにも私は生きてきました。そしてこのような想いを今の私は抱いています。その過程や原因を探ることはできても明確な答えは見つかりません。なぜなら、私は自分が今までどうやって生きてきたのかを完全には覚えていないし、また認識できていないからです。 人は感情を持つ生き物です。ですから、人の全ての行動には何らかの感情が働いていると思っています。客観的に、普遍的に、などということは存在しません。私たちの使う「客観」や「普遍」は、「比較的客観に近いと思われるもの」などであり、「思われる」という時点で「主観」です。自分は自分でしかなく、他人になることはできないからです。もしも万が一他人になりえたとしても、自分から離れられたとしても、それはもはや自分ではありません。感情と人とを、感情と自分とを切り離して考えることはできません。 そうすると、自分にとって何が真実で何が使命なのかは、私の知りえた情報と、貯蓄してきた経験、おかれている状況、今後の予測、そして今の私の感情によるものだと思います。 従って、私たちの生きる人間の社会には、主観を超えたものは存在しません。 以上を根拠としてshift-2007さんの問いに、答えたいと思います。 >信じるという心理の裏には恐怖、不安があるのではないでしょうか。 あります。私が生きてきた中で経験した恐怖や不安が、今の私の一部を形作っているからです。私が優しさに関する信念を抱くようになったきっかけの中で、恐怖や不安は大きな要因であることは容易に感じることができます。「優しさ」という概念自体が明らかに主観を含むものであるので、私の主観として、優しさのあるべき姿が前述したようなものであると信じています。疑っていないという点において、私にとっては真理です。 >”当事者”は事実ですが”思わなければならない”は理想じゃないでしょうか。 事実です。私が理想だとは思わないので、私にとっては明らかに事実です。他者が「それは事実では無いと思っていること」は、私にとっては「責任からの逃避」などと思えるので、同一の事象に関しての見解である以上、他者にとっては「理想」であっても、私にとっては「事実」です。より多くの人間の思うことが「事実」であるのなら、私の言う「思わなければならない」は、「理想」でしょう。ですが私は私の理論を信じています。ですから、事実です。私の信じている「事実」とは、その勢力によりません。