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人の行動の分析

 ある高校生二人(仮にA、Bとしておきます。)は仲良しで、毎日一緒に登校しています。昨日は朝の電車で他の友人も一緒になり、話しが盛り上がってしまい、大きな声で話していたら隣のおじさんに『うるさい!』と怒られました。でも、自分たちが大きな声で話したり、笑ったりするのは、それ程悪いこととは思いません。なぜなら、電車は皆で同じようにお金を払って乗っているのだから、そのおじさんの物ではないし、大きな声が嫌なら、その人が他の車両に移ればいいことで、そんな人は結構いるものだと思うから・・・。  今日は、駅から学校までの道を皆で楽しくお喋りをしながら歩いていたら、後ろから来たおばさんに『道を通して』といわれて、嫌な顔をしたら『皆で広がってダラダラと歩かれて、しかも必要以上に大きな声で話したり笑ったりされることはとっても嫌な気分になるになるから、あなた方はマナーが悪い』と怒られた。でも、そんなことで注意するおとなは少ないし、私たちだって楽しくやっているんだから余計な御世話だと思う。昨日も、今日も知らない人が文句をいうなんて・・・ムカツク! さて、彼女たちの行動を皆さんなら、どう分析しますか? 精神の健康、適応機制などなど・・・ また、皆さんが友人であった場合どのようなアドバイスをしますか?

みんなの回答

回答No.6

前略 ★年輩の人に頭ごなしに言われるとムッときますね! これは、親もしくは学校の先生から頭ごなしに言われて納得出来なかったことが記憶にあり、年輩からの頭ごなしのセリフで過敏に反応するのです。 ここで、論理的にうまく、その年輩をやり込められたら、スッとしておさまるのですが、反論できなかったら、『普段、彼女達の周囲にいる親や先生からの頭ごなしのセリフに負けてしまった』ように感じ、自分に対してハラが立つのであると考えられます。 ★それでは、なぜ、おじさんやおばさんが文句を言ったのか? おじさんやおばさんも学習してるのです。 『公共の交通機関や道路で、そのような行為を行って、誰か(一人でも)こまっている人がいても気付かない人』→ 『気配りの出来ない人』→ 『おじさんやおばさんの周囲で気配りの出来ない人がいて、その人が、いつも、おじさんやおばさんをイライラさしている。』 ですから、(Aタイプ)彼女達を自分の子供のように思い、そのような大人になってほしくない親心。(Bタイプ)普段、そのような人に負けているので、うっぷんばらしに文句を言う。以上の2通りの人達がいると考えられます。 (Bタイプ)は、高校生もなる可能性があります。中学生達が道をふさいでいると、同じ行動を取る。。。 ★以上より、彼女たちの行動は、『頭ごなしに言う周囲の大人(親や先生)に対するコンプレックスが乗り越えられないことに対するストレス』であると考えれます。 ★さて、私が友人だったら、『普段から、公共の場で、おじさんやおばさん達の行動でいやになる場面を観察して反撃のためのネタにしましょう!』と言いますね。 例えば、道路を塞いでいることで注意されたら、『おばさん、ごめんなさいネ!先日、私の家の前で大きな声でおしゃべりしているおばさん達がいて迷惑したけど、私もそんなおばさんみたいになるとこでした。それって、おばさん達じゃないの?』とか笑って言うと突然の反撃におばさんは言葉がつまります。。。 色々な人と会話するようになると(ボランティアやイベント企画に参加したり。。。)、口がうまくなるんだけれど。。。 ではでは!

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回答No.5

nami_maryさん、はじめまして。 この文面だけだと、言葉が平面的ですね。イメ―ジが限られたものを想定しやすくなりますね。おじさん、おばさん、女子高生たちの表情なり言葉の抑揚、その場の空気がどのように流れていたという点が欠落しています。このような状況で彼女たちの行動を分析することで何を導き出そうとされているのですか? いまどきの女子高生は、ってあたりですか? 架空のイメ―ジの植え付けになるような気がして少し心配です。 余計な書き込みになりましたらご容赦ください。

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noname#1976
noname#1976
回答No.4

別に悪いとは思いませんが(誰でも若い頃ならそんなもの。私だってそうでした。)、しゃべりたい人の気持ちを保護するのなら、それに対して怒りたい人の気持ちも保護すべきです。 >知らない人が文句をいうなんて・・・ムカツク! 怒る方の気持ちは「知らない奴らがうるさいんで・・・ムカツク!」です。 別に道徳でも倫理でもありません。 全ての乗客に同じ権利があるだけです。 自分たちが騒ぎたくて騒いでいるのなら、怒りたくもないのに怒ってしまう人の権利は当然認めるべきで、おしゃべりしたかったらその人にここで文句を言わずに勝手にやればいいのです。で、文句があったらそのオジサンに直接言えばいいんじゃないですか? でも、そこに私のような短気な人間がいたら大声で「うっるせえよ、おめえら!黙れ!」って怒鳴るでしょう。 これ、私の権利です。 こんなところで「ムカツク!」なって言ってないで、怒られたら、舌でもペロっと出して「ふんっ」とか言ってまた騒げばいいんですよ。 大して目くじら立てるほどのことでもないんですから。

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noname#50891
noname#50891
回答No.3

先に断っておきます。私は真面目に回答しています。信じてください! >さて、彼女たちの行動を皆さんなら、どう分析しますか? 質問文を読むと、彼女たちに関することは多少出ていますが、 おじさん・おばさんについてや、周囲の状況についての情報は、ほとんどありません。 このまま分析するのは、うーん、どうでしょう? そんなことはない! とnami_maryさんは思われますか? 私はそうは思わないです。 例えば、 もしもこの「彼女たち」を、 北島マヤや、姫川亜弓が演じようとしたならば、 きっと同じような疑問を持つと思います。 『彼女はどんな子かしら? 電車ってどんな電車?、おじさんって…??』と。  北島マヤの顔には、複数の直線が浮ぶでしょうね…。 『私の選んだ紅天女候補達は…』と月影先生も御満悦……、って、話がそれました。 失礼しました。(マンガ『ガラスの仮面』を知っている方だけ付いて来て下さい) とにかく、情報不足は否めません。 よって私の回答は「観察不足・情報不足のため、分析は難しい」です。 >また、皆さんが友人であった場合どのようなアドバイスをしますか? ええと…。 この質問文には、友達A,B,途中参加の友達,の3人がいます。 問いの「友人であった場合」の「友人」が、誰の立場である時を指すのか、または、 新たにこの3人に自分が加わると考えるのか、などの部分が不明です。 さらに「アドバイスをせよ」との問いですが、友達A,B,途中参加の友達の 各個人に対してアドバイスをするのか、うち1人を選んでアドバイスするのか、 または一度に全員に対してなのか、などの部分も不明です。 つまり、どちらの問いも[Who]の部分が、ぼやけています。 これを踏まえて、私の回答は以下の通りです。 「質問中の[Who]の部分が曖昧で、回答は難しい。  なお、この質問は求めているものは、その回答内容ではなく、  『回答者がどんな立場を選んで回答するか』である可能性を否めない。」 よくありますよね。質問自体はどうでも良くて、その質問に答える様子を、 実験対象にしている心理実験って…。 それなのかな? 以上、こんな回答ですが、何かの足しになれば…。 ちなみにこの質問って…宿題かな?(^^;)

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  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.2

きっと僕はアドバイスはしないなぁ。 僕が彼/彼女らの「友人であった場合」、「仲良しで、毎日一緒に登校」する仲であれば、彼らと同じことをやってると思うんです。それほど仲が良いわけでない場合は、たぶんそんなにかかわろうとは思わないだろうから...。でも、「仲良しで、毎日一緒に登校」する仲で、ふっと人の迷惑になるようなことをじぶんはしてるんだ、って気付いてしまったら、じぶんから止めるようにします。迷惑だよって注意するより、じぶんが声のトーンを落としてしゃべれるほうが多少は効果があるでしょうから。まぁ理想です。たぶん僕が彼らの友達だったら、気付かないし、気付いてもやめようとはしないでしょう。意志が弱くてごめんなさい。 それと彼らの行動の分析ですが、アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンの考え方が有効であるように思います。 ゴフマンは、電車の中や路上など複数の人が居合わせるなんらかの場面があったとき、その事態を人々の「共在」と呼び、そこには共在ならではの秩序があると言います。たとえば、電車の中で、僕らは唐突に他人に話し掛けたりしません。お店の中でもそうです。「いけない」という法律はありませんが、ふつうはしません。まるで、そういう暗黙のルールがあるかのようです。僕は、本屋さんで宗教関係の人に話し掛けられたことがあるんですが、めちゃくちゃびっくりしたことがあるんですが、それはもちろん、こういった秩序が破られたからびっくりしたんですね。これが路上だったら、いくぶんかはびっくりの度合いが薄れたかも知れません。路上なら、アンケートや募金、ティッシュの配布など、僕らに接触を試みる人は本屋さんの中より多いと、他ならぬ僕ら自身が知っているからです。こういう共在空間の独特の秩序をゴフマンは「相互行為秩序」と呼びました。僕らは、共在の空間に在って、会話やジェスチュアのような意識した場合だけでなく、そこにいるという、そのことだけで、他人に何かを伝えているものなのです。パンチパーマにサングラスでちょび髭、紫色のスーツに金色の指輪...なんて格好で歩いていたら、そりゃ何ごとかことばならぬメッセージを受け取って、僕らは無言で道をあけますわな(笑)。 ちょっと前置きが長くなりましたね。高校生たちが電車の中で声が大きくなってしまう(僕はファミレスで怒られたことがあります、もう高校生じゃなかったんですが...)、道に広がってだらだらと歩いてしまうという場合、秩序を乱されたのはおじさんやおばさんです。彼らの秩序は乱されていません。しかし、注意されたり、怒られたりしたとき、彼らの秩序が乱れます。ここで、彼らは反発心を喚起されています。「大きな声が嫌なら、その人が他の車両に移ればいい」とか「そんなことで注意するおとなは少ないし、私たちだって楽しくやっているんだから余計な御世話だ」と感じている。社会学的思考は、このとき、彼らの論理には興味を抱きません。大事なのは喚起される感情です。彼らは思うだけで、その先に行動はないようですが、ひどい場合、注意した人にキレて、「うるせー」と返してみたり、ぼこぼこにしてしみたり、実際に図書館でホームレスの男性に注意された中学生があとでその男性の寝ているところを襲撃して殺してしまったという悲惨な事件もありました。 これにはフランスの社会学者エミール・デュルケムの「人格崇拝」という考えが参考になります。「人格崇拝」とは、神への信仰にかわる新しい道徳です。デュルケムによれば、人々は神への信仰を薄くした代わりに、個人の人格を崇拝し始めたというのです。一見、大変良いことのように思います。僕も、格別に悪いこととは思いません。でも、じぶんに厳しい人は他人にも厳しいというように、他人の人格を厳しく崇拝する人は、同じようにじぶんの人格も崇拝されていなければいけない、と思う人のようです。人格崇拝が現代社会において過激に厳格に進行していると考えたのは、『自己コントロールの檻』(講談社)という本を著した森真一さんという人ですが、彼によれば「キレやすい」人が多くなったというのは、人格崇拝が進行したためらしいです。nami_maryさんの例に挙げられている高校生たちの場合、キレルとまではいかないまでも、人格を傷つけられたと思っている傾向は見られますよね。 今までの議論をまとめると、(1)共在世界へのかかわり方の世代間ギャップ、(2)人格崇拝の厳格化があるということになります。ここから考えても、僕は上のようなアドバイスしか思いつきません。どんなに正しいことでも「昨日も、今日も知らない人が文句をいうなんて・・・ムカツク! 」と捉えられてしまえばもともこもありません。もしも直接に注意しなければならないとなると、せめて聴いてもらえるような環境と関係が必要だと思います。そういえば、下でparadisoさんが答えてらっしゃることも同じようなことのような気がします。

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  • paradiso
  • ベストアンサー率27% (44/159)
回答No.1

利己主義的な行動だと思います。 つまりは自分とその身近な仲間達の間でのルールが世の中全てのルールであり、そのルールから逸脱した物は不適合とみなし、自分たちの概念に置き換えて「何故わたしたちのように考えられないのか」と考えてしまう。 若い人のみならず、行動範囲の狭い人、人付き合いの少ない人、視野が狭いと言われる人、了見が狭いと言われる人などにこういうケースが見られがちです。 また世代事に「社会常識」の捉え方が異なるので、大人の理論を以て説得するのは難しいとも思われます。 知人のいない場所での共同生活などを経験すると理屈以前に身体で理解するとは思うのですが、それもなかなか機会が与えられないかもしれません。 学校に遅刻しそうなとき、道をがやがや楽しそうにのんきに歩いている人たちに塞がれてなかなか先に進めなかったらどう思う? と問うて「ムカツク」と言われたら「後ろからきたおばさんも同じ気持ちだったと思う」とたとえ話ができれば良いのですが、利己主義が強いと「おばさんと自分たちは人間が違う」など論理のすげ替えをしかねません。 行動連鎖の一例などを挙げて、「~したこと」がとんでもない大惨事につながる、などの説明もやや効果的かもしれません。 「そんなことあるわけない」と言われたら「もし、なったらどうする。誰が責任をとるのか」という質問だけ投げかけて答えを聞かないのも効果的かも。 仲間が集まると共同意識が働いて気持ちが強くなります。 また、ご存じのように共同体を分散させると自己主張の力が弱まります。 アドバイスにより更正めいたことをさせたいのであれば、一人一人別々に理解させて、群れさせないようにすることが得策かと。

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