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(^_^.) 数学がよくできる人って、ほんとうに頭がよい人??

 数学をべんきょうすると、ものの見かたが単純で、ひとりよがりで、心のせまい人間になるような気がするんですが……  たとえば数学では、X、Y、Zと、三つくらいの変数と、いろんな記号をつかって、あれこれ式を変化させるようなことをよくやりますが、世のなかとか、大自然というものは、とても三つくらいの変数で表現できるものではなく、まあ、変数は無限にあるというのがほんとうのところじゃないでしょうか?  一つのゲームとして、変数を少数にしぼる……そうでないと数学というゲームが成立しない……それはそうかもしれませんが、変数の少ないことが視野の狭さにつながって、たとえば“企業の利益を最大に-----”という単純で利己的な方程式のために、有害物質をどんどん海にたれながし、世界じゅうの海底をヘドロで埋めつくすようなことを、結果的にやりかねないんじゃないでしょうか?  生態系への影響という、とても重大な変数要因を無視したために-----  ちょっとおおげさかもしれませんが、私はいまどきの人間がおちいっている数学信仰のようなものを捨てないかぎり、人類の未来はないのじゃないかなあ、とかんがえてますが、どうでしょうか?  まあ、適当につかえば、数学的なものも有効であるとは思いますが-----  わたし的にいえば、数字とか記号とかをいろいろ小手先でいじくりまわして、りくつみたいなことをこねくりまわす感じの数学というものは、どうも好きになれないんですが……  

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  • aster
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回答No.16

  簡単に述べたく思います。この質問を読みまして、昔、或るかなり有名な数学者が随想で書いていたことを思い起こしました。質問者の記していることは、かなり乱暴な話なのですが、「エッセンス」において、その数学者の書いていたことに通じるように思えるのです。 数学者は、西欧中世においては、「知識人・教養人」としての必須条件は、「ラテン語を自在に使えることであった」と述べます。そして、現代では、それが「ラテン語」ではなくなり、「数学」になっていると指摘します。 これはどういうことを述べているのか、何を批判しようとしているのかです。わたしの理解するところ、「数学」は、「ファッション」の可能性が高いということです。しかも、「権威を持つファッション」なので、色々な政治的経済的理由での不合理な、一部の人間に都合のよい理屈の「根拠」として使われる可能性が大きいのです。 明確に認識し、また指摘せねばならないことは、「数学」は「論理」とは異なるということです。「メタ数学」とか「記号論理学」を通じて、「論理学」と「数学」は、二十世紀において、かなり接近しましたが、逆に、数学と論理は別のものだということが明らかになったとも言えます。 細かい話は省きますが、「論理的」であることは、真偽の判断において重要です。西欧中世は、ラテン語の教養が、人に論理性や適正な判断力、更に「智慧」を与えると考えたのです。現代において、「数学」に通じていることが、「論理的」な思考ができるかのような錯覚があります。 実は、これは「錯覚」と言ったように間違っています。丁度ラテン語の文法に詳しくなり、慣用表現を多数知れば、見事なラテン語の文章が書けるようになるように、数学も、その公式や、理論構成法を知ると、「もっともらしい理屈」で議論ができます。 勿論、「もっともらしい」だけでなく、「論理性」も数学には含まれます。しかし、人間の「判断行為」で必要なのは、真偽だけでなく、善悪判断も必要なのです。西欧中世のラテン語教養は、古典的真偽判断能力と、善悪判断能力の「規範」というものを内含していました。 今日の「数学」には、真偽判断能力を向上させる規範があるかといえば、実は「ない」と言わざるを得ません。初等数学や中級数学なら、真偽判断が学習者にもできますが、あまりに錯綜した数学は、「論理思考」の訓練には役立ちません。 「論理」とは、多くの人にとって妥当明証とされる思考の道筋で、素晴らしく優れた数学者でないと真偽判断ができないような証明問題などは、論理思考にとって意味がないのです。数学の持つ「論理性」とは、実は非常に原始的なものだとも言えます。 「論理」というものは、レゲイン(語る・整理する)から語源が来たように、ものごとを整理する技術のことでもあるのです。「ものごと」というのは、数学的に特化された抽象対象ではないのであり、具体的に、人生において出会う様々なできごと・ものごとを、どう「論理的に」扱うかということが問題なのです。 数学は、このような、生きるため、社会を構成し維持し、調整するための、きわめて複雑な「論理」を、あまりに難しく、主観的に色々なことが考えられるという理由で、廃棄し、きわめて「狭い形式の論理」だけを残し、この狭い論理を元に、非常に精緻なシステムを造ったのだとも極論すれば言えます。 人が生きて、社会においてどう参加し、社会をどう運営するかは、広義の「論理」が必要になります。この「広義の論理」というのは、「悟性の論理」だけではなく、「理性の論理」あるいは中世哲学的には「知性の論理」のことです。 数学をマスターし、駆使するには、スキエンティア(技術的知識)と技術的論理があればよいことになります。非常に高度に抽象化されていますが、それはやはりスキエンティアなのです。数学が得意な人というのは、決して「論理一般」が得意な人ではなく、数学的スキエンティアの論理あるいは理屈が得意な人となります。 しかし、人間の社会や人間の関係は、こういう抽象的スキエンティア論理では、どうしようもない面があるのです。必要なのは、スキエンティア(知識)もそうですが、叡智(サピエンティア)なのです。 論理は、本来、価値や倫理や善悪を判断するサピエンティアの領域でこそ考えられて来たのですが、「数学的論理」というのは、数学的思考の道筋を示すだけで、人間や社会にとって重要な「論理問題・倫理問題」には適用がきかないものなのです。 原子爆弾を造ることを可能とした物理学者には責任はなく、むしろ、それを殺人兵器として利用しようとした政治家や経済人が、その倫理性や責任を問われるという理屈は長く主張されましたが、わたしの考える限り、こういう主張による、「物理学・科学の中立性」は詭弁だと思います。 同様に、数学理論は色々応用できるのであり、それは良い目的にも悪い目的にも応用出きるので、数学は、「中立」であるという主張も詭弁であると思います。 物理学者にせよ、数学者にせよ、自分が築いている抽象理論が、政治家や経済人の目で見ると、どういう応用があり、それがどういう結果をもたらすか、「想像できない人」は、やはり、「智慧ある人」とは言えないでしょうし、そのような理論を開いたことの結果によって「悪」が生じれば、その責任を担わねばならないと思います。 科学や科学者は「中立」ではないのです。自分が理論を造らなくとも、やがて誰かが理論を造るだろうから、自分に責任はないと言う「論理」は、自分が爆弾を落とさなくとも、軍や政治家の命令を受けた別の軍人が爆弾を落とすだろうから、何千人もの人命を奪う空爆を実行しても、自分に責任はないとする軍人の自己正当化の「論理」と形式的には同じものでしょう。 科学・技術・軍事・経済・政治は密接に関係しており、数学も科学の基礎学問としてこの関係の網に入っており、「中立」だとは言えないのです。 「論理性」については、数学者の論理は、現実社会や人間関係に具体的に適用が困難であり、ガリレオの頃はまだ、論理は現実社会に応用がきいたが、現代の数学者が守ろうとする「論理」は、現実社会への適用性がきわめて小さいというか貧困であるということが言えるでしょう。 数学の論理は、現実への適用を忘却して抽象化しているとも言えるのです。数学によって、物理学や生物学の正確な計算が可能となると言っても、誰がその計算結果を利用するのかです。 わたしは質問者の思考が、かなり乱暴な点は認めますが、直感的に、数学や科学の「中立性」や、実用にならない「智慧なき論理性」の持つ欠陥を指摘し、危惧した内容の主張だと思います。よって、以上のように回答します。 「論理的思考」というのは、言語思考と密接に関係し、価値判断や倫理の問題が関係し、記号論理学の論理のような、抽象的かつ形式的なものでは済まないというのが、「本来の論理」なのです。数学の学習で鍛えられる論理思考は、或る意味、非常に偏った論理思考なのです。 西欧中世において、ラテン語を基本教養として、論理訓練を行った時、過去に典拠を求める論理となって、「新しい認識を開く論理」としては有効でなかったという弊害があったように、現代の「数学的論理」は、その内部では閉じていても、学問の中立性というものを偽装する道具となっており、より「総合的な論理思考の構築」を、排斥する危険性を持つという弊害があるのです。 端的に、数学者や数学の理論に罪はない、それを悪用する政治家・軍人・経済人が悪いのだという稚拙な理屈に、その弊害が現れているでしょう。繰り返し議論されたことですが、「良い目的にも使える」というのは、「悪い目的で使われる」ということを正当化しないのです。 コンピュータが発明され普及した結果、人類は悲惨な滅亡への道を歩み始めている可能性もあるのです。色々な合成物質を大量に造り、「人類の叡智の結晶」だなどと自画自賛していると、半世紀もたたない内に、公害が起こり、極地の氷が溶け、オゾン層は壊れ、環境ホルモンがそこいら中に瀰漫し、人類は、これで生き延びれるのか、という問題が起こったのは、現在進行中のことです。  

yumi18
質問者

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その他の回答 (16)

  • danna2
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回答No.6

 受験レベルの数学で考えると、まぁその通りですかねぇ。  私が思うに、yumi18 さんの方が「数学信仰」にはまっているような気がします。数学のために世界の海底がヘドロで埋め尽くされるなんて、数学はそんなに大層なものではないです。それをいうなら、あなたか使っているこのパソコンは数学がなかったら存在しないものだし、電車が運行できるのも、高層ビルが倒れないのも、携帯電話から恋人にメールするのも、全て数学のおかげでしょう。  でも、立派な家が建ったからといって、それが「かなづちのおかげです」と奉ったりはしないでしょう。毎日ご飯を食べるときに「包丁さん、ありがとう」とはいわないでしょう。かなづちや包丁は道具であって、それを使っていろいろ立派なことができるからといって、道具自体が偉いわけではないでしょう。逆にかなづちや包丁で人が殺されたからといって、かなづちや包丁を責めることもないでしょう。  所詮、数学も道具の一つでしかなく、それを使う人によりよい方にも悪い方にも使えてしまうのです。それを嫌ったり恐れたりすることなく、使い方を知ることには十分な意味があると思います。たとえ数学という道具が万能ではなくても。  授業で3つくらいの変数で式をいじくり回すようなことをたしかにしますが、それで世界を表現できないからといって、意味がないとは考えないで下さい。英語の授業もあるでしょうが、それで英語が話せるようにならないからといって意味がないとは思えないし、家庭科の授業に出ても料理人になれないからといって意味がないわけではないでしょう。  野球のピッチャーが速い球を投げようと思っても、ボールを投げてばかりでは投げられるようにはなりません。走り込みをしなければならないでしょうし、筋肉トレーニングもしなければならないでしょう。速く走ったり、バーベルを持ち上げたりする事は、それだけ見ればそれだけの意味しかないでしょうが、そのことによって鍛えられた筋肉で速い球を投げられるようになるのです。ほんのわずかな部分だけを見て「意味がない」とは考えないで下さい。

yumi18
質問者

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  • Teenage
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回答No.5

数学と頭がいい悪いはまったく関係ないと思います 数学できる方からしたらなんでこんな簡単な物も判らないのかと。。。 ふだんの生活でも同じ様なこと言えますし

yumi18
質問者

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ご回答いただきまして、たいへんありがとうございました。

noname#3856
noname#3856
回答No.4

数学は本来「論理的思考能力を高める」ための学問であります。 その「手段」の「段階の一つ」として「変数を絞った問題」などがあるわけです。 この「問題」が解けるだけでは「数学ができる」とは言えません。 本当の意味で「数学ができる」人は、あらゆる変数を考慮した上で、いくつもの「道」を見いだせるでしょうね。 その中でどれを選択するかというのはその人の「資質」という別の要素が関係します。 最後の一文は数学ができない人のいいわけに見えてしまいますよ。

yumi18
質問者

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ご回答いただきまして、たいへんありがとうございました。

noname#4751
noname#4751
回答No.3

私はもろ文系人間で、いっかい「理数人間」とつきあったことがありますが、頭かたかったよー!彼だけかもしれないけど、なんか、人の気持ちの機微をわかってないんだねこれが。 しかも国語って「答えがいろいろある」じゃないですか(テストでも、同じことを言っていれば文章が少し違ったってオッケーですよね)それが「わけわからん」らしい。数学みたいに「答えはひとつ」って、私にはおもしろくないなー・・・ 数学好きな人には申し訳ないですが(^_^;) 国語は「相手の気持ちになって考え」ないとわからない学問ですよね(主人公の気持ち、とか)でも数学ってただ公式あてはめて「正解を出し」たらもう終わりじゃないですか。だから傍目からみたら、 >数字とか記号とかをいろいろ小手先でいじくりまわして、りくつみたいなことをこねくりまわす感じの数学というものは、どうも好きになれないんですが…… という印象をうけるのではないかな?と思うんです。 たしかに、有効ではあるけど、すべてをそういうもので「ひとくくり」にするのはどうかな?ですよね。 これをその「理数」な彼にいったら「文系の、数学ができるやつに対する僻み」と言われました。なんなんだよあんた!でした。 ほんとに必要なのって、消費税の計算とかだけでいいもんなー、今正比例とか3次元とか、役にたたないもんなー、あと√とか! あんだけ苦労したのにな・・・ でもいっこ。 数学の発達がなかったら今使ってる「ぱそこん」ちゃんはなかったんですよね。って意味では「VIVA!数学」ですね。

yumi18
質問者

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  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.2

数学というのは論理的思考の現れでもありますから、つまりは、重要な変数要因を無視すると公式としては成立していても、結果は利己的な方程式にしかならないという理屈も数学的ですね。 統計学では重回帰分析という手法がありますが-一つの結果を複数の要因から分析するというもの-これを基に出した計画が誤っていたとするなら、それは重要な要因を見過ごしていたということでしょうが、だからと言って重回帰分析そのものに非がある訳ではありません。

yumi18
質問者

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  • Hiyuki
  • ベストアンサー率36% (2604/7183)
回答No.1

ま、好みの問題ってやつですね。 >数学をべんきょうすると、ものの見かたが単純で、ひとりよがりで、心のせまい人間になるような気がするんですが…… この表現だと、何となくあなたの考えの方が偏見に満ちているように感じます。 数学を勉強することと、視野の狭さは全く関係ないですよ。 数学の目的はあくまで、物事を論理的に示すというだけです。筋道をたてて考える、ってことですね。生態系への影響とかは、話しが逆です、生態系の影響を無視したから変数要因を絞ったということです。 繰り返しになりますが、数学はあくまで手段です。目的のために手段が変わっているというだけの話しですよ。

yumi18
質問者

お礼

ご回答いただきまして、たいへんありがとうございました。