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3歳の息子の月命日について
息子を事故で亡くしました。毎月の月命日の事で教えて頂きたいのですが、私と妻は、息子が聞いても解らないお経を読んでもらう月命日の必要性がわかりませんし、息子の事をしらないお坊さんに読んでもらっても・・・と思ってしまいます。しかし、私の両親は、『これは決まりで供養なので必要』といいます。祥月命日は、行うつもりですが、毎月の月命日は行うべきなのでしょうか、行う事が息子にとっての供養になるのでしょうか? よろしくお願いします。
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日蓮正宗の信徒です。 私自身、修行の身であり、まだまだこの世の道理を感じ悟りきっていないので、panpainさんのためになるか解りませんが、最後までお読みいただければ幸いです。 お経は、お釈迦様が説いた教えです。お釈迦様は、人々が幸福なって欲しい、心から純粋できれいな笑顔になって欲しいと思い数多くの教えを説きました。そして、その教えは如来様(仏様)になるために説かれた教えです。また、人はみんな仏性を持っており、長い修行をすることになるが、仏になることができると説いたのです 仏様になるためには、いかなる迫害や攻撃をされてもひたすら教えを説く修行をしなければなりません。これを菩薩行と言います。しかし、普通の人には、お釈迦様の教えの偉大さが解る訳もなく、その効果を感じることも信じることも不可能です。それなのに、いかなる迫害や攻撃をされても教えを広めることは不可能です。 故に、数多くの教えを説いて、それができる境地まで人々の感性、力、仏の教えの偉大さを解らせたのです。 他の者が死んだ者のために供養すれば効果あるとお釈迦様(釈尊)は残しています。 お釈迦様の教えの根本となるものの1つに、「よく道理」を理解し、使いこなすというものがあります。この世は「道理」があり、道理によって結果が出る、だから、道理、法則をよく知り、それを使いこなさければならないとあります。だから、「これは決まりで供養なので必要」という人間は、道理に基づいていっている訳ではなく、自分の思い込みで言っています。これが人間の業であり、愚かさなのです。道理がわかるなら、毎日、勤行、唱題、もしく念仏、座禅に励んでいると思います。 他の者が死んだ者のために供養すれば効果あると言いましたが、それは道理に基づいたものではなければならないというものです。道理を知らず、文化、決まりでするのは、生きている者の自己満足でしかありません。自己満足が目的なら、それはそれで良いでしょう。ですが、息子さんのためにはなりません。 宗教の勧誘をする気はないのですが、どうしてもなってしまいます。ですので、入る入らないを別にしてただ聞いて貰えれば幸いです。 私は、日蓮正宗の仏教を聞いて5年、入って2年、まじめにやって1年、入る前は生きることがただ単に辛く、死ぬことばかり考え、いつも自分の苦しみは周りのせいにしていました。しかし、1つ1つこの世の道理を悟り、1歩1歩、自分の人生をしっかり良質に生きようと思って取組んで生きて、今は、生きることが良いものだと感じております。 また、私が病気で入院した時も、母が懸命に私のためにお参りをしてくださり、その時は、まだ、私は入信していなく、性格はくそみそに悪かく、生きることが嫌で嫌でたまらなかったのですが、母のおかげかどうか確定することはできませんが、生きる活力に溢れ、今の自分の苦しさは人のせいにばかりして、自分を磨くことせず、逃げてばかりいたらだと誰からも言われることもなく、自分で気付き、自分自身を否定しつつもそれに落ちまなくなりました。 如来様(仏様)の境地は、良質な心を持ち、何が苦しむ悩むか、何が素直に喜べることか、はっきり解り、また、素直に喜べることをし、苦労があって苦しくても、それはかならず良い結果に繋がることができる存在だと私は思っています。と言いますが、私が感じ悟ったことです。これを素直に受け入れ日々を生きるとまじめに正しく生きようと思いますし、自分の未熟さを感じ、見栄を張らなくなります。また、素直に喜ぶことと、欲望に駆られて喜ぶの違いが解り、何を求めていけば、脱力感や絶望感にさいなまれることなく生きれるようになるか解ってきます。私の中で悟ったことの1つとして、何か嫌なことがされたら、相手を憎むのでもなく、相手を怒るのでもなく、常識で対応するのでもなく、相手が自分のした愚かさを悟し、以後、良質な生き方ができるように悟すことが、相手のためである。それができないのは自分が無力ということである。また、相手を憎み、怒るのは、自分の醜き感情で我ままで相手のことを何も思わない自分勝手な心(煩悩)であると感じました。だから、腹が立つことがあっても堪えます。堪えようとします。怒ったとしても、後で良い気持ちはしませんから。 息子さんのために供養をするということは、上記以上の人間性、人生感、種々の力を持つということだと私は思います。(供養するのですから、魂はあるということは信じているのですよね。ならば、その世界での人間性、人生感ということです。私は、霊感などがないもので、それに関しては私が感じた範囲ではあるのかないのか解りません) 供養するといういうことは、命日だけではありません。生きている人間が仏道修行するということは、日々、仏様の境地に近づくということです。 供養をしたぶんだけ、仏様の境地に近づくということです。私の宗派では、命日に改めて供養はしますが、日々先祖代々として供養をします。 空想のような話で信じがたいかもしれませんが、効力のある仏教の修行は以上のようなものです。本当は、まだまだ修行をして得た効果を書きたいのですが、現時点でも長過ぎるので。長くなり申し訳ありません。仏教の中にこういう話もあった程度で心に書き留めていただければ幸いです。仏教は奥が深いです。
- les-min
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こんばんは。 お悔やみ申し上げます。 仏事関係の業者で働いておりまして、すでに良いご回答があがっておりますが、お邪魔します。 いろいろな宗派で意味合いや説き方が異なる事柄だと思いますが、お寺さんがお経をお唱えするのは、本尊様に対してで、本尊様をご供養しているといってよいと思います。(たぶん。) そして、本尊様へ、どうか今回お祀りしている方に、ひいては関係する皆さん(←生き死には関係ない)に、福徳が巡りますようにとお願いをしている(あるいはすでに福徳が巡ったことを感謝している)のだという図式になると思います。 供養と同じような意味合いで用いられていますが仏教では「廻向(えこう)」という用語があります。仏事を催した徳(功徳)を、お祀りしたい方に廻らし向けるために、お祀りしたい方に直接お経を唱えるのではなく、本尊様を祀るわけです。(そのためにお仏壇には本尊様がおられるわけで。) それと、お寺さんにお勤めいただくと、御布施を出しますね。御布施は、お勤めの料金や給金、お寺さんに来ていただいた御礼ではなく、本来は御布施をお寺さんに差し出すことが徳を廻らせる第一歩となっています。御布施をされた徳を廻らせるためにお勤めをいただくという感じでしょうか。 だいいち、お子様に限らず、たいていの方はお経はわかりません。漢文を素読している形のお経を、聞いただけで解るというのは、よほどに研鑽を詰まれた碩学でないと、お寺さんや学者さんでも無理です。 お寺さんは本尊様にお願いする人であり、供養する手段と技術を持つ人ではありますが、それ以上ではありません。お子様をご供養するのは皆さんなわけです。 今どき、こう真正面からお答えすると、胡散臭いというか、現実離れしたキレイ事みたいな感じに受け取られるかもしれませんが・・・ お勤めをいただくご供養は宗教行事ですから、その大前提に信心が必要となります。#3のご回答の方も触れておられますが、ご供養に疑念がある場合は、お世話になっているお寺さんにお尋ねされると良いと思います。 自分は関連業者なので・・・月命日を行うかどうか、と尋ねられれば、行ってくださいと言ってしまいそうになるのですが・・・どうしてもお勤めいただくことがご供養になっているとは思えない、という場合、そういうお気持ちを持ちながら無理に月命日を行う必要はないと思います。 それと、宗教的な善し悪しはわかりませんが、お仏壇のお祀りをされながらでも、どこか任意の場所に遺影やおもちゃ・お菓子など並べて祭壇的なスペースを作っておられる方もよくお見かけします。 たいへん長くなって申し訳ないです。では。
お礼
ご回答とご説明ありがとうございます。息子の死後、私なりに法要の事を調べました。しかし、les-minさんのご説明してくれたことは、知りませんでした。そして、そのご説明が今の私には響きました。ありがとうございます。月命日について、前向きに考えていこう思います。 また、我家も仏壇の隣に遺影や、おもちゃを並べています。供養の時、本尊や位牌をみるよりも、遺影を見て話かけてしまいますが・・・。 どうも、ありがとうございました。
この問いには菩提寺が答えなければなりません。 この問いの答えがすなわち供養そのものであり、檀家教化の目的だからです・・・ ・・・しかし述べさせていただきます。 月命日はご子息の供養であることは違いありません。 しかし勘違いしてはなりません。ご子息の供養であってもご子息のためにやっているのではありません。 残された遺族が月命日の法要を催し、お坊さんを呼んでお経を読んでもらい、仏教に触れ、死を考え、死を受け入れ、悲しみを克服し、そして生きる力に変えるのが目的です。 つまりご子息の法要を通して御両親や御祖父母の“生きる力”を生じさせることが本当の供養で、それを行う場が法要(仏法の要)なんです。 御両親や御祖父母が“しっかり生きる”ことをご子息は何より喜びます。そうですね? ご子息の喜ぶことをする、それが“供養です”。 月命日は御両親と御祖父母たちのため、ご子息にやらされているということがわかりませんか。仏壇を買ったのも、おもちゃを並べるのも。 「パパ、ママ、おじいちゃん、おばあちゃん、ゴメンネ・・・でもありがとう。ボクは大丈夫だからみんな元気でちゃんと生きて・・・」 この気持ちに気づいてあげましょう。そして、いっぱいいっぱい思い出してあげましょう。いろんなこと思い出してあげましょう。仰るとおり月命日だけが供養の場ではありません ご子息の月命日等を通して御遺族の皆さん、しっかり生きてください。それが何よりのご子息の供養です。 いい供養をしましょう。 菩提寺に代わりまして述べ(供養)させていただきました。 合 掌
お礼
ご回答ありがとうございます。今まで、通夜、告別式、七日七日、四九日の法要、開眼供養と行い、その段階を踏んで息子の死を受入れてきました。その意味でも息子の法要を通して『生きる力』を息子から貰っていると思います。また、このように思っている事を文字に書くことによっても『生きる力』が出てくると思います。 息子の菩提寺は、隣の県にあります(お墓も隣の県にあります。)。なので、月命日については、今住んでいる町のお寺に頼むというのも視野に入れて供養の仕方を考えていこうと思います。 boronboronさんありがとうございます。月命日は、するのが決まりという考えから もう1歩踏み込んで供養することができそうです。ありがとうございました。
- takomari
- ベストアンサー率36% (1618/4451)
私も3年前息子をなくしました。 お葬式こそ普通に行ったものの、その後のことはしきたりどおりにやるよりは自分が息子にしてあげたいようにしたい…と思いました。 なので、命日とか意識することなく、お花やお菓子を供え、語りかけています。 祥月命日よりも、誕生日は小さなケーキを買ってきて、代わりに家族がいただいてます。「○○くん、何歳になったね」と言って。 命日は私と夫で静かに祈りをささげてます。 このやり方をきいた人から「死んだ子の年を数えるなんて」といわれたこともあります。でも、私としては自分でもわからないお経を読まれるより、息子を愛していた者の言葉のほうが伝わると思っているので。 質問者さんの気持ちひとつだと思います。 最後になりましたが、息子さんのご冥福をお祈りいたします。
お礼
ご回答ありがとうございます。『命日を意識しない』というのが、すごく共感できます。最初、私達は仏壇を買う事 自体に抵抗を感じました。仏像や位牌を見るよりも、遺影を見た方が語りかけやすいし、何より箱に入れずに、もっとオープンにして、おもちゃを並べて供養をしたいと思っていたからです。 私も、takomariさんのように誕生日も大切にできればと思いました。大変、参考になりました。ありがとうございました。 私達の息子がtakomariさんの息子さんに天国で遊んでもらっていたらいいなと思いました。ありがとうございました。
- rainbow2
- ベストアンサー率37% (3/8)
心中お察しします。 必要性がない…とまで思ってしまったら、もうこれは信仰心の問題になってしまいますが 仏教の教えから言えば例え息子さんが聞いても解らないだろうお経も それを唱えるのが息子さんの知らないお坊さんであっても 亡くなった人にとってはお経の1つ、お線香の1つがあるのとないのじゃ全く違う様です。 今生きてる私達は死後の世界や意識がどの様な物かは知る事が出来ませんが だからと言って必要ないだろうと私の場合は判断できません。 我が家も毎月、月命日は行っていますが、これは生きてる者達が唯一あの世にいる家族の為にしてあげられる事の一環だと思っています。 例えお坊さんが来れない月があったとしても、故人の好きだった物などのお供えと線香をあげて手を合わせています。 最低限それだけでもいいと思いますが、あるに越した事はないんじゃないかと。 ただ想いだけではなく形として表す弔いを忘れちゃいけないって事ですね^^ 息子さんが天国で元気にくらせますように…◎
お礼
さっそくのご解答ありがとうございます。 必要性がない…というのは、言葉を間違ったかなと思います。ただ、月命日を意識することなく、毎日を息子と語りたいと思っています。rainbow2さんの回答を参考に、また両親と話をして いこうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。私自身、法要について それぞれの意味を理解して、息子を供養しようと思い、色々調べている途中です。『道理』を理解し、自己満足にならないように、息子の供養をしていこうと思います。色々とありがとうございました。