自分の本性が薄汚く、苦しいです。何とかなりませんか
あまりに自己中な自分の思考法・性根に嫌気がしています。正直ありえないくらいに自己中すぎて、自分で自分を消し去りたいと思うときも多々あります。
私はアスペルガー症候群の診断で手帳を交付されています。最近医師より「あなたは思いやりの根も種も無い。このグループ(アスペルガー患者)の中でも最悪の部類で、カウンセリングも意味が無い。思いやりがないから仕事も出来ない」といわれました。
質問を重ねるうちに、私には「共感」という部分がすっぽりと抜け落ちていて、理解でしか物事を図れないのではないかという答えが出てきたのですが、それとは別に、相手を不快にさせる要素として「利己を求めすぎる」という指摘がありました。
私は、自分でも自己中だと思っています。世界は自分がいるからこそ意味があり、自分がいない世界は自分にとっては無価値だと思うくらい自己中です。自分が死んだ後の世界(死とは意識の途絶自己の認識の途絶という意味です)は存在しないも同じだと思うのです。
例えば目の前に人殺しが現れれば、家族を見捨てて逃げるかもしれません。少なくとも、「絶対」家族を守るとはいえません。
自分の心臓を移植すれば助かる人がいるといわれても、私は心臓を他人に渡したいとは思わないです。
自分の子供を殺さなければ、自分が殺されるとき、私は子供を殺さないと、断言できません。
実に卑しく薄汚いです。自分の快のみを追い求めています。
例えば電車で席を老人に譲ったとします。私の思考は「自分は良いことをした」と思います。
同僚の仕事を手伝ったとします。「人助けする俺かっこいい」と思います。
家事や炊事を手伝います。「やらないと家が散らかる。腹が減る。着る服がない」と思います。
普通の人がやれば純粋に善意・好意であるはずの好意ですら、私が行うと「偽善・自分の利益のため」と落ちぶれてしまいます。
すべての情報は主観でしか存在しないとも考えています。自分というバイアスを通さないと、自分の目で見て、耳で聞いて、それを自分の中の情報と照合して意味のある「情報として」成立させる。つまり物事は自分のいいようにしか見ることが出来ない。苦痛もまた快の一種であり、本当に自己に純粋な苦痛というものがあれば、それから逃げるために、より快である「死」へ逃れるだけ。自分には「純粋な苦痛」は耐えられないし、そもそも感じることすら出来ないとも考えています。私がもし即身成仏したとしても、それは我欲と快が「土中で絶食」することにあっただけで、本来のそれとはかけ離れたものとなると確信できます。
私は自分の快のためにしか行動できません。でも、普通の人は純粋な善意や献身、自己犠牲を当たり前に行えるのに、私は出来ないのです。表面上真似できても、その根本は自分の快=利益のためでしかない。一事が万事すべてそうです。
自分が嫌だと思い。その思考を変えようと思っても、その思いも「自分が苦しみたくない」という快に根ざしており、思うこと事態が薄汚い感情と化してしまいます。
私はアスペとか以前に汚らわしい人間ですが、何とかしたいとは思っています。その思いも汚らわしい動機ですから、救いが無いのですが。
私はどうすれば「自分の快を否定した上での善意」「純粋に他人のため」「自分が純粋な苦痛のみを与えられても人助け」が出来るような、当たり前の人になれるのでしょうか。
どうすれば、自分の快を追い求めない生き方ができるでしょうか?
教えてください。
お礼
なるほど・・・ありがとうございます。 私も結構本来の自分とのギャップに悩んでるっつーか、 本来の自分を必死に隠してしまってるんで、どことなく 納得です。 ありがとうございました。