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遊郭が街の自慢になったことがあった?
確かあったと思います。 どこかの街の記念碑になっているとの話を聞きました。 今はありえない話ですが、当時の社会通念、性風俗に対する一般的感覚はどのようなものだったのでしょうか。 なにか、胡散臭い隠しておくべきものという現代の感覚ではないと思うのです。
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「胡散臭い隠しておくべきものという現代の感覚ではないと思うのです。」 その理解で正しいと思います。 「町の自慢」になった例は良く知りませんが、明治・大正の日本では、例えば貸し座敷(妓楼)経営者(今で言えばソープランド経営者)は、別に日陰の存在ではなく、立派な経済人として扱われていたようです。 事例として 1) 明治30年くらいの某市の名店・名所案内のような冊子をネットで閲覧しました。呉服屋や味噌醤油屋や造り酒屋などに混じって「一流貸し座敷」が経営者の名前入りで堂々と掲載されており、「娼妓の躾が良く、衛生面も万全、清潔な寝具で安心して遊べます」などと書かれています。 2) 夏目漱石は江戸牛込の名主の家の生まれです。名門の出身と言って良いでしょう。漱石の姉の嫁ぎ先は妓楼だったはずです。もちろん、「妓楼主人の長男の嫁」ですよ。名主と妓楼経営者の縁組が、社会通念上おかしくなかったわけです。帝大卒の英文学者であり、かつ高名な作家であった漱石が、親戚が妓楼をやっていることを気にした形跡はありません。 3) 大正から昭和にかけての作家の内田百閒は、岡山の造り酒屋の息子でした。彼の親戚にも、妓楼経営者がいたと聞いています。造り酒屋と遜色ない商売であったという傍証にはなるでしょう。
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- ipa222
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キリスト教のプロテスタントがSEX文化を猥褻で恥ずべきものという認識を持ち込みましたが、ヨーロッパ以外の世界では、おおらかで、開放的でした。 遊郭は、単にSEXを金銭でサービスするだけでなく、飲食や舞踊、器、衣装、建築など総合芸術と言ってもいい世界だったと思います。 日本など仏教の社会では聖と俗を分離するのではなく、聖と俗が融合された社会です。 芸術が、社会から切り離されて存在するのではなかったということです。 お金がかけられた遊郭建築は、貴重な文化資産です。 京都や名古屋など残っているところも多いです。
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仏教思想が影響していたのですか。とても新鮮な発見です。東洋的と言うもの、日本的と言うものは、今の時代感覚とかなり違っていたのですね。 そういう意味で、いい時代だったのではないでしょうか。
お礼
とても目の覚める思いがいたします。 戦前の日本はかくも意識の違いがあったのですね。 ほんとうにおおらかで寛容な雰囲気があったのかと思います。