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座禅の効用および応用
座禅の効用として精神統一の実現というのがあるようですが、そのまま解釈すると精神は複数の要素からなりそれらを統合すると言うふうにとらえれます。 そうだとすると、その精神の複数の要素とはなんでしょう?精神統一とは何を意味しているのかまた、座禅の効用を体験談から教えてください。 どこでどのように役立つのでしょうか? 座禅歴のながいかたお願いします。
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- bonsyou
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座禅の悟りの根本は、自分の生き死に対する問題を解決することです。 私は観照会という禅会のものです。ここでは長くなりますので、私の師家が 一般の方を対象に書いた本『人生と悟り』の指導書があります。もしご希望が あれば、送料を負担して頂ければ無料にて差し上げます。 http://www3.ocn.ne.jp/~kansyou/
- gokurakuyama
- ベストアンサー率30% (74/241)
ズバリ申し上げます。 精神統一とか、何かの役に立てるというような目的で坐禅(この字を使ってください)をしようと思っておられるのならやらない方がいいですよ。 かえって挫折やもっと雑念・妄想が出てきてもう二度と坐禅をしたくなくなってしまいます。 初心者の方には《坐禅の目的は『無』になる為、心を空っぽにする事が出来れば『精神統一』も簡単に出来るようになる事です。》とかいわれて坐禅を始めるとっかかりとなっておられる方があるようですが。そんな簡単に心を空っぽにしたり精神統一が出来る訳がありませんし、又、そんな事が坐禅の目的では決してありません。 心を空っぽにするとか無になるとかが目的であれば眠って熟睡するのが一番。 精神統一するのであれば他の宗派の修行のように「滝に打たれたり山の尾根を歩き回る」方法をお勧めします。*誤解の無いようにこういう修行方法を批判しているのでは無いですよ。 となると皆さん坐禅は何のためにするの?。 と思われるでしょうね。 cse riさんがおっしゃってましたが「砂糖の甘さはなめてみた人でなければわからない。だから説明のしようが無い。」のです。 「坐禅は何にもならない。」と思ってやってみて下さい。 それでは無駄じゃないですかって?。 私からの結論を申し上げます。 『坐禅』は私たちの思量を越えた所にあります。 私たちの頭の中で考えるように坐禅はこういうものだとか。何とかの為に坐禅をするかというようなものでは無いのです。 言うなれば『坐禅をする』という『坐禅』そのものが目的なのですから。 この続きは実際経験されてからにしましょう。 ただし坐禅をされるのでしたら必ずある程度の指導者(お近くの禅寺)を訪ねて指導してもらって下さい。 決して指導本をたよりにしたりして自分だけでしないように。何故ですかって?。 それも実際やって見てからの話にしましょう。
- cse_ri
- ベストアンサー率29% (74/253)
特にお寺とかに通っているわけではないのですが、一人であれこれ工夫して します。 ところで、禅を知的に理解しようとしているようですが、私に言わせれば 無駄というものです。砂糖はなめてみて初めて甘さを感じることができる ように、禅の良さについても、まず自分で体感してみないとわからないで しょう。言葉ではあれこれ言う事もできますが、本質は自分で感じなければ 理解できないでしょう。 禅には「不立文字」という言葉があります。真理は言葉で伝えることが できないということ。だから禅僧は、まず座禅して真理を体得しようと するのです。 >座禅の効用として精神統一の実現というのがあるようですが、そのまま解釈 >すると精神は複数の要素からなりそれらを統合すると言うふうにとらえれます。 >そうだとすると、その精神の複数の要素とはなんでしょう?精神統一とは何を >意味しているのかまた、座禅の効用を体験談から教えてください。 もし禅を知的に理解したいというのならば、禅の達人の本を読んでみたら いいでしょう。道元禅師の「正法眼蔵」などがよいかもしれませんが、 かなり難しいですし、仏教全般についてある程度基礎知識も必要でしょう。 禅から少し外れますが、精神統一が何かを理解したいのならば中村天風先生 の本を読んだほうがいいかもしれません。私のオススメは「運命を拓く」 です。
- beginnersan
- ベストアンサー率25% (14/56)
座禅の効用については、千差万別だと思います。精神の統一も目的のひとつかもしれないし、気持ちが落ち着くということかもしれないし、気分を味わうだけかもしれません。精神統一もかなり抽象的で、pさんの言うベクトルの統合かもしれないし、形の整合かもしれないし、もっと別のものかもしれません。 私の場合は、何の本かは忘れましたが、心を空にしてみました。最初のころは、雑念が入って、集中できませんでしたが、今はだいぶ集中できるようになったと思います。おかげで、神経症もだいぶましになりました。 禅を宗教として捉えて、禅とは何かということを追究するのであれば、悟りを知ることとなり、仏になれるかもしれないです。精神を構成要素の集合体ととらえるならば、「喜怒哀楽」あたりが無難かもしれません。どちらにしろ、明確な答えは存在しないと思います。もし存在したら、禅の可能性や神秘性がなくなり、禅がひとつの枠に納まってしまうからです。すなわち、精神が何かわからない以上、禅が精神に作用するものであれば、座禅の効用もわからない(千差万別)と思います。
- kennedy2
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私自身の経験から回答させていただきます。 今は座禅はしていませんが、約10年ほど前に3年間ほど座ったことがあります(海外のお寺です)。 「濁って先のよく見えない川の底が次第に見えてくる。良いものもそうでないものも。見えないものはみえないまま。」、そんな感じでした、私にとっては。 当時も今も「精神統一の実現」が座禅の目的であるとも本質だとも思いませんので、「精神の複数の要素」が何たるかは知りません。少なくとも、そのような言葉のパズルを解くのが座禅本来の目的で無いことは確かだと思います。 帰国して座禅しなくなったのも、何かその辺の無意味さの性のような気がします。 最後に「座禅の効用」はやってみないと判らないと思います。人が説く効用なるもののために座るものではないのでは?以上、勝手に答えました。
お礼
ありがとうございます。 精神統一という言葉はおそらくわかったようなわからないような言葉のひとつだと思います。 本当に理解している人はやはりたぶんいないでしょうね。