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坐禅は神への冒涜か

このようなところへ質問するのはやや場違いかもしれませんがお許しください。プロテスタント系クリスチャンのものです。(長老派) 一ヶ月ほど前から、集中力の欠如えお改善するために自宅で坐禅を始めました。とても快適で、プラスに向いてます。今までの悪い習慣(立ち食いやつまみ食い、猫背など)が少しずつ克服されつつあり、今後も続けて行きたいと思っています。 いつか禅道場にも行ってみたいのですが、ひとつ問題があります。所属教会が異教徒に対し悉く否定的なのです。 坐禅の儀式を、私は文化的な形式と割り切って、「いただきます」の合掌と同じ感覚で考えていますが、所属教会の教理には仏教もが異端である、などとかかれているので、躊躇しています。教会の方とは末永く付き合っていきたいと望んでいます。 この手の経験がおありの方、どのように考えられたのか、ご参考までに体験談をお聞かせいただければ幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • katyan
  • ベストアンサー率9% (201/2029)
回答No.7

別に座禅自体は悪くないと思います。 (信仰として考えるなら、そこに仏像やお経を唱えるならノーといえるでしょうが) 瞑想も座禅も同じだと思います あなたが儀式と書いている以上作法上の問題で信仰としてあがめていないのだから別に問題もないでしょう。 人を見ないでください。あくまでも主とあなたの関係です。 あまりなんでも話さない方が良いよ

Yepes
質問者

お礼

>あまりなんでも話さない方が良いよ はい。ごもっともです。この件はふせとくことにします。一日何回排便するか、という次元だと思います。 (そこまで極端ではないか、、?)

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その他の回答 (6)

  • bender
  • ベストアンサー率45% (108/236)
回答No.6

お悩みとは思うのですが、また、私のような者が書くのは大変失礼かと思ったのですが、ご自身が指摘されているように、このような場で質問されるのではなく、まず、教会の中の信頼できる方に相談されてはいかがかと思いました。 「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」(コリントの信徒への手紙一 / 10章 23節) 『聖書 新共同訳』より引用

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。返事が遅れまして申し訳ありません。結局個人的な問題としてよい程度かと思うにいたりました。ちょっと考えすぎたかもしれません、、。

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  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.5

中世のキリスト教修道士は、祈りと瞑想、そして労働を もって修行としたそうです。 瞑想といっても、私が学んだ限りでは座禅とかなり似て いましたので、よろしいのではないでしょうか。 私は原書を読んだことはありませんが、そういう内容 (瞑想の方法など)について触れた書籍もあるようなので、 キリスト教関係の書籍を扱う書店にいって、捜してみては どうでしょうか。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。返事が遅れまして申し訳ありません。中世のキリスト教は興味深いですね。 カトリックも坐禅を取り入れていると聞きました。

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  • iza4_34
  • ベストアンサー率27% (6/22)
回答No.4

経験がないのですが、答えられる範囲で回答します。 聖書の中に次のように書いてあるのはご存知かと思います。 出エジプト記20章3~5節 「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。  あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。  上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、  地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。  それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」 偶像崇拝を神様は、避けるよう命じておられます。 ヨハネの福音書3章16節には 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。  それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 と書いてあります。 神はひとり子イエス・キリストを与えてくださるほどに私たちを愛してくださっています。 その神様を神として、それ以外のものを神としてはならないということです。 教会が異教徒に対して否定的ということですが、 聖書では神様は異教徒を含むすべての人を、命がけで愛してくださっています。 ただ、神以外のものを神としてはならないということなのです。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。返事が遅れまして申し訳ありません。 神は神としてあがめます。そして坐禅は心身のご利益のために行います。 なにかすっきりしてきました、、

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  • Komiker
  • ベストアンサー率16% (83/518)
回答No.3

>所属教会の教理には仏教もが異端である、などとかかれているので、躊躇しています。  そのような狭量な考え、教義そのものが、大きな意味で「異端」ではないのですか? >教会の方とは末永く付き合っていきたいと望んでいます。  素直なお気持ちとしてそれは頷けますが、それが可能かどうかは相手あってのこと。ご質問に書かれているような普遍的でない考えを教義としてかたがたに、あなたのお気持ちが通じるでしょうかねぇ? (^_^)/~

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。返事が遅れまして申し訳ありません。 実家の神棚を燃やした、という牧師さんもいます。 言わないことにしました。今は周囲に振り回されず、自分の判断で考えたいです。

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  • BLUEPIXY
  • ベストアンサー率50% (3003/5914)
回答No.2

#1を書いた後、両立できるみたいな風に取られる可能性があると思ったので追加します。 仏教徒、キリスト教の相容れないと思われるところについて。 仏教では、全てのモノはいずれ滅するという思想(常在のものはない)がありますので、 例えば、仏教では「永遠の命とか存在」などというのは認められないと思います。 でも、これは、宗教的信仰とは違って、合理的な考えだと思います。 よく、全能だとか絶対とか無限のとかいいますが、そういった時にはよくよく確かめた方がいいです。 例えば、ある方が全能だとして、 全能なので、どんな大きいものでも持ち上げることができるのですが、 では、"誰も"持ち上げることができないようなものを創造することができるか? と聞いたらどうなるのでしょうか? 「試してはいけない」と言うのでしょうか? こうした、言葉の上だけのレトリックは、信仰とは別にしてよくよく気をつけなければいけないと思います。

Yepes
質問者

お礼

二度のご返答ありがとうございます。 絶対とか全能とかキーワードには、様々なイエスの 力を圧縮して示していると思います。そのところをあまり細かく考察せずに、観念的に盲信しているのが私の現状です。 これでよいのか、と時々思います。「疑ってはならない」とか言い出したらきりがないですが、中途半端な伝道は絶対にやめたほうがよいと最近とみに思います。

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  • BLUEPIXY
  • ベストアンサー率50% (3003/5914)
回答No.1

体験談ではないのですが、 (宗教的な話は色々難しいところもあるので、一助になればと思います) 仏教の経典などには、昔のインドなどの神様(天といわれるような、例えば帝釈天:インドラ神)などがでてきますが、 そのことから考えると、仏教の立場としては、神様の存在を否定するモノでも肯定するものでもないです。 仏教の目的というのは、ニルヴァーナ(寂静)の境地に至るということを目的とした自己修養とでもいうようなものなので、特別に、他の"宗教"を攻撃したり排他するものではありません。(そこが特徴的な処でもあります) でも、まあ、実際のお寺でキリスト教を批判したりするような住職などもおられるかも知れませんので、そういった見極めは必要かと思います。 >所属教会の教理には仏教もが異端である と明言されているような処に所属されているのでしたら、そういったお寺に行くこと自体が、破門などの原因になってしまう可能性がありますから、そのまま、所属していたいというのであれば、やめておいた方が良いでしょうね。 あえて言わせて貰えば、"信仰"とは、何か(例えば教会とか)に所属すること自体ではありません。 教会に所属していないと、行っていないと天国に行けないとかそういうことはないはずです。(なぜなら、新しい契約はイエスとの間に結ぶものだからです。) 私個人的には、そうした教会の人の言う"教理"が本当に正しいのかどうかは自分で考えてみる必要があると思います。例えば、いわゆる新約聖書には、仏教が異端であるとは書かれていないはずです。(イエスがいた頃には、仏教は成立していましたが、イエスがその存在を知っていたかどうかはわかりませんが) イエスが何か(聖書に関することや教義や信仰)を語る時には、どうだったか?ということを考えてみる必要があると思います。何に依って考えるかということです。そのように考えてみた時に、正しい、正しくないと思えば、「行って為すべきコトを為せばよい」のではないでしょうか。 (そのように、イエスを個人々々が解釈するということは、言ってみれば、新たな異端を産むことにもなりますが、昔ながらのいわゆる"教会"の人々も誰かがそのように解釈したということに過ぎません。私自身は、そういう"教会の人々"は、懐疑的です。聖書にもどろう!)

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。返事が遅れまして申し訳ありません。 聖書に戻ろう! この言葉、勇気付けられました。 また、節度ある言動を心がけていれば、信仰云々は別にして、結果的に良い方向へ導かれるのではないか、とも最近思います。

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