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江戸以前の司法制度
三権が未分化だった近世以前では、死罪や遠流などの重罪の場合、天皇や将軍の裁定や承認が必要だったようですが、なぜ庶民の犯罪についても形式的に最高権力者の関与を要したのでしょうか? そこまでしなとも、裁判司法担当部局の判断を太政官や老中あたりが最終決定すれば良いように思うのですが、どうして天皇や将軍の判断を要したのでしょうか? 現代ですら裁判所での判決確定後に、死刑執行の許可書に署名するのは総理大臣ではなくその配下の法務大臣です。 近世は現代よりも生命の重さが軽かったんじゃないかと私は勝手に思っていますが(ex窃盗罪の最高刑が死罪だったり)、そういう訳でもなかったのでしょうか?
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こんばんは。 回答になるか分りませんが。 「法治主義」と「人治主義」の違いでしょう。 江戸以前は、もっぱら政権は「幕府」が持ちます。この「幕府」というのは、本来、関東・東北にいた蝦夷(アイヌ人が主)を征伐するための、天皇から特別に許された、臨時軍事政権なんですね。将軍の正式名称は「征夷大将軍」でしょう。 軍事政権ともなれば、軍隊ですから、将軍がすべてを指揮する強力な中央集権になります。 将軍が「法」なんです。こういうのを「人治主義」といいます。 実際は、江戸期なら、「武家諸法度」、「禁中並びに公家諸法度」といった成文法があり、町方にはそのつど出される「御触書」が法になります。町奉行も、将軍の名代として、それらの成文法と、慣習法により、警察、裁判の執務を行ないました。 ただ、あくまでも建前は、「軍事政権」なので、組織上は、将軍の直轄としたわけです。 そう、だから、江戸時代って、非常な建前社会です。実態はとにかく、建前を通せばいい。逆に、建前を、文書化しておかなきゃいけない社会だった。だから、江戸期の文書は膨大なんです。幕府から庄屋に到るまで。 今の「御役所」そのもの(それ以上)だったんです。 明治以降は、法律を作り、それに順じて国を治める、「法治主義」を執ります。 ところが、敗戦までは「天皇」には大権を付与していましたので、完全な「法治」とはいえません。非常に多くの「詔勅」が出され、法なみの、ときには法以上の拘束力を持ちます。 完全な三権分立が実現したのは、敗戦後です。と、一応いっておきます。 というのは、まあ判断は難しいんでしょうが、最高裁で国が敗訴になることって、あんまりないから。なっても、国は直さないから。 最後の、刑が重かったんじゃないかというのは、これも「厳罰主義」と「更正主義」の違いです。罪を犯しても、人は更正するものだという考えですね。もちろんヨーロッパ近代の、人間は理性の動物だという考えに基づいています。 ご参考になれば。
お礼
御回答ありがとうございます。 人治主義の発露なのですね。 あと中世では犯罪者は穢れた存在だから排除すべしという意識も色濃かったみたいですね。だから懲役・禁錮に留まらず地理的に遠方に島流ししていたのでしょうか。 近現代の法制度は一応知ってる(つもり)のですが、高校で日本史をとっていないので近世以前の法制度についてはほとんど知りません。(知識が中学の歴史レベルでとまっています) その内、日本法制史の教科書と併せて高校の日本史の教科書も読んでみようかと思います。