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『筑紫国造磐井の乱』について教えて!!!
【筑紫国造磐井の乱について】 1、継体天皇は戦争前に物部荒鹿火に 『長門より東をば朕制らむ、筑紫より西をば汝制れ』と言っています。 訳すると「戦争に勝ったら、本州は天皇家のものだが、九州は物部荒鹿火大連が治めよ。」と言っています。 これは記紀的表現を取ればもちろん、物部荒鹿火を九州の国造に任命すると言う形ですが、 逆に言えば、九州は天皇の直接支配権の及ばない地域として認めるということではないでしょうか? 2、百済本記で『531年に日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬ』という記載があります。 百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識したのではないか? 3、『筑紫の君葛子は、父磐井の罪に連座して誅せられることを恐れ、粕谷の屯倉を献上して、死罪 を免れることを請うた。』 戦利品は『粕谷の屯倉を献上』しただけですか? あれほどの大規模な戦争にもかかわらず、勝ち取った領地が『粕谷の屯倉』だけならば、少なすぎではないでしょうか? まるで引き分けたように思います。 日露戦争でギリギリ勝利した日本が樺太の南半分を得たことに似ています。
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『日本書紀』の磐井の乱に関する記述は全体に潤色が甚だしいと言うのは、その通りだと思います。 磐井の乱後、八ヶ所の屯倉、および「那津官家」(後の大宰府に相当)が設置され、大和政権による九州支配が強化されたのですか!! 参考になりました。 『謎の大王 継体天皇』を読んでみたいと思います。