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源平合戦で平家が滅んだそうですが、何人くらいが亡くなったのでしょうか?
源平合戦で平家が滅んだとされています。 しかし実際に死亡した人は少ないと思います。 10万人いたとして戦死者は1万人もいないのではないでしょうか? 戦記などではどうなっていますか? また土地を奪われてしまったら、滅びたとされてしまうのでしょうか? 生き残った人たちのその後を教えてください。 よろしくお願いします。
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源平の時代に一万人も死者がでたら大虐殺です。 まず第一に十万人もいませんが、 10パーセントもの大量の戦死者がでるようなこともありません。 基本的に戦争の仕方が違います。 集団戦闘の時代ではないので、合戦参加者がすべて 殺しあうわけではありませんし、 一般に平家物語などの記述に登場する人数は 非戦闘員を多数含んでいます。 源平の時代は1人の武士に最低4人以上の従者がついていますが 彼ら郎党は個人的にその武士のためにだけ働き その武士が死んだら遺体かその一部をもって国に帰ります。 中世においては、軍も国の統治もすべて階層制になっています。 総大将も陪臣に対して直接命令することはできません。 (もちろん状況に応じては何らかの要請をすることはできる) 要するに、戦闘は個人戦であって、 従者たちは直接の主君が武勇を上げるのをサポートする存在で その主君が死ねば、彼らに戦う義務はなくなります。 だからそんなに大量の死傷者がでることはありません。 家が滅んだら、(血縁関係にない)従者たちは別の就職先を探すわけで 死ぬ必要はありません。 また平家と血縁関係にある場合でも、 その後、戦国時代まで存続した家系はごまんとあり、 実際問題としては、平家滅亡といっても、 伊勢平家の嫡流と主な庶流の家系が絶えただけです。 九州には鎌倉時代になって源平合戦の功労者たちが 下り衆として派遣され、地頭などになりましたが 現地で平家系の豪族と争ったり、婚姻して同化したりしてます。 つまり守護職クラスの平家は滅びましたが、 地頭や荘園領主クラスの平家系豪族はそのままずーと存続していたわけです。 ほとんどの場合、土地も奪われてません。 というのは鎌倉時代の初期には、全国にまだかなりの荒地があって 開墾して新荘園にする余地があったからです。 その後、鎌倉末期から南北朝騒乱期に、 利権争いが激化していきますが、それはまだずっと先の話です。
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- pyon1956
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戦死については他の方が答えていらっしゃるので、平氏について。 源平合戦において滅んだ平氏というのは、桓武平氏、つまり桓武天皇の子孫で平の名を賜って臣籍におりた皇族のうちの、さらに清盛とそれにつながる一統、およびその配下のみです。 現に源頼朝の嫁の北条政子の姓は平です(北条というのは名字で、姓ではありませんので、天皇の前に出るなら、「たいらのまさこ」です)。 つまりあの北条氏は桓武平氏の、清盛らとは違う流れの一族です。源平っていいますが、実際には頼朝の配下、ないし頼朝を支えた連中の中に平氏はたくさんいました。彼らは滅びたどころではありません。北条(実は平氏)などは鎌倉政権を完全に乗っ取っちゃうわけですし。 また、源氏というのが清和源氏で、ほかにもいろいろ源氏があるのは割と良く知られていると思いますが(有名なところで村上源氏、嵯峨源氏etc.)、実は同様に平氏もまた桓武平氏だけではなく、また桓武天皇の王子からの平氏になったのも一つの流れではありません。清盛らの高望王系だけでなく、高棟王系、賀陽王系、万多王系、仲野王系(これはさらに2系統に分岐)があり、例の「平氏でなければ人に非ず」という台詞をはいた平時忠は高棟王系です。 また仁明天皇や光孝天皇、文徳天皇の子孫では平氏も源氏もあり(仁明平氏と仁明源氏とか、)また王子で源氏をもらったのも一人ではなかったりします。つまり、平氏が滅びたのでも、また平氏をなのるすべてが滅びたのでもなく、高望王系の、それも清盛とその一族・一党(いわゆる伊勢平氏)が滅びただけです。 だからこそ後の時代に織田信長などが平氏を名乗る、という(真偽のほどはともかく)行為が起こりうるわけです。
- furufuru-chan
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>また土地を奪われてしまったら、滅びたとされてしまうのでしょうか? おそらくそうでしょうね。人が死んだと言うより平家としてのまとまりが無くなったと言うことでしょうね。 岐阜や長野、三重などの事を調べると平家の落ち武者が隠れ住んだと言われる場所がいくつか出てきますよ。
- MicroHard
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オイラの高校の頃からの知人のご先祖様が、平家の末裔で追われまくって、大分県の山奥で、刀鍛治をその後して、太平洋戦争が終わる頃に、小倉に出てきて、木材問屋してたですよ。 現在のその末裔に当たる友人の名前はここじゃ記せません。