ワッハーブ派が勃興したことはオスマン帝国の衰退には直接関係がありません。それと、マフディー運動はオスマン帝国に対する行動ではなく、イギリスの進出に対する反発です。
全体的にはオスマン官僚制の停滞(長期安定政権が改革に無関心になるのと同じような)に、西欧列強の進出で実際に領土を次々に侵食されて国力を失っていったことが原因です。
もともとオスマン帝国は領土全体をゆるーく支配していたのですが、ヨーロッパ型の領土支配はしっかり土地と住民を支配する方法だったので、辺境の住民(アラビア半島など)はオスマン帝国に忠誠を誓いながら実際にはイギリスの利害のなかに組み込まれていって、気がついたら植民地下におかれていた、という感じでしょう。領土が減っていけばそれだけ税金がとれなくなるので、軍隊や行政機構などを維持していけなくなり、中央政府が貧乏になり、国自体が西欧諸国から金を借りたり利権を売ったりしなければならなくなるので、衰退していく、ということです。
鈴木タダシ氏の
『オスマン帝国とイスラム世界』 東京大学出版会 1997 vii+240 頁
『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会 1993 xiii+260 頁
『イスラムの家からバベルの塔へ―オスマン帝国における諸民族の統合と共存』 リブロポート 1993 255 頁
などが代表的な本です。
補足
オスマン帝国の地域的・宗教・民族、言語の多様性、ギリシャ戦争、セルビア・ブルガリアの自治権獲得でオスマン帝国も西洋化を試みた、ギュルハネ勅令・ミドハト憲法で西洋をモデルにした自由主義的革命、1878年憲法停止によりアラブの反乱が起こる、など部分的なことはわかるんですがそれがどうやって衰退につながるのかわかりません。 教えてください。