渋沢栄一は、『日本が生んだ最高の経済人』『日本資本主義の父』。これ以上はない賛辞をおくられ、第一国立銀行総監役ほか、91年の生涯に関係した営利事業は500社を超えると言われた人ですね。
おしゃる通り、生家は代々農業、養蚕の傍ら、利益の多い藍玉(藍の葉を発酵させ、干し固めた染料)の製造・販売も手掛ける武蔵国血洗島(現・埼玉県深谷市)の富農です。一三才の時のペリー来航で尊王攘夷熱にとりつかれ、二三歳の時(1863年)上州高崎城乗っ取りを計画するも挫折し村にいずらくなり、京に出て徳川慶喜に仕官。1867年、幕臣としてフランスに留学します。ここで栄一は生涯のバック・ボーンとなる資本主義の真髄を獲得します。それは、3つあり、まず第一が人々が金を出し合って利益を上げる『株式会社組織』。第二に官尊民卑の風潮のない、武士と商人が平等に付き合う社会。そして、第三に、国王も物の売り込みをする『商』の地位の高さ。(これは、ベルギー国王レオポルド1世から直々に鉄の売り込みをうけての実感だったといいます)帰国してからは留学で得た知識を元に日本最初の株式会社『商法会所』を静岡に設立。しかし、同年大蔵大臣の大隈重信から徳川家の財政を支えた理財術、半紙一枚まで狂いが無いと言われた留学費用決裁書、それに実業家としての手腕を見込まれ『大蔵省租税正(今でいう大蔵省主税局長)』のポストで迎えられます。
その後の昇進も目覚しく、租税制度の改革、貨幣銀行制度の改革など多くの実績を残し、明治5年(1872年)大蔵少輔事務取扱(事務次官)のポストまで登りつめますが、井上馨と共に辞表を提出。
三十三歳の時(1873年)日本最初の銀行『第一国立銀行』を創設し、以後、日本鉄道(国鉄)、東京海上、東京ガス、王子製紙など500社を超える企業の創設に係わりました。
最後ですが、渋沢財閥は『財無き財閥』と言われ、終戦時、財閥解体が行われた時、三井十一家30億円、三菱岩崎五家33億円に対し渋沢一族には1000万円に過ぎなかったといいます。