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could それとも could have gone?
ある大学受験用の問題集からのものです。選択肢は元は4個でしたが、紛らわしくないものは除きました。答えはどちらなのでしょうか? 最も適切なものを1つ選べ。 We didn’t go out last night. We (1. could go 2. could have gone) to the movies but decided to stay home.
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質問者の方は、答えは2であるのはよく分かるが、 could goでいけない理由が分からないということであると思いました。 かれはそこに行くことができた、実際にいった。 という場合はHe could go. とはいわない。大学の受験生レベルでは これは多く見られる間違いです。 これは「可能性」だけを言っている。 しかし質問者の方はこれはよく承知している。 とてもそんなレベルではないわけです。 しかし次に問題が出てきます。 行為を行った場合はcould goが使えないというならば 実際にはそれをしなかったのだから、could goが使えてもいいのでは ないかということかと思います。 つまり、 He could go out.を「彼は行くことができた、 行こうと思えばいけた」とか、いう過去の意味としては つかえないのかということだと思います。 簡単にいってしまえば 一回の行動を示すものとしては使えないということです。 could goという表現が過去をあらわすのは、 何度も繰り返されることを示す表現の場合だけで それは補足の中で示されていたような場合 When she was 15,she could only stay out until 9 o'clock. あるいは、#12の方が示されているような場合だけです。 When I was young, I could climb any tree in the forest. 一回だけの行為には用いないということです。 可能性にしても許可にしても能力にしても 過去の1度だけの行為に関してはcould(肯定形)は用いない。 というルールだけ承知していればすべて解決するような気がするのですが どうでしょうか。 #10に補足の質問に対する答えを書いておきました。
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- Ganbatteruyo
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Gです。 fwkk8769さん、問題集の解答はどうなんでしょうか。 canはあくまでも出来る状態にいる、と言うフィーリングを示すものですね。 それを英語を分類したい人にとっては「可能」「許可」「能力」にしても英語を使う人にとっては関係ないのです。 関係ない、と言うより、「わざわざ分けて考える必要はない」とするわけです。 あくまでも実行できる状態に要ると言う事であって、だれもそれを執行するとは言っていないのです。 couldはその過去形として使って「その状態にいた」と言う事です。 そして、仮定法と言う言い方をして、実際はしなかったと言う事実を表すもの・強調として「使われる」わけです。 またcanとは全く関係なく(canの過去形としてではなくcould の現在形として)使われる時もあるわけです。 だからこそ、両方つかえることになるわけです。 could goはいける状態にいた(許可、可能・能力が理由で)なのです。 could have goneは行けたけど行かなかった、といっているに過ぎないわけです。 is/was able to goとは違うのです。 しかし学校ではcan/couldはbe+able toで表せる、と教えるから問題が起きるのです。 I could goはI was in a position to go if I so decided. I was able to goはI was in a postion to go and (most likely) went.なのです。 昔ならではの文法にかじりついていたい人は世界中どこにでもいます、日本にもです。 そして、それが正しいと主張する事でしょう。 私はその人の意見として尊重はします。 その人が思うとおりに自分がすればいいのですね。 もうこのカテで何回も言ってきた事です。しかし、実際に使われている表現に対して英語を母国語としない人が母国語として使う人に批判はできるはずはないのです。 そう言う人は英語を母国語としていて使いたくないと思う人と同盟を作ればいいのです。 使ってもいいよ、と言う人と較べてサイトの量は大変多いわけですから。 (もちろんだからといってその人たちが要っている事が正しいと言う理由にはならないですね) 昔からの学校文法にかじりついていたい人たちは実際に使われているの見て残念に思ったり、「押し付けよう」とする人たちはインターネットでサイトを作り懸命に言葉の変化(もしそう解釈するとして)に対しもがいているという事になります。 なぜこのようにきつい言葉で言えるかというと、私がそれらの人を批判しているのではなく、精神面で同意できるからなんです。 私の教える何でもありの伝統空手が実はその「かじりついて変化を認めない」姿勢を持っているからなんです。 空手であろうと、柔道であろうと、合気道であろうと、その流祖が武道を確立したときは今のような簡易化された実際に使えない武道を教えていたのではないと言う事を私は知っているからです。 空手に投げや関節技がなく、柔道や合気道に打撃がないなどと考えも及ばないわけです。 仮定法と言う作られた文法にかじりついて、文法がそうなっているんだからcould goは使えないというのであれば、「文法の向上」、つまり文法を作り変えればいいということになります。 作り変えてcould goは使えるとすれば、文法の解説の中の苦し紛れの「例外もある」という「説明句」はなくなるはずです。 人間と言う白黒に分けることのできないgrayの部分の言語能力を分類学的に白黒に分けようとする事自体が人間の能力を見下げた行動とも言えることなのです。 しかし、基本的な用法・使い方というものは必ずあります。 それを使わなくては有効に説明しにくい時や教えにくい事もあるわけです。 だからこそ私は文法の基本は英語の基礎となるものだから自分のみにつけなくてはいけないものだと強調するわけです。 We didn’t go out last night. We (1. could go 2. could have gone) to the movies but decided to stay home. は論文でしか、また、ビジネスだけでしか使われる表現ではありません。 毎日でも使える表現です。 しかし、表現の仕方はこうでなくてはならない、と言うものはないはずです。 TPOに沿った言い回しをすればいいということになるのだと私は信じます。 could goが使えないという理由として意味が違うからと言うのであれば英語を母国語としていない人にとっては使わないようにする理由となるでしょう。 しかし、「曖昧な」文法を理由として使う事はインターネットの検索を理由にするのと同じレベルと感じる人は私一人ではないと思います。 と言う事でこの文章で仮定法を使って問題が起こるというレベルでないわけですから、また過去形を使っても問題がないわけですから私は両方とも使える、と主張したいわけです。 could goが使えない、或いは間違いだとはいえないはずです。 You could use either expression at that time and still can now if you want. と言う事になるわけです。 ではまたの機会に
お礼
二度目の解説をありがとうございました。 まず、問題集の解答は#1さんへの「お礼」で書いたとおり2. could have gone となっておりました。 I could goはI was in a position to go if I so decided. よってcould goはいける状態にいた(許可、可能・能力が理由で)、could have goneは行けたけど行かなかった、といっているに過ぎない。だから、両方つかえることになる、というご主張と理解しました。
補足
都合19ものご回答・アドヴァイスをいただきました。私の元のぼんやりした疑問が皆さんの熱心な解明により論点が整理されたように思います。 そこには次の3つの立場があることが明らかになりました。 (1)2. could have gone のみが正しいとする見方。 《論拠》この(2)のcould …の解釈の「…できた」は可能性ではなく仮定というべきもの。つまり「雪がやんだら」とか「私の気に入る映画がやっていたら」という仮定に基づいて言うわけで、事実から離れた仮定法を使う。そうすると過去をあらわす仮定法だから仮定法過去完了になる。 (2)2. could have gone が文法的には正しいことを認めつつ、1. could go も談話上ありえるとする見方。 《論拠》I could goはI was in a position to go if I so decided. よってcould goはいける状態にいた(許可、可能・能力が理由で)、could have goneは行けたけど行かなかった、といっているに過ぎない。だから、両方つかえることになる。 (3)1. could go のみが正しいとする見方。 《論拠》仮定法過去完了は、「話者が現時点からの考えを述べている」言わば「現在時制」。時制の統一をさせるには1. could go こそ正しい。 皆様のお力で、私自身も随分といろいろ考えることができましたし、大枠の理解はできたように思えます。あとは自分の課題として引き続き考えてみることにします。 入りきりませんので、続きは#18さんの「補足」に書きます。
コメントありがとうございました。Gさんと、mochi-mochiさんのコメントを読んで気が付かせていただいた事の追加です。 We didn't go out last night. We could go to the movies (,we thought,) but decided to stay home. decided が thoughtと同じ役割を果たしています。 つまり、We could go to the movies の部分は間接話法で述べられているのと同じ事で、decided の時点で考えたことを表しています。 映画に実際に出かけてしまったのなら、一回性の法則によりcouldを使うことができませんが、「行けるなぁ」と考えたけど、結局行かないことに決めたという、couldを使わなければ表現できないシチュエーションです。自覚しながら「実行」には移らないことに決定された「その時点での可能性」だけが残ったからです。これが出かけてしまうと、「可能性」プラス「行動」になってしまうので、could が使えなくなります。 We didn't go out last night. We could have gone to the movies but decided to stay home. この後半の文に感じる違和感をなかなかうまく説明できなかったのですが、こういうことだとわかりました。時制の統一が無いからです。形にだまされてしまいますが、仮定法過去完了は、「話者が現時点からの考えを述べている」言わば「現在時制」なのです。つまり、 I think we could have gone to the movies(,) but decided to stay home. というのがこの文の姿です。「今考えると、状況次第では映画に行くこともできたなぁ」(もっと、極端に訳すと、「何だ、今気が付いたけれど映画に行くこともできたんじゃないか」)ということで、これはI thinkを外しても意味に変わりはありません。ところが、decided という一語によって、「事実、その時点で選択しさえすれば『行けた』」ことが示されており、「行くこともできたなぁ」(could have gone)ではないんですね。「行けた」けど「行かなかった」わけですから、could but didn'tの内容です。 I think …but (we) decided という続き方も不自然で、前半は「現在の考え」・「後半は過去の事実」、時間的順序も逆ですし、主語も内容的には実は、ずれています。一文の中で前後が別種の文になっています。 それに対し、先ほどの文ですと、内容的にWe thought …but decided で、時間的順序も自然な流れで主語も統一されています。ごく自然な文になっているように思われます。 というわけで、私の立場は、2は間違いで、1が正解ということになりました。さんざん考えて、この文は1の表現を可能にするために注意深く作られたシチュエーションだということがわかりましたし、なぜ一回性のcould が使えないかということも時制のシフトの作業をしてみることで納得できましたので、逆にこのケースこそcould でなければならないと思います。(「現在の時点から話者が可能性の有無を考えている」のなら仮定法。「過去の時点で主人公が考えている」のなら、could です)。 くどいようですが、なぜ一回性の事がらにcould が使えないかというと、おじいさんがどんな木でも登れたという「能力・可能性の意味でのcould」が、(he could and did explain)にあるように、did の意味が加わって全体の意味が変わってしまうからです。それを、was(were) able to や managed to が肩代わりすることで、could は「実行に変化する前の可能性」の意味として守られたことになります。問題文は、まさにそれを描き出したシチュエーションのように思われます。地の文でcould が使えるのだろうかという疑問が最後まで残っていたのですが、本文の場合は、… but decided という間接話法的な座標で守られていることで、couldが使える枠組みが整えられていることに気付きました。いずれにしろ、この文ではdecided が鍵を握っていたのではないでしょうか。(何回も失礼いたしました。質問への回答もありがとうございました)
お礼
ご丁寧な説明をありがとうございました。 仮定法過去完了は、「話者が現時点からの考えを述べている」言わば「現在時制」。時制の統一をさせるには1. could go こそ正しい、というのがfieldsさんの主張であると私は理解しました。 これで一連のご回答には次の3つの立場があるということになりました。 (1)2. could have gone のみが正しいとする見方。 (2)2. could have gone が文法的には正しいことを認めつつ、1. could go も談話上ありえるとする見方。 (3)1. could go のみが正しいとする見方。
補足
#19さんのところの「補足」からの続きです。 このサイトに質問を出した後、海外のESLのサイト2箇所に同じ質問を出してみましたら、先日回答が返ってきましたので参考までに以下にご紹介します。ただし、共に回答者がESLとしての英語教授の経験を有していること以上の情報はないこと、また私の質問ではあくまで「正しい」ものを求めていることにご注意ください。また、私の個人情報が含まれていますのでサイトの出所についてはご勘弁ください。 (サイトAへの私の質問1) Which is correct, (1) or (2)? Or both? We didn’t go out last night. We (1. could go 2. could have gone) to the movies but decided to stay home. (回答1) Your answer #2 (could with the perfect infinitive) is correct. (私の質問2) Thank you for your comment. Now I understand 2 is correct. But I am wondering why 1 is not OK. Is 1 never accepted? Could you give me some explanation why not? (回答2) Let's look at some different ways that "could" is used. It is best to consider first how modals are used to describe situations in the present, and then see how they are modified to describe situations in the past. To speak of something in the present that is possible and is likely to happen, we use can: 1. It is so cold we can drive our cars on the frozen lake. To speak of something in the present that is possible but is not likely to happen, we use could: 2. We could drive our cars on the frozen lake, but it seems dangerous, so we won't do it. Now let's see how we speak of the same situations in the past: For something that was possible and did happen, we use could + an ordinary bare infinitive: 3, Last winter it was so cold we could drive our cars on the frozen lake. (You change the modal "can" in the present form to "could" in the past form.) For something that was possible but did not happen, we use could + a perfect infinitive (without to): 4. Last winter it was so cold we could have driven our cars on the frozen lake, but it seemed dangerous, so we didn't do it. In your question, if you are speaking of the past and say, "We could go", you would be using the form of my example 3, which is used in cases where you did the thing that was possible. (私の質問3) Thank you again for your elaborate explanation. Let me check my understanding by asking you the question below. Last night we (1.could go 2. could have gone ) to the movies last night but decided to stay home. In this case, too, is only 2 correct? (回答3) 2. could have gone (私の質問4) How about this? Which is correct in the dialogue below, 1 or 2? A: Why didn't you go out yesterday? B: hmm, I (1. could go 2. could have gone)... but I decided to stay home. (回答4) 2. could have gone (サイトBへの私の質問1) I am wondering which is correct, (1) or (2). Or both? We didn’t go out last night. We (1. could go 2. could have gone) to the movies but decided to stay home. (回答1) As the first verb "didn't go out" is the past tense (and 'last night') confirms that, "We could have gone" is the correct verb in the second sentence. (私の質問2) Is only 2 correct in the sentence below? We (1.could go 2. could have gone ) to the movies last night but decided to stay home. (回答2) Yes.. only #2 - could have gone - is correct. (私の質問3) Which is correct in the dialogue below, 1 or 2? A: Why didn't you go out yesterday? B: hmm, I (1. could go 2. could have gone)... but I decided to stay home. (回答3) I would use "could have gone." 皆様のご参加に感謝し、あらためてお礼を申し上げます。
大御所にご登場願えてよかったですね。 やはり、実生活に根ざしたご説明はすごく説得力があります。私などがあれこれ言っていることなど、いっぺんに吹っ飛んでしまうのですから…。 質問を締め切る前に一つだけ教えていただけませんか。この問題は、どこの出題文だったんですか?
補足
出典は『全解説・実力判定・英文法ファイナル問題集・難解大学編』(桐原書店)のNo.175(「問題編」のp.24)です。 大手書店で平積みにされているほど、この時期には売れているはずです。 オリジナルの問題は玉川大学となっていますが、何年の何学部の問題かまでは特定できませんでした。
- Ganbatteruyo
- ベストアンサー率63% (4601/7273)
Gです. fwkk8769さん、こんにちは! また、私なりに書かせてくださいね。 もし、We could not have gone to the movies.と言う文章を違う英語の文章にできるだけ近い意味を持たせ書きなさい、と言う問題があったらどう書くでしょうか。 We did not go to the movies because we somehow decided not to do so.ですね。 いかない事に決めたのは行けないから、と言うことでもあるでしょうし、ほかにやりたいことがあり同時にはできない、と言うことでもあるでしょう。 理由は何であろうとsomehowで行かなかったのですね。 ここまでは(somehow decidedの理解はべつとして)学校でも教わりますね。 いわゆる仮定法です。 しかしこの知識が知識だけに留まる以上、どういうときに仮定法が実際使われるのか理解できないしたぶんする必要もないと洗脳されてしまっているのが現状なのではないでしょうか。 つまり、試験のための英語勉強、だと言うわけです。 (もし、この問題集がcould have goneしか選べないとするなら余計にです) もう一度英文を読んでみてください。 We didn’t go out last night. We (1. could go 2. could have gone) to the movies but decided to stay home. まず、どこにも行かなかった、とはじめに言っています。 つまり、これを聞いた人は既に家にいたということは分かっているのです。 家にいたわけだから、「外」のひとつである「映画を見に行く」と言う事はありえないわけです。 お分かりでしょうか。 実際に起こらなかった事を先に言っているのですね。 (仮定法を使う理由の逆のことになります) 既に言っているのに、その後わざわざ仮定法の文章を持ってきる「必要性」がもう既にないですね。 必要性のない事をやること自体がおかしいと感じるわけです。 「なんで出かけなかったと言ったのに、またいかなかったと言うフィーリングを言う為に使う仮定法を使って言う必要があるの? そしてさらにその後but decided to stay home.とまた言うの?」と言われた人は感じるかもしれません。 この人が言いたいのは、映画に行こうと思えば行けたけど、とか、映画を見に行く事も考えたけど、結局行かない事にした、と言うフィーリングを伝えたいわけです。 と言う事で、行かなかった、と言う結果があるから仮定法でなくてはいけない、と言う知識を使うのではなく、「前後する文章の重要性」がいつどこでも存在する言葉の使い方から考えるとcould goでも十分問題なく使えるわけです。 ただし、この場合仮定法は使えない・使わないと言う事はありません。 混乱させた説明になってしまったかもしれませんが、これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
補足
結論を確認すると、私の元の質問の課題文 We didn’t go out last night. We (1. could go 2. could have gone) to the movies but decided to stay home. では、 「前後する文章の重要性」がいつどこでも存在する言葉の使い方から考えるとcould goでも十分問題なく使える ということですね。 この私の理解が正しいとして、ここまでの議論を整理しますと、一連のご回答には次の2つの立場があるということになり、私の疑問はやはり残ります。 (1)2. could have gone のみが正しいとする見方。 (2)2. could have gone が文法的には正しいことを認めつつ、1. could go も談話上ありえるとする見方。
何度もすみません。We could goが使えるのかどうかということについては、わからないと表明してしまいましたので、もう回答するつもりは無かったのですが、一つだけ気が付いたことがあったので書かせていただきます(読み流してもらえばけっこうです)。 fwkk8769さんがWe could goで表せないか(あるいは表せたらいいなと思っておられる?)と尋ねられている意味内容と、We could have gone が表している意味内容とは微妙に異なるのではないかと気付きました。 We could have gone というのは、「現時点から」その可能性もあったなと考えている表現ですよね。 I think we coud have gone to the movies if we have wanted. 今思うと、もしそうしたいと思っていたなら、行くこともできた。 ですが、その過去の時点で「行くこともできるなぁ」と考えていたらどうでしょう。 We thought, "We can go to the movies." or, We thought, "We could go to the movies." or, We thought we could go to the movies. これは当時の時点で、「ということもできるなぁ」と考えているということで、小説などに出てくる中間話法ですと、このWe thoughtの部分を省略して、 We could go to the movies. (映画に行くことも出来るなと私たちは思った) という表現をしたりします。 We didn't go out last night. We could have gone to the movies but decided to stay home. という表現を眺めて見ると、decidedという表現が「その時点で少し考えてみた」ことを示唆しますので、内容の流れとしては、 We didn't go out last night. Although we had a choice to go to the movies, we decided to stay home. or, We didn't go out last night. We thought whether we should go to the movies or not, but decided to stay home. or, We didn't go out last night. We thought of going to the movies but decided to stay home. といったことが思い浮かべられ、We could have gone to the movies.(今思うに行こうと思えばいけたのだけれど)という表現とはやや合わない感じがします。この表現を使うなら、decidedははずして、 We didn't go out last night. We could have gone to the movies, but actually we stayed home. とでもしたいと感じました。 (つまり、問題文では、もしこのような表現が許されるのであれば、We could go to the movies 《「その時点で映画に行くことも可能であった」の意で》の方が文脈に合っているように思えるということです) 仮定法過去完了の形が、あくまで「現在の時点」から考えている内容を表していることは以下のような例文からも、感じられることです。 It could have been better. もっとうまくやれたかもしれない。 I could have sworn I heard someone outside the window. 確かに窓の外で誰かの声がしたんだけれど。 We could have maybe been a little more shy about the scene, but we also could have made it more than it was. その場面はもっと控えめにすることもできたかもしれないが、もっと過激にすることもできた。 You could have told me the truth. 本当のことを言ってくれればよかったのに。 (英辞郎より) いずれも、「現在の時点」から、過去の可能性について思いを馳せている表現のように思われます。要するに、何を言いたいかというと、「仮定法過去」は「現在の時点」から過去の可能性を想像して言及している表現なので、「過去の時点」で可能性を考えたことを表現するには「時制の一致」が適用されるのが本来ではないかということです。couldの形が許されている「可能」の例を見ると、この「時制の一致」(つまり、過去の時点でcanと言っていたことを、そのまま全体像として過去形にシフトしたような形)を思わせる例が多いです。例えば、 When I was young I could climb any tree in the forest. "I can climb any tree in the forest."からの過去へのシフト。 In those days, a transatlantic voyage could be dangerous. "Today, a transatlantic voyage can be dangerous."からのシフト。 She could be very unpleasant at times. "She can be very unpleasant at times."からのシフト。 When I lived at home, I could watch TV whenever I wanted to. "When I'm home, I can watch TV whenever I want to."からのシフト。 It was dark and misty, but I could see there was a man standing in the garage. "It is dark and misty, but I can see there is a man standing in the garage."からのシフト。 They could not swim and had to be rescued. "They cannot swim and have to be rescued."からのシフト。 (例文はYahoo辞書より) 以上の例では、状況全体が過去へシフトするだけで、意味内容に変化は見られません。一方、could が不可とされている例では、このようなシフトを考えると、シフトの前後で意味内容が変わってしまうか曖昧さを生じることがわかります。 Although the pilot is badly hurt he can explain what has happened. →Although the pilot was badly hurt he could explain what had happened.(原文はcould の部分がwas able toになったもの) 前者では「説明できる・できそう」(仮想ですので文自体多少変である点はご容赦ください)が、後者では実際に説明できたのかどうか不明で文意を表しきれなくなっている(過去になることで事実の成就の是非が要素として加わるため)。 America can spread the ideas of capitalism under the guise of democracy all over the world. →America could spread the ideas of capitalism under the guise of democracy all over the world.(原文はcould の部分がwas able toになったもの) could が不可として説明に取り上げられていた文ではありませんが、この文の場合、仮定法の存在が邪魔をして、「できるだろう」と読めてしまう。また、仮に過去時制として取ると、ことの成就の是非という問題も出て来るし、「過去の可能性」を示すためには、文頭にPeople thoughtなどの「時制の一致」が適用されていることを示すものが必要になる。 The boat captizes quite near the bank so the children can swim to safety. →The boat captized quite near the bank so the children could swim to safety.(原文はcould がwere able toになったもの) ことの成就の是非の問題。 (例文原文は前出書及び英辞郎より) 本題に戻って、「過去のその時点で可能であった」というのは「時制の一致」的な処理がなされて可能になる表現だということが以上のような例から推測されます。ですから、We thought,"We can(or, could) go to the movies.を開いた形として、We thought we could go to the movies.という表現があり、また、中間話法の表現の文脈の中では、単に、We could go to the movies.と書け、このような表現でないと表せない部分があるように感じます。 「その時点で可能であった」という表現は、一つ一つの事実の成就の是非が問題にならない例では、先に挙げた例のようにcould が使えるわけですし、また、実際に事が為されたケースについてはwas(were) able toなどに表現の席を譲っているわけですから、ケースの全般に渡って「その時点で可能であった」= could であっても良いのではないかと思うのですが、 he was able to explain (=he could and did explain) he couldn't explain (=he couldn't, so of coursrse he didn't explain) he could have explained (=he didn't expain, but I think he could) といった表現の陰に隠れてしまって、("= he could but didn't")に相当する表現、問題文ですと、(we thought we could go, but didn't)に相当する表現についての言及は飛んでしまっているような気がします。これがWe could have gone to the movies.とはニュアンスが違うんじゃないか(つまり、couldを判断しているのが「現在の時点」であるという点で)ということは前述のとおりです。小説などでは、その都度状況を的確にする表現を組み合わせているのではないかと思います。 結論として、「その時点での可能性」を示すものとしてwe could goは理論的には一般的にも使えてよいはず。ただし、仮定法との混同や、何らかの紛らわしさの生起のために、使われるケースが実際には限られてしまっているということ(それらがさまざまな言い換え表現の背景なのですが)が現状認識になります。よって、we could goが実際 OK かどうかは私自身は、今後の見聞次第です。結論に資すことができず申し訳ないです。 「時制の一致」ということ(つまり、話者自身の立っている時点と、「可能性」の認識の発している時点との違い)と、「時制が変わることで加わってくる新しい要素に答える表現になっているか」ということが解釈の一つの鍵になっているように思いました。意見が二転三転してすみませんでした。
お礼
ご丁寧なご説明、ありがとうございます。 <we could goが実際 OK かどうかは私自身は、今後の見聞次第です> まったく私も同感です。
- taroandjiro2001
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> I could go... but I decided to stay home. ...の部分があるせいで返答者の発話の前半部分の独立性が高まる(?)のか...。 I could go, but I decided to stay home. 書けば、こんな感じでしょうか。もともと、could は "could be" のニュアンスを持つので、厳密な文書でない会話では、答えが1というのも「ありえる」というだけのことです。 We could have gone to the movies, but I decided to stay home. この文章には、「状況が許せば」という、行かなかった理由が現れていないわけですが、 We could have gone to the movies, if I had decided so, but I decided to stay home. 簡単に仮定をいれると、こんな風な文章になるのだと思います。 We could go to the movies but decided to stay home. 「絶対に誤り」とは言えないと思います。 Her words could be true. I'm so hungry that I could eat a horse. 別に食べたわけではありません。「仮定の能力」などと文法書に書いていますが、「食べられるはずがありません」 I could go/We could go. これは、it could be とニュアンスは同じです。 というのは、could はそもそもcanの過去で使われることが少ないからです。「過去の可能」を表すには、同時に when I was young など、文脈、あるいは会話の中で示される必要があると思います。 could は、普通(ほとんどの場合)、あいまいな可能性を示唆するだけです。could を can の過去形と捉えないことが必要です。(ジーニアスが「許可」としているとすれば、ある種の誤り、または解釈の違いです。) 今、文法書を確認したら、 I could climb trees easily when I was young. was able to を用いてよい。 (能力・可能の意味での) 肯定の could は仮定法で使うことが多いので、「文脈から過去であることが明らかな場合以外は」was able to, managed to を使うのが普通と書いています。 I could die ~. 死ぬかもしれない。 I could die. 死にたいよ。 ですから逆に、「昨日、いけただろう」と、「能力・可能性」に重点を置いて表したければ、 We could have been able to go to the movies, but I decided to stay home. となります。 ただ、#11で書いたように、このように be able to を厳密に表現する、しないは話者の気分しだいです。 会話など、日常的に出会う、could のあいまいさ、単に可能性を示唆する使い方を知れば、could go が誤りとは言えないのではないかとしか言いようがありません。
お礼
「could go が誤りとは言えないのではないか」という点はもう少し考えてみます。 #13(=#11)さんをはじめ皆様のお力で、随分といろいろ考えることができましたし、大枠の理解はできたように思えます。あとは自分の課題として今後のこととします。 あと1日程度で、この質問を閉じようと思います。 ありがとうございました。
私のほうも理解が不十分ですが、今回の質問に関して出来る答えだけをさせていただき閉じさせていただきます。前回触れた文法書の中の「過去の能力」を表す例文です。便宜上、couldを「出来得た」としばらく訳します。 When I was young, I could climb any tree in the forest. そこでこの話者であるおじいさんに私がインタビューします。「こんにちは。あの、おじいさん、唐突ですけど、そのI could climbって、『登り得た』っていう能力だと思うんですけど、実際どうだったんですか?登ったんですか?」「…けったいなやつが現れ居ったな」「いや、そう言わずお願いしますよ」「『登り得た』と言ってるんだから、登ったにきまっとるじゃろうが。実際に登ったから、『登り得た』とわしの腕前を自慢もできるっちゅーもんじゃろが。実際"どんな木"だってわしゃ『登り得た』んじゃ」「そ、そうですよね。で、何回ぐらい、その登られたんですか?」「そんなもんいちいち憶えておられるか!数えきらんわ。お前さん大丈夫かね」「と思います。ど、どもお世話になりました」と退散。続いて、事故現場からの実況。 "Although the pilot was badly hurt he could explain what had happened.…" 「ちょーっと待った」と本部のディレクター。「『説明し得た』って何だ?説明したのかしなかったのか?」→ a と b とのバージョンに分かれる。 a.「いえ、ですから、説明する能力はあったんですけど、途中で気絶してしまわれたんです。全部は話せなかったわけでして」「それなら、紛らわしいからhe could have explained all that had happened but didn't because …だろうが。曖昧な表現は避けるように言ってるだろう?」「ハハ、やはりそうでしたか」「顔洗ってこーい」 b.「『説明し得た』って、もちろん、『説明した』に決まってるじゃないですか。能力があるってことは、当然したことだって、おじいさんも言ってましたよ」「何だ、そのおじいさんって」「いえ、こっちの話です」「報道はな、一回一回が命なんだ。一回一回したのかしなかったのかが重大なんだよ。こういうときは能力もあったし、実行も確かにされたという意味で、he was able to explain what had happened.と言った方が明快で視聴者にも親切なんだよ。おまえしばらく勉強し直して来るか?」「ハハ…」 私がほうほうの態で帰宅すると、電話。「昨日の夜どうしてたの?」「昨日の夜?ええとそれはね、Last night we could go to the movies …」「へぇー、何観て来たの?」「えっ、だから、違うよ。僕が言いたかったのは、行こうと思えば行けたという可能性の話であって…」「じゃ、結局行かなかったんだ。『行き得た』なんて言うから、行ったんだと思って。『出来得た』ってことは『した』ことにきまっとるじゃなかったの?』『ええっ、どうしてそれを?」「まあ、いいじゃない。そういう事実と違う可能性を言う時は、we could have gone の方が紛らわしくなくていいわよ」「どこかで聞いたせりふを…まだ続きがあったんだけどな。Last night we could go to the movies but decided to stay at home.って終わりまで聞いてもらえば誤解はなかったと思うんだけど。we could goじゃだめかね」「終わりまで待っててねって表現ね。『自立してないわ』」「きついね、相変わらず」「『行き得た』って、『行った』とも取れるし、『行かなかったの?』とも取れるし、おじいさんが木に『登り得た』は能力ということでわかるし、いっぱい登ったに決まってるからいいけど、昨日の夜のこととなると、どっちなの?って気になるわね。だって、そのことについて答えていないけど、一番気になるのは行ったかどうかってことなんだから」「なぁる」「『終わりまで待っててね』は、あまり親切じゃないわよ」「な、なぁる」 という事で、「可能性」について述べるにしても、同時に「事実」についてのyes,noに答えた表現をしなければならないのではないかということです。それが問題にならない事がらについては良いのですけれど。 以上、文法書から得られたa surveyに基づく想定問答。実際のところはどうなんでしょう。we could go to the movies.と言われて行った行かなかったどっち縁りに聞こえるのでしょう。すでにお答えになられている皆さんをはじめとする経験豊富な方の声に耳をお傾けください。まあ、突っ込みいれられるんじゃないかって言う想像でした。 前回の答えと微妙に違う見解になってしまいましたが、文法書の解説にあった「couldはもともと可能性を表す語だからである。つまり『~しようとすればできたかもしれない』という事で、現実に~したかどうかには触れていない」という記述は、couldのニュアンスを示してはいるものの、その意味を伝える機能としてそのまま使えると言うことではないと考えます。『~しようとすればできたかもしれない』というのはまさしく仮定法過去でになわれている表現だからです。なお、前回回答中の(he could and did it)は同書中のそのままの表現ですが、I could but didn't.は私の書いた表現であることをお断りしておきます。taroandjiroさんと反対の答えになってしまいましたが、ネイティブの会話を知らないので間違えがあればご容赦ください。
お礼
fieldsさんのご説明には感心するばかりです。大体感じがつかめてきました。 あとは今後の自らの課題とすることにします。 本当に何度もありがとうございました。
- taroandjiro2001
- ベストアンサー率35% (85/241)
夕べこの質問を見て、あれこれ考えたのですが、 We didn’t go out last night. We could go to the movies but decided to stay home. と言えると思います。 For example; Why didn't you go out yesterday? hmm, I could go... but I decided to stay home. これは可能を示していますが、別に、ネイティブも厳格に使い分けているわけではないはずです。 特に、「可能性」をきちんと伝えたい場合はともかく、流してもいい場面では、yes, I can 程度ののりで could を使うこともありえるはずです。 行こうと思えば行けた、というニュアンスはcouldで十分表せるわけです。 逆に、この程度の文章、文意で、could have pp でなければらない理由はないのではないでしょうか。
お礼
これまでのご回答とは違ったコメントを始めていただきました。ありがとうございます。 Why didn't you go out yesterday? hmm, I could go... but I decided to stay home. は、どうなんでしょうか。ひょっとすると、 ...の部分があるせいで返答者の発話の前半部分の独立性が高まる(?)のか...。
- mochi-mochi
- ベストアンサー率56% (123/217)
1回限りの過去の行動についてcouldを用いないのは、「許可」でも同じです。 たとえばPractical English Usageには can and could, may and might:permission 131 の3 reporting permissionに次のように述べられています。 we don't use could to talk about permission for one particular action in the past. I was allowed to see her yesterday. (Not: I could see her..) He had permission to go out for an hour. (Not:He could go out...) (This is like the difference between could and was able to --see 128) 私の持っているのは初版なので今の版とは違うかもしれません。 質問の文で We stayed at home と過去の一度の行動が示されているので We had the permission to go out. と書き直す必要があると思います。 また#9の方の補足に書かれていた文についても同様のことが言えます。
お礼
#17のご回答とあわせて改めて読ませていただきました。この問題の原則がよくわかりました。 ありがとうございました。
手元の文法書("A Practical English Grammar")で確認して見たところ、おおむねこういうことのようです。 そのシチュエーションで特定される行為(いわゆる「一回限りの行動」)をしたかしなかったかということではなく、過去における「能力」のあるなしについてのみ言う場合は、couldもbe able toも両方使える。 例えば、自作の例文ですが、 At the age of 3, I could read books but did read not so much. その年齢時にすでに本を読む「能力はあった」が、あまりたくさんは読まなかった。 質問者さんのあげられた文、 When she was 15, she could only stay out until 9 o'clock. も、「能力」のニュアンスは異なりますが、同様の例だと思います。特定のシチュエーションに結びついた事柄の「成就」を問うているのではない点において。 いわゆる「一回性」を問われるような、特定の事柄については、「する能力があり、また実際にそうした」場合と、「する能力はあったが実際にはしなかった」場合の表現を使い分けます。 「する能力があり、実際にそうした」場合は、すでに挙げられているように、were(was) able to を使います。 Although the pilot was badly hurt he was able to explain (he could and did explain) what had happened. (これは前記の書中の例文です。カッコ内の書き換えも同書のままです) 「する能力はあったが、実際にはそうしなかった」場合は、これもすでに説明がありましたが、could have p.p.の形になります。 I could have lent you the money. (前記書より) (〔言ってくれれば〕お金を貸してあげられたのに) これは内容的には、I could but didn't.です。 訳者による補足説明によると、このような一回性の事柄に関しては、could を用いるべきではないとされています。ですから、実行したのかどうかという観点で、were(was) able to か could have p.p. かのいずれかを使い分けなければいけないということでしょう(#5さんの説明と重なります)(ネイティブの方の日常で厳密にこのルールどおりなのかどうかは私には分かりませんが、少なくとも文法書の説明に拠る限り)。 一回性の事がらにcouldを使うべきではないその理由については、同じ説明の中で、(tokoさんによる説明の繰り返しになってしまいますが)could は基本的に「可能」の有無を表しており、実行されたかどうかについては触れていない表現だからだとあります。ですから、We could go to the movies.は、「実際に行ったとも行かなかったとも取れる表現」なので、このような一回性のシチュエーションについては曖昧さを持つために使わないというのが問題の主旨なのでしょう。 問題文の場合、We could go to the movies.とは言えないのかというと、映画に出かける「選択肢は持っていた」(could の意味は本来そういうことなので)という意味で使えないことは無い様に私は思います(例えば上記の例文のカッコ内の言い換えのように)。ですが、実際にはやはり使うべきではないのだと思います。一つには、曖昧さを持つので行動が伴ったかどうかによって上記の二つのパターンのいずれかを選択したほうが意味が鮮明になること(そもそも場合に応じて表現法を選択しているのは、could 自体が曖昧であるから。「可能・能力」の有無を本来の役割としているので、過去の事柄については「行為」の有無が絡んで事実内容と表現法の対応ルールを設けなければ意味の混乱が生じる。文法の主旨が文意の曖昧さを排することにあることが想起される)。もう一つには、#5さんが言われるように現在の事がらとの混同も生じうるため(「行きたければ今からでも行けるよ」)。 一年ほど前に読んだ小説で、このような混乱をほとんど感じることが無かったのはなぜかを思い出してみました。やはり、きちんと書き分けてあったからだと思います。"He could see it."(知覚動詞と否定形については一回限りの動作にも、可能性と行動が直に結びつくのでcouldを使える)、"He was able to do it.""He could have said those words to her but he didn't."といった明確な表現だったように記憶しています。"He could say those words to her but didn't."ですと、やはり曖昧さがあって一瞬戸惑うでしょう?("He could say those words to her."までの間、いったい言ったんだか言わなかったんだかわからない。それに確かに、これは現在のことを述べているようにも聞こえてかなり曖昧な表現になると思います)
お礼
丁寧で説得力ある解説をありがとうございました。 まだ、私にはまだ十分は消化できてない点もありそうですが、ここから先は私自身の課題のようです。 1点だけ確認があります。「補足」に書きます。
補足
fieldsさんのご説明は明快でした。確認のために1つだけ質問です。 もし、仮に質問文の前半がなくて、さらに後半も少し換えて、 Last night we(1.could go 2. could have gone )to the movies last night but decided to stay home. ならば1、2共にOKということになるのでしょうか?それとも引き続き2のみ可なのでしょうか?
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お礼
#8とあわせて読ませていただきました。ありがとうございます。 論理が一貫していて説得力があります。おっしゃることの理解はできたつもりです。 #15さんのところで補足した区分で言うと(1)の立場ですよね。(2)の立場に対する批判は、 この(2)のcould …の解釈の「…できた」は可能性ではなく仮定というべきもの。つまり「雪がやんだら」とか「私の気に入る映画がやっていたら」という仮定に基づいて言うわけです、つまり事実から離れた仮定法を使うわけです。そうすると過去をあらわす仮定法ですから仮定法過去完了になる、と。