まず海外情報について。あまり正確な情報を一般の人が知ることはありませんでしたが、それでも「外国」というものがあるんだ、という認識はありました。江戸後期から長崎は異国情緒あふれる街として人気の観光名所であり、抜荷を扱った「天竺徳兵衛」のような歌舞伎もあります。朝鮮通信使や長崎のオランダ使節、琉球(一応外国)の使節が将軍にお目通りにやってくると、一目見ようとする人々でにぎわったそうです。オランダから象が献上されてはるばる江戸までやってきたこともあり、このときも大勢の人が見物に出かけたとか。外国は決して遠い存在ではなかったようです。
幕府の上層部ではオランダ商館よりヨーロッパ情勢の報告を定期的に受けており、海外事情にもある程度通じていたということが現在の研究ではわかっています。中国との交流では当時の口語を漢学者たちが積極的に学び、古典研究に役立てたり(徂徠学)、最新の中国小説を楽しんだりしていました。朝鮮通信使との交流はすでに有名なところです。
海外との交流を通して、当然日本という国家の意識はある程度あったと思われますが、それが現在のように強固なものではなかったのは、当時の社会が各藩による連邦制だったためです。例えばチェコ・スロバキヤのように、「チェコ・スロバキヤ」という国よりは、チェコとスロバキヤとその一つ一つのほうが自分にとって身近であるし、大切だと考える人が多かった。その意味でアメリカのような中央集権的な連邦制とはちょっと違います。
あえて言えば「お上」とか「公儀」といった漠然としたものが当時の人々にとっての「日本」だったのではないでしょうか。ただし政治的な意識と文明的な意識はまったく次元を別にする問題です。しばしば「三国一」という言葉が用いられたとおり、文化的には日本は中国、インドと並ぶ独自のものであると考えられていました。
維新期に「日本」という意識が突如強固なものになったのは、第一には外圧によるものですが、その基盤としてこのような土壌があったためではないでしょうか。
鎖国に関しては、江戸時代が下るにつれてほとんど宗教的信条のようになってゆきます。「外国には恐ろしい病原菌(キリスト教)があるから、無制限に開国するのは危険だ」という発想が染みついていて、この面で幕府の教育は完全に成功したといえるでしょう。幕末の奔走家も、大半は鎖国が幕府によるものだとは知っていなかったようです。神代のむかしからある日本の文化的慣習だと思っていたようで、それほど当時の人々にとって自然な制度になってしまっていたのでしょう。海外はおもしろい。興味もある。しかし無制限にやってこられるのはこわい。ある面では現在とそう大差はない考えかたです。
お礼
なるほど、とても丁寧な解説ありがとうございます。当時の人々にとって国というものはとりあえずの枠、みたいな感じだったんですね。 大黒屋光太夫みたいに一度漂流して海外での生活をした者たちはまた違ってきますね、国の違いとかをはっきり意識しだして国に対する考え方も変わったのでしょうか?