「嫌われる勇気」「愛する勇気」がありますか?
これは今評判の本の内容とは全く関係なくただ、タイトルに興味を持ち借用しています。また、一方で、「嫌われる勇気」という大胆なタイトルを持つ本が、これほどまでに人気を博することにも関心があります。
「嫌われる勇気」・・・残念ながらわたしにはありません。
ではわたしにとって「嫌われる」とはどういうことか。
例えば先ず思いつくのは、1930年代の欧州でユダヤ人であること。
アメリカの南部で黒人であること。
或いは日本でハンセン病患者であるということ、広島、長崎で被爆者となること・・・
彼らは望んでユダヤ人に生まれたり、黒人として誕生したり、ハンセン氏病になり、放射能を浴びたわけではありません。
彼らの力ではどうしようもない運命だった。
また自らの意志で「嫌われる道」を選んだ人もいるでしょう。
戦前の日本で反戦活動をすること。
1950年代のアメリカ。マッカーシー時代、「レッドパージ」の時代に、共産主義のシンパであること。諮問委員会でリリアン・ヘルマンやダシール・ハメットのように振る舞うこと。
それらを「反社会的」と見做される人もいるでしょう。けれども、「自由」という概念には当然ながら「反社会的」である自由も包摂されると思っています。またそうでないのなら、それま「全き自由」ではないでしょう。
「嫌われること」は全てを失い、貧窮と差別のうちに死ぬこと・・・と同義だと思っています。
そして同時に「嫌われる勇気」とは「嫌われる人たち」を「愛すること」でもあるでしょう。
わたしは、自分が「キラワレルユウキ」のないこと「国を敵に回して人を愛する勇気があるか自信が持てないこと」を深く深く恥じています。
あなたは「嫌われる勇気」がありますか「嫌われる人」を「愛する勇気がありますか」?
尚、わたしは精神障害者ですが、現実には、精神に障害を持っていることと、「変人」であることを比べると、「変人」であることは、より、「許されざる」ことのように感じます。
わたしは自分が「精神障害者」であることを「変わり者」の免罪符にはしたくない。
であれば、「精神障害者」であることを隠す必要があるのかもしれません。