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東京は「正統派の首都京都」からの略奪首都?
「明治天皇は、「ちょっと江戸まで行って来る。」と、身の周りの世話をしてくれて居た京都御所の女官(にょかん)に申されて、高価なお召し物や三種の神器とかをほとんど残されたまま旅立たれたとの記録が厳存(げんそん)する以上、向こうで何らかの謀略(ぼうりゃく)に遭(あ)われたと視るのが合理的でしょう。 もしそうした謀略に遭遇されなければ、今でも日本の首都は京都のままだったかも。」 との然(さ)るうら若き京女の主張には一定以上の説得力が存(そん)すると思うのですが、賢明なOKWaveの皆さんは、如何お考えですか?
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時代の流れが国民の認識を変えてしまったようですが、 日本の「都」は今でも「京」です。 だから「京都府」なのであり御苑に御所が有るのです。 「東京都」とは「東の京都」でしかなく、 国政は確かに東京で行ってますが、徳川時代から江戸城が施政の中心だった事を考えれば不思議な事でも何でもありません。 その江戸城は明治維新から「東の京」で天皇が元首として施政に携わる為の居場所、つまり「皇居」として徳川家が明け渡しています。 時代が変って戦後昭和になっても「日本の象徴」という名目で行動を政府の判断に委ねている事から、「東の京」なる都に在所を続けているという解釈になります。 つまり「天皇の本家」は京都の府である事に違いはなく、その意味での首都の地位が放棄された訳でもなく京都から遷都された事実も有りません。 ただ、 国政の場は天皇が政治を委ねた武士の時代から始まり、明治時代を経た令和の現在でも国民が選出した議員による議事堂での議会決定に委ねられているので、 東京は「国政の中心」という意味での首都という扱いになります。 現代の国民や世界が認識している首都とは、 天皇が支配した時代の「天皇の本拠地」である「京の都」を指す意味では全くなく、 あくまでも江戸から続き明治維新で「東の京」として名付けた「政治の中心地」という意味合いでしかありません。
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- yaasan
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日本に天皇制は脈々と受け継がれていますが、天皇が君主のように扱われたのは時期が限られます。特に江戸時代は侍が天下を統べていて、その中心は江戸にあったわけです。その時点で首都は?となると江戸(東京)ではないでしょうか。だから、陛下は明治政府に「どうせだから、首都に引っ越してもらえないでしょうか」って言われて越していった、と考える方が合理的ではないでしょうかね。 そして、明治から昭和初期、いわゆる第二次大戦が終わるまでは、民主主義と謳って国家を運営していたとはいえ、陛下は君主のごとき、御旗の元に(陛下の意思を無視して)戦争に突き進んでいたという感じでしょうか。戦争裁判の時に罪を許されたのは象徴として、利用されていただけと判断されたからでしょう。 首都京都が奪われたのはもっと昔、鎌倉時代にさかのぼるのではないか、と思います。
- head1192
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もしそうなら、天皇や一緒に引き移った公家連中の住まいはあんなに早く見つからないし、しかも混乱なく整然と移動できない。
- eroero4649
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「そもそも江戸時代において首都は京都だったのか」だと思いますよ。 幕府があったのは江戸で、各地の地方領主である藩主たちも参勤交代で江戸には行くけれど、京都には行きません。政治の中心地は江戸であり、日本国としての国家の決め事も江戸(徳川家)が決めていました。 それこそアメリカに対して外交交渉をして開国することを決めたのは幕府であり、朝廷は幕府が決めたことを形式上認めただけです。 明治天皇以降は、普段着を洋装で過ごし、精進料理ではなくフランス料理を口にしました。天皇の料理番は和食調理人ではなく、洋食の調理人だったのです。なにせ昭和天皇が天ぷらを食したのは戦後になってからですからね。しかも料理番の秋山徳蔵氏が和食の調理人のところに天ぷらの作り方を習いにいったというのですから、昭和天皇が食べた天ぷらは「洋食料理人が作った和食」です。ちなみに昭和天皇は「天ぷらは、熱いね」という感想を述べたそうです。 だから京都御所ではそういう暮らしはできなかったと思いますよ。日本が近代化するには国全体が西洋化する必要があり、そのためには他ならぬ天皇が率先して西洋化しなければならなかったでしょうからね。 江戸時代から明治時代にかけての価値観の急激な変化に戸惑う人々の話って結構面白いですよ。