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村八分
昔の村落共同体的な村八分(番長グループのいる中で疎外されること)と、今の学校などのイジメの村八分(無視、支配など)は、同じでしょうか?違うでしょうか? 違うとすると、どう違うんでしょうか?今の孤立の問題とつながるような気がします。
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- yaasan
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>世の中には誰かをイジメないといられない人がいるのでしょうか? そういう限定的な話でもないんです。人間が人間である限りにいじめ自体はなくならないでしょう。何故かというと、人間は必ずどこかで比べて上下を感じて生きているからです。深く意識していない人でも「この人よりはイケている」「この人には敵わない」と思う人ばかりだと思います。無意識でも自分より(何かで)上、下と思っている。 普段はそんなに強く思っていなくても、ある時、特定の人に対して、自分よりちょっと上だけど、それが気に入らない。自分より下だと思うのに下だと相手が認めない、それが気に入らない。この二人の関係を個人的に思うように周りが認めてくれないのが、気に入らない。そういう気持ちになった時に具体的な行動で相手を貶めるようになるのがいじめです。些細なことから相手を死に追い込むようなことまで含めて、自分が上だということを誇示したがるのです。それは誰の心にも潜んでいます。いじめが過激化した時、巻き込まれてどっち側になるか、の選択を迫られたりすると人間は日和っていじめる側についたりすることもあります。いじめなんて絶対にしない、と実行できる聖人は滅多にいないと思いますよ。 それぐらいいじめの種は日常にばら撒かれていると思います。
- yaasan
- ベストアンサー率22% (2725/12280)
昔の、と言われる村八分はそういう行動、ではなく、いわゆるその集落で取り決めた法律という面が強い取り決めであります。村落は基本的に自由に出入りできる制度がなく、決まった土地で決まった人間だけで生活する中で、守らなければならないルールから逸脱した人間を最終的にその村落での裁判のような協議を経て、村から追い出さないと秩序が保てないとなって、追い出されるのが村八分です。追い出された人は当然ながら、次に入れてもらえる村落が存在する可能性も低く、一生ハブられたままの生活を過ごすことになりやすい、そういう制度でした。 対して、いじめはその時に偶然にできたコミュニティ(学校とかクラスとか)で力(単純な力ではなく、総合的な要素を含む格のようなもの)は上位だと思っているけど、周りからはそういうふうには見えてない人がその力を誇示するためにターゲットを決めて、その人を下げることによって、自分が持ち上がったように見せられるから、行われる行為です。集団でいじめる時はそのいじめられた人よりは自分が上だと思われたいから、その虚構にすがるためにいじめをするという構図です。偶然にできたコミュニティですから、ハブられた人も自分の思いや行動で、いくらでもそのコミュニティを変えることもできるし、立場を逆転するような行動も取れるということであります。 故に根本的な発生理由からして、全く別のものと考えるのが良いかと思います。
お礼
ありがとうございます。 見えてきたのは、昔の村八分は村落全体の問題、今は、誰でもいいから標的にしたい人を中心とする、小グループがイジメを起こしている(偶然のコミュニティの中で)個人の問題の気がします。 世の中には誰かをイジメないといられない人がいるのでしょうか?無差別標的と聞くと、もっとひどいですが、無差別殺人を思い起こします。
- nihonsumire
- ベストアンサー率26% (843/3157)
語源由来辞典によれば、「村八分とは、仲間はずれにすること。」(参)とあります。これは、村全体に危害が及ぶおそれのある者と別の集団であることを示す行為だと思います。 いじめは、そういう側面もまれにありますが、自分たちと違った部分、あるいは何らかのストレスのはけ口として、一種の快感を得るための行為のことです。 参)語源辞典 https://gogen-yurai.jp/murahachibu/
お礼
ありがとうございます。今の村八分が、ストレスのはけ口や快楽というのはわかります。 昔の村八分が、危害を恐れてだとすると、ストレスのはけ口ではなかったかは、難しいですね。集団になると、何らかのストレスはけ口は、作りそうです。 昔の差別意識も問題ですが、今の無差別村八分も問題です。
補足
無差別標的、誰でもいいから標的にするとはどういうことなのか でしょうか。
- sutorama
- ベストアンサー率35% (1689/4748)
村八分は、自分たちにも危害が及ぶものは、手伝うという考えです 例でいうと昔で言えば、消防です 消防署も警察もなかった時代ですから、火を消さないと燃え広がることから、村総出で消火活動をしていたことになります 一方、いじめの場合は、傍観者や関係を持たない(いじめの事実を知らないなど)人間も中にいますから、村八分とは違います 村八分は、村全体の総意・ルールですから、その家 対 村民全体という形かと思います また、村八分は秩序を守らない村民に対しての制裁ですが、いじめの多くは、言われもない(理由が曖昧)ことが発端ですから、別物です
お礼
昔の村八分は、その家 対 村民全体ですか。今のイジメは、その人 対 イジメグループ + 傍観者で、似てはいますね。 ただ傍観者とは、そこの利害に関係していない。ただ、その人を助けると自分が標的になるので傍観している。そこがキーかもしれません。
- KZ1105A1
- ベストアンサー率26% (277/1045)
村八分とは、どんなに関係を絶っていても冠婚葬祭だけは別という手法です。 学校の虐めとしてのシカトとは別です。 まぁイベントでは教師の指導もあり、仕方無く合同でしなければいけない場合は冠婚葬祭と似た様な部分ありますが・・・ でも、近年の虐めと昔の虐めは質が違いますね。 TVやNETがかなり影響していると思います。
お礼
ありがとうございます。昔の村八分の、残りニ分の許容は、火事とお葬式だそうです。他人事として放っておけないということですね。 今のイジメでも、なかなか村十分にはできないと思います。
- aeromakki
- ベストアンサー率36% (870/2378)
同じではないケースもありえます。 例えば、村八分の原因で不倫とか売春とか伝染病や遺伝病ですね。 差別じゃないけど、八分される側に、嫌がられる理由がそれなりにあった場合です。 また、普通のイジメというのは、ある人物を攻撃することによって、グループのリーダーがその場を支配しようとする、パワハラ的側面が強いです。 「逆らったらこうなる」というやつで、我が家では祖母がそういう人でしたので、 虐待被害に遭った当人の私は、未だに虐待を認めない姉妹と揉めています。 協力者って、加担していたから、認めたがらないものなんですよね。 認識の甘い加担者がいることで、イジメは成り立っているわけで、村八分は必ずしもイジメと同一とは限らないです。 伝染病や遺伝病が薄々分かっていたケースとか、特にそうですね。 今の時代、らい病は克服できましたが、昔はらい病患者が出た家の他の人からは移らないとは分からなかったとか、 津山事件のような結核が多い家とか、そういうケースもあったらしいです。 医学の進歩していなかった時代の人々を、どこまで責められるかは、客観的に見たら難しいとしか言えないと、私は思います。
お礼
ありがとうございます。差別意識はたぶん共同体にもありますね。 昔の、される側の現実的問題はわかりました。今のイジメの差別意識は、成績優秀でも持たれるらしく、そこら辺が違うかもしれません。
- HutsuunoHito
- ベストアンサー率15% (221/1452)
同じ様な物だと思います 閉鎖されたコミュニティで教養の低い人間が集まるとそうなるという事です 学校でも頭の悪い学校ほど、その傾向が高いように思います 頭の悪い教師ほど頭の悪い学校に配属になるので、結果として悪循環になるのでしょうね
お礼
ありがとうございます。閉鎖された空間の問題はありますね。ただ昔の村八分は掟破りなどの、ルールに基づいた規律、統制のための村八分、と聞きます。今のイジメはルールなどあるのでしょうか?
お礼
回答ありがとうございましす。 いじめは日常的なんですね。 アーレンとの「凡庸な悪」を思い起こします。 「凡庸な悪」が、大したことあるのか、ないのか、よくわかりません^^。