この「支那」という言葉をめぐる問題で重視すべきは、語源や差別語かどうかという点ではなく、支那という言葉を日本人が使うことを当の国の人々が官民を挙げて嫌い、戦前の日本政府もこれに配慮して閣議決定までした経緯があることではないかと考えます。
世間の一部には誤解があるようですが、中国という言葉は戦後になって支那の言いかえとして初めて使われるようになった言葉ではなく、それ自体は大昔からある漢語です。明治から戦前にかけては支那のほうが一般には広く使われていたのは事実ですが、次第に中国という言葉も使われるようになっていきました。
日本の外務省のサイトにその理由を示すQ&Aがありました。(以下引用)
Question
戦前に、中国の呼称を「支那」から「中華民国」に変更した経緯を示す記録はありますか。
Answer
外務省記録「各国国名及地名称呼関係雑件」のなかに、1930年(昭和5年)10月に、浜口雄幸内閣が中国の呼称を常則として「中華民国」とするとの閣議決定を行った際の記録が残されています。
この閣議決定が行われるまで、日本政府は、条約や国書を除いて中国を「支那」と呼称するとの閣議決定(1913年6月)に基づき、中国の呼称として通例「支那」を使用していました。しかし、中国は侮蔑的なニュアンスの強い「支那」という呼称を好まず、「中華民国」を用いるよう求めていました。たとえば、中国国民政府文書局長であった楊煕績は、1930年5月に日本と中国との間で結ばれた関税協定において、日本が条文中に「支那」という字句を使用した事を批判し、「今後日本側カ重ネテ斯ノ如キ無礼ノ字句ヲ使用スルトキハ我方ハ之ヲ返附スルト共ニ厳シク詰責シ以テ国家ヲ辱シメサルコトヲ期スヘシ」と論じていました。
こうした中国官民の感情に配慮して、外務省は1930年10月27日に中国の呼称変更を閣議に請議し、同月30日に閣議決定となりました。(引用終わり)
戦時中の「日本ニュース」(全国の映画館で上映された国策宣伝的なニュース映画)のコメントでも改まったニュースでは支那ではなく中国と言っています。ネット上にある当時の音声付き映像からも明らかです。なおこのニュースに登場する「中華民国」は南京にあった汪兆名をトップとする親日政権のことです。(以下引用)
中華民国参戦下、初めて迎う双十節。10月10日、汪主席以下要人参列のもとに、南京において厳粛なる記念式典が挙行されました。
さらに上海でも、市長兼保安司令陳公博氏統監のもとに、軍装凛々しい中国軍隊の閲兵式が行われました。かつては租界の汚名のもと、米英侵略の拠点も今は昔。中国に還った上海市街を歩武堂々行進する中国陸軍。日華同盟新たに結ばれ、共栄建設に進む中国の前途は明るく、力強いものが宿されております。(日本ニュース第178号 1943年11月2日 引用終わり)
戦前にすでに「使うのを止めよう」としていた国の名称を、21世紀の令和の時代にわざわざ使用して無用な波風を立てることは得策ではなかろうと思います。もちろん「東シナ海」や「インドシナ半島」などの定着した地名は別の話ですし、また現在の中国についてどう考えるかということとも別です。好きだろうと嫌いだろうと、国の名前として相手が嫌がる言葉で呼ぶのは好ましくないということ、ただそれだけです。「支那そば」もこれに準じて考えればよいのではないでしょうか。
補足
13年ほど前になりますが、いなげや浦和ときわ店で買い物中に親子連れの客の会話を耳にしました。その時子供がチルドの焼餃子(国産)を見つけるや嬉々として叫びました。 「ねえ、これってチュ-ゴクだよね?食べたら死ぬんだよね?!w」 彼の父は笑みを浮かべながら答えました。 「そんな危ないものは買わないから大丈夫だよw」 あの時ばかりは我が国に「支那」の使用を禁止させれば万事解決すると考える中国共産党の皆さんに同情せざるを得ませんでしたね。問題はもっと根深いものです。 ちなみに同日やはりチルドコーナーに「支那そば」という商品名の生ラーメンがあったので、買っ来ましたが、食べた感想は忘れましたw 万世一系の皇室を戴く我が国と違い、支那国は「中華四千年」を標榜する割に、民族抗争などで為政者が変わる度に国号を変えて来ました。そこに問題の根源があると思います。