結局、いじめは生きていくための正しい行為?
結局、『いじめ』は人が生きていくための正しい行為なんですよね?
そう思えてなりません。
人は自分がいじめられる側(孤立する側)になりたくない。
集団の中でボス的な人物が、弱気な人を選んで、適当な理由を見つけて「あいつ、嫌い」と言う。
そしたら、いじめの標的にされたくない周りの人たちは、自分たちも「あいつ嫌い」と言い始める。
その標的にされた人がどんな扱いを受けても、「そいつが悪いんだからいじめられても仕方がない」と、自分がいじめられないために皆が思い込む。
標的になった人は人としての尊厳を無視され続け、精神的に病んでいく。
集団の中で生きていくということは、椅子取りゲームと同じですよね?
椅子に座れなかった人がいじめの対象になるんだ。
そして、その対象がいなくなったら、また新しいイス取りゲームが始まる・・・。
自分は今まで、「自分がされて嫌なことはしたくない」と思って自分の言動には注意しながら生きてきました。
でも、そんなことしていたから、いじめの対象になりやすいんですよね?
ボスの悪口に同調しない。いじめの対象者を一緒にからかわない。
だから、いじめの対象者がいなくなったら、椅子取りゲームから自分があぶれるんだ。
椅子取りゲームは第1の対象者がいじめられているうちに、第2、第3の椅子取りゲームが始まっている。
社会で生き残っていくためには、いじめの対象になってはいけない。
対象になりたくないなら、椅子取りゲームで椅子に座らなくちゃいけない。
そして、誰かをいじめる側にならなくてはいけない。
椅子に座ることさえできれば、ボスでなくとも、根回しという技術で自分の嫌いな人を椅子から落とすこともできる。
結局、いじめは駄目だというのはきれい事ですよね?
大人は生き上手だから、子供に対しては「口ではいじめはいけない」と言うけど、実際はいじめをしながら生きているんだ。
生きていくためにはいじめに加担していかないと、生き残れない。
自分がボスになるか、誰がボスなのかを嗅ぎわけてついていかなきゃならない。
資本主義ですもんね・・・勝ち残っていかなければならない。
そうしないと、人としての尊厳は無視され続けてしまうんですよね?
自分は今後、椅子取りゲームで椅子に座る側になっていこうと思います。
仲良しこよしでは生きていけない。
だけど、本当にそれでいいのかという気持ちもあります・・・。
でも、それ以外に上手い生き方はない。
他に上手な生き方があれば教えて下さい。