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祈るって
まず初めに、私は無宗教でありいかなる宗教を批判も肯定もしていません。 あくまでもふっと思った疑問です。 祈るって行為は祈れば救われるみたいな感じだと思うのですが、 神様から見たら、別に祈られても何の得もないし 祈りだけでなんで助けなきゃならないの?って思ってるんじゃないでしょうか。 犯罪だってなくならない、戦争だってある 神様が助けてくれるなら起こらないとおもうのですが
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- aran62
- ベストアンサー率16% (485/2911)
私の宗教概念では、神は内面にあるもので表に出ることはあり得ないと思っています。ですから祈りとは本来自己の内面にある神と向かい合うものです。 じゃ協会とか神社・仏閣は何のためにあるかと言えば、向かい合わせるための一種の商売道具です。ですから宗教家はそれを教えているのが商売です。 今までの教えに疑問を持ったり飽き足らなくなったのが新興宗教に走ったり、改宗をしたりするので、時には弱みに付け込んで金品を巻き上げるのが出てきます。才覚のある人は豪勢な館に住み贅沢な暮らしをしています。
- heyboy
- ベストアンサー率21% (1852/8730)
いえいえ、祈る行為する人は 神を広める元になり得るから 救って神様のしてほしい事を 手助けしてくれるからね。 「争い」は何故起きると 思いますか? 要は人の価値観の衝突から 始まります、 それに罪がわかるから 反省もあるでしょ? 逆に罪の無い世界は ただ、退屈ですよ。
- nagata2017
- ベストアンサー率33% (6878/20342)
まず初めに、私は無宗教でありいかなる宗教をも否定します。 ただの無意味な行為です。 存在しないものに向かって祈っても 無駄に時間を捨てているだけ。 祈る時間があればその時間を他のことに使えよ。と思います。 21世紀になっても 未だに宗教だの占いだの 信じる人が存在することが信じられない。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34518)
宗教といっても、宗派によって全然違うんですよ。例えば日本人に最も身近に感じる仏教ひとつにとっても、大乗仏教と小乗仏教に分かれます。 大乗仏教は乱暴にいうと「みんなで極楽に行こう」という考え方です。困っている人がいたら助け合う。それでみんなで支え合って極楽に行こうと考えます。一方で小乗仏教は個人の努力で極楽を目指します。ここの部分だけで「祈る」の意味が変わってくるのです。 一神教となるとこれまた実にややっこしい。そもそも一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の神様は自らを「唯一にして絶対」と主張しております。「俺以外を信じるやつは全員クソ。なぜなら宇宙で唯一正しいのは俺様だけだから」というのが御神託です。だから、助かろうが助かるまいが祈り、ひれ伏すしかないのです。この一神教の神様はえらく嫉妬深くまたちょいとメンヘラ気味で、自分で人間を作っておいて「お前らは俺のいうことをきかない」という理由でしばしば人間に制裁を与えます。大洪水を起こしたこともありましたし、ソドムとゴモラという街を焼き尽くしたこともありました。個人的にもアブラハムに対して「お前さあ、俺のことを信じてる?」「はい、信じてます」「誰よりも?」「はい、誰よりも」「ほんっっっっとーに信じてる?」「はい、もちろん」「じゃーあ、息子殺して」「は?」「私のことを信じてるなら、息子殺して」というムチャぶりまでしています。カインとアベルという兄弟に対してはアベルの供物を大絶賛し、カインの供物をガン無視するという神様にあるまじき行為をして、これが(旧約聖書における)人類最初の殺人事件に繋がります。 かように、神様と信者の関係は「祈ればお返しをする」という単純な関係ではないのであります。 イエスは現世利益を求める心の貧しい者たちに対して「お前たちは奇跡を見ないと信じようとしない。奇跡が起きなくても信じるのが本当の信仰なのに」と嘆いています。イエスさんは水の上を歩くとか死者を蘇らせたとかの伝説をお持ちですが、それを見て騒ぐしもじもを見て「あーあ、こういうのを見せねえとお前らは信じないんだよなあ」と嘆いていたのです。 「神様が助けてくれる(あるいは御利益をくれる)から信じる」というのは「儲かるからやる」という商人と同じで卑しいとされるのです。こう書くとちょっとピンとこないでしょうが、例えば恋愛において「バッグを買ってくれるから付き合う」とか「セックスをさせてくれるからプレゼントをする」となったらそれは愛ではないですよね(ちなみに本来の愛という言葉は仏教用語です)? 「見返りがあるなら付き合ってあげる」という女がいたら「それは愛じゃない」と思うことでしょう。信仰も愛ですから、「見返りがあるから信じる」というのは間違いなのです。 蛇足: 近年の研究で、現生人類が絶滅から逃れ、ネアンデルタール人が絶滅したのは、現生人類が宗教を持っていたからだ、という説が出てきています。同じ信仰を持つ者同士、仮に血族的な関係がなくても助け合うことができたので、絶滅を免れた、と。ネアンデルタール人は我々のような宗教を持っていなかったようです。
- qwe2010
- ベストアンサー率19% (2193/11072)
祈り 無心で、手を合わせるだけ。 それだけで満足します。 いろんな考えがあっていいと思います。 一緒に手を合わせている妻は、何を考えているのかはわかりませんが。
- nihonsumire
- ベストアンサー率26% (843/3157)
スポーツで応援したりする時に、勝って欲しいと思う気持ちを表現するときに遣うのでしょう。これは、時代劇などでの祈るような気持ちの場面に影響され、刷り込まれてきたものかもしれません。 神は沈黙しているように、我々には思えます。しかし、人智を超えてるものを理解できません。
- 中京区 桑原町(@l4330)
- ベストアンサー率22% (4373/19606)
祈るのは自分の心を落ち着かせる、覚悟を決めるために行います。 だから「神様、仏様」って祈るでしょ。 昔は「神様・仏様・稲尾様」って拝んでた
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
昔から「苦しい時の神頼み」(下記)と言って、自分が苦しいと言っているだけで、神とは関係ないわけです。 http://kotowaza-allguide.com/ku/kurushiitokinokami.html ただ祈ると何か効き目があると教わると、グアテマラのチチカステナンゴのサン・トマス教会で見られるような光景になります。 ここの教会の前の方には神の像などがあり、「この前祈ってやったのに、何もしてくれなかったじゃないか」と詰る信者の群れを見て、微笑ましく思いました。
お礼
この場を借りてみなさん回答ありがとうございます。 是非の判断は心の中でしています。 信仰は人それぞれの思いがあると思うので、コメントは差し控えます。