宗教といっても、宗派によって全然違うんですよ。例えば日本人に最も身近に感じる仏教ひとつにとっても、大乗仏教と小乗仏教に分かれます。
大乗仏教は乱暴にいうと「みんなで極楽に行こう」という考え方です。困っている人がいたら助け合う。それでみんなで支え合って極楽に行こうと考えます。一方で小乗仏教は個人の努力で極楽を目指します。ここの部分だけで「祈る」の意味が変わってくるのです。
一神教となるとこれまた実にややっこしい。そもそも一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の神様は自らを「唯一にして絶対」と主張しております。「俺以外を信じるやつは全員クソ。なぜなら宇宙で唯一正しいのは俺様だけだから」というのが御神託です。だから、助かろうが助かるまいが祈り、ひれ伏すしかないのです。この一神教の神様はえらく嫉妬深くまたちょいとメンヘラ気味で、自分で人間を作っておいて「お前らは俺のいうことをきかない」という理由でしばしば人間に制裁を与えます。大洪水を起こしたこともありましたし、ソドムとゴモラという街を焼き尽くしたこともありました。個人的にもアブラハムに対して「お前さあ、俺のことを信じてる?」「はい、信じてます」「誰よりも?」「はい、誰よりも」「ほんっっっっとーに信じてる?」「はい、もちろん」「じゃーあ、息子殺して」「は?」「私のことを信じてるなら、息子殺して」というムチャぶりまでしています。カインとアベルという兄弟に対してはアベルの供物を大絶賛し、カインの供物をガン無視するという神様にあるまじき行為をして、これが(旧約聖書における)人類最初の殺人事件に繋がります。
かように、神様と信者の関係は「祈ればお返しをする」という単純な関係ではないのであります。
イエスは現世利益を求める心の貧しい者たちに対して「お前たちは奇跡を見ないと信じようとしない。奇跡が起きなくても信じるのが本当の信仰なのに」と嘆いています。イエスさんは水の上を歩くとか死者を蘇らせたとかの伝説をお持ちですが、それを見て騒ぐしもじもを見て「あーあ、こういうのを見せねえとお前らは信じないんだよなあ」と嘆いていたのです。
「神様が助けてくれる(あるいは御利益をくれる)から信じる」というのは「儲かるからやる」という商人と同じで卑しいとされるのです。こう書くとちょっとピンとこないでしょうが、例えば恋愛において「バッグを買ってくれるから付き合う」とか「セックスをさせてくれるからプレゼントをする」となったらそれは愛ではないですよね(ちなみに本来の愛という言葉は仏教用語です)?
「見返りがあるなら付き合ってあげる」という女がいたら「それは愛じゃない」と思うことでしょう。信仰も愛ですから、「見返りがあるから信じる」というのは間違いなのです。
蛇足:
近年の研究で、現生人類が絶滅から逃れ、ネアンデルタール人が絶滅したのは、現生人類が宗教を持っていたからだ、という説が出てきています。同じ信仰を持つ者同士、仮に血族的な関係がなくても助け合うことができたので、絶滅を免れた、と。ネアンデルタール人は我々のような宗教を持っていなかったようです。
お礼
この場を借りてみなさん回答ありがとうございます。 是非の判断は心の中でしています。 信仰は人それぞれの思いがあると思うので、コメントは差し控えます。