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キリスト教にとっての「祈り」について教えてください

信者の方、若しくは宗教関係者(宣教師、牧師、宗教家)にお尋ねします キリスト教に於いて、『祈り』とは何ですか? 漠然とした質問ですみません、  何を、何に対して、どのようなことを、どんな姿勢で、何を思って、 どのような面持ちで、キリスト教にとって「祈り」とは何ぞや? どのような行為なのか? どんな意味なのか? 何のためにするのか? 等々何か御教示頂ければ幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • keepfaith
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回答No.1

こんにちは。わたしはキリスト教信者で、宣教師として伝道したこともあり、教会の日曜学校で教師として奉仕したことも何度もあります。(わたしたちの教会には職業牧師はいないので、皆無報酬でやっています。) ここでは次数も限られているので、簡単に書かせていただきます。内容も限られてしまいますが、ご了承ください。 お祈りとは簡単に言えば、わたしたちの霊の御父である、神様とお話することです。話といっても、お祈りの場合、話された言葉でというより、心と心、あるいは霊と霊とでのということですが。 イエス・キリスト様が天の父なる神様とわたしたちとの間の中保者、購い主なので、イエス様のお名前によってお祈りします。 内容としては、感謝すること、感じていること、悔い改め、お願い、などを述べ、導きや助けなどをお願いします。 そして、述べたあと、静かに心の耳を傾けて待ちます。これは天の父なる神様からの導きや答えを感じるためです。導きや答えは耳にはほとんどの場合、耳には聞こえませんし、すぐに祈りの答えや導きが与えられるわけではありませんが、もし自分の考えていることが正しいなら、また進もうとしている道が正しいなら、心に平安さや温かい気持ち、またそれでいいというような確信を感じることで、答えや導きがわかります。 最初はそれを認識するのがむずかしいかもしれませんが、慣れてくればだんだんわかるようになります。 導きや答えはお祈りのすぐあとでなくて、別のとき、本や人の話を通して与えられることもありますし、インスピレーションのような形で与えられることあります。 導きや答えを受けたら従おうという気持ち、そして実際に従うことが大切です。もちろん、お祈りだけしてもだめで、自分で努力をしなくてはなりません。また、自分で考えて決める必要のある場合は、導きが与えられないようです。何でも導きを与えられると、わたしたちは自分の頭で考えなくなるし、成長できないですものね。 天の父なる神様は、わたしたち霊の子供たちすべてを愛していらっしゃるので、導きを求めれば誰にでも必用なときに最善の方法で与えられます。 姿勢などは人それぞれだと思いますが、わたしたちの教会の場合、多くの会員は家では朝起きたときと夜寝る前には個人で、そして家族一緒にも、膝まづいてお祈りし、あとは食事の前これはテーブルの席についたままで、その他祈りたいとき、祈る必用があると感じるときです。わたしは車運転をするとき、仕事の前、などにもお祈りします。目を閉じ、頭を下げ、腕を組んでお祈りします。 でも、そのようなちゃんとしたお祈りができないときでも、いつでも心の中でお祈りすることができます。 お祈りの仕方ですが、 1.天の父なる神様に呼びかけます。   「天の父なる神様」というような感じで。 2.次に感謝することを述べます。 3.次に心に思っていること、自分の状況、お願いしたい助けや導きなどについて具体的に述べます。 4.イエス・キリスト様のお名前によってお祈りします、アーメン。と言います。 5.しばらく目を閉じたままで、心に導きが来るのを待ちます。 どんな気持ちでということですが、天の父なる神様に対する感謝・全幅の信頼・尊敬の気持ちでです。そしてもっと従順に教えに従いたい、もっと成長し、もっと周りの人の助けになりたいという気持ちもあります。口先だけではなく、心から熱心にお祈りすることが大切です。言葉よりも心・気持ちが大切と言えます。 わたしの経験からも、他の人たちの経験からも、お祈りには確かに力があります。正しい道を歩みたいという気持ちがあると、そうできるように導いていただけます。辛いとき悲しいときにも心に平安と強さをいただいてきました。そして天のお父様とイエス様がどんなにわたしたちを愛していらして、人生においてわたしたちが気づかなくても、いろいろと助けてくださっていることがわかるようになりました。 お祈りに関心がおありでしたら、お祈りされることをお勧めします。 天から力を受けられるということは本当にありがたく素晴らしいことです。 天の父なる神様とわたしたちの購い主イエス・キリスト様の愛や力を感じられるということも、とても素晴らしいことです。 これが貴方の「祈り」を理解するお役に立てば幸いです。

ynswq858
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます 全く形の無い混沌とした捉えようの無い雲のようなイメージだったものがいくらか形を現してきたように感じました、 ただ宗教用語なのでしょうか「中保者、購い主」の意味がよく分りません 【中保者】というのは橋渡しする存在!らしいということまではなんとなく感じ取れるのですが、【購い主】というのは全くイメージ出来ませんでした。それと「天の父なる神様は、わたしたち霊の子供たちすべてを愛していらっしゃるので、導きを求めれば誰にでも必用なときに最善の方法で与えられます。」ですがこれは信者に限られるのですか?それとも人類すべてなのでしょうか? それと「神様とお話することです」という部分については会話するというよりも 『大いなる存在に触れる、感じる。感じ取る』というニュアンスなのでしょうか!? 祈りという行為、プロセスを経て目的、結果である「答えや導きがわかります」に到る過程で「答え」とは自分の中で醸造し生成するものなのか見つけ出すことなのか? つまり祈りとは導入してゆくための道筋、入り口なのか、啓蒙出来るための機会を持つことなのか、触発、触媒のようなものなのか、  それとも「答え」とは絶対的な神に近づく、神の絶対的な価値観を発見、見つけていく事なのですか?  すいません長くなってしまいましたねお礼のつもりがまた質問になってしまいました、よければお手すきで気が向いたときにお願いできればと思います、ありがとうございました。

その他の回答 (5)

  • cato_01
  • ベストアンサー率26% (74/277)
回答No.6

宣教司牧   おさえようよ。   ★ あ 指摘されて分かった。質問者と回答者 逆に書いてしまった。 ★ 私の友達である「神経医」も、「人・物・金・情報」村  の 通信線です。ここは 質問者の 権利・する 場所です。 ★ 私 決して 「宣教者」と言う立場では書いていないので、 質問者さんは 安心して 言葉を入れてください。頼みます。

  • cato_01
  • ベストアンサー率26% (74/277)
回答No.5

vnswo858 さん  keepfaith さん が 書いてくるまで 宣教司牧   おさえようよ。   ★  ここは 質問者である、彼の 場所 なのですから。

  • keepfaith
  • ベストアンサー率49% (77/155)
回答No.4

こんにちは、再びNo.1です。 貴方さまが「祈り」について、真剣に知りたいと思っていらっしゃるお気持ちを感じ、嬉しく思います。 まず、「中保者」の意味ですが、おっしゃるように「橋渡しをする人、仲介する人」の意味です。イエス・キリスト様が天の父なる神様とわたしたちとの間の橋渡しをされる方なので、そのようにも表現します。 次に「購い主」についですが、イエス・キリスト様はわたしたち全人類の罪を購われました。ですから、わたしたちの購い主なのです。購うというのは確かに宗教用語ですね。買い取るというような意味があります。わたしたちは天の父なる神様の霊の子供として、素晴らしい可能性、才能や賜物も含めて、ありますが、それと同時に不完全で誰でも道徳的な意味では罪を犯しています。そして、不完全なために自分で自分の罪を完全に償うことができないのです。 何も罪を犯さず、完全になられたイエス・キリスト様だけが、わたしたちの罪を代わって購う、つまり買い取ることができたのです。で、わたしたちは、悔い改めとイエス様を通しての神様の教えに従って正しく生きるどりをするならば、その購いがわたしたちに効力を発揮し、罪から開放されるのです。わたしたちは毎日悔い改める必要があります。つまり、イエス様はわたしたちがどんなに頑張ってもできないことをしてくださったのです。これ、イエス様をせ自分の購い主として受けいれることが、キリスト教の中での中核となるところです。 天の父なる神様は、全人類のお祈りに耳を傾けてくださいます。祈りの方法を知らないで、自分流に祈ったとしても、大丈夫です。心から、天のお父さまを求め、正しい導きや助けがほしいなら、心から純粋に祈り、祈りの答えに従おうという気持ちがあるなら。 天の父なる神様とのお話というか会話というか対話ですが、全知全能の父なる神様の存在を感じるという場合もありますが、人と人との間に行われる会話のようでもあります。わたしたちが話すだけでなく、天のお父様もわたしたちに語りかけてくださるのです。といっても人との会話と違い、耳に聞こえる声ではなく、心に聴こえるというか感じる話ですが。でも、自分の思いではなく、神様からの導きを受けることがでるのです。具体的なアイディア7インスピレーションというような方法、あるいは心に暖かものを感じたり、平安な気持ちを感じたりということもあります。神様から導きを受けられるのです。誰でも。 単なる自分の心の中での醸造や生成とは異なります。天の父なる神様はわたしたち1人1人を霊の子供として、とても大切に思ってくださり、必用な助けや導きを与えたい、成長してほしい、幸せになり、互いに助け合ってほしいと思っていらっしゃいます。 マザーテレサは、若い頃、神様の声を聞き、それで奉仕の生活を始めたということですよね。 おっしゃるように「祈り」は天の父なる神様の存在を知る手段の一つ、近づくための方法でもあります。「祈り」という漢字を見ると、偏が神様を表し、作りが近づくの作りでできていて、漢字自体も「神様に近づく」という意味を表していますね。 ある人は、神様の存在について知りたくて、お祈りした結果、心の中にとても暖かい気持ちを感じ、神様は本当にいらっしゃるとわかったそうです。 上記の説明で理解が増すお役に立てば幸いです。 まだすっきりしない点や疑問点、質問などおありでしたら、遠慮なくおっしゃってくださいね。わたしの理解の及ぶ範囲で、いくらでも説明させていただきます。

ynswq858
質問者

お礼

最初にお礼が遅くなりましたことをお詫びします。 この回答を始めに一読した時にはお尋ねしたい事や、次なる疑問等も浮かんだのですが、まず整理してすべての回答に対する整合性を考慮しなければ、失礼になると考えて、質問内容をまとめようと回答を印刷して精読したところ、一度目と二度目の回答にすべてが含まれており、これ以上は踏み込めないなあ、と感じました。  あえてしたとしても、それは最早質問やお尋ねするといったニュアンスでは無く、詰問や議論になってしまう。それはこのQ&Aの本意から外れてしまうし、せっかく回答して頂いたkeepfaithさんに大変な失礼をおかけする事になってしまいます、それはネット上で顔の見えない匿名性の上でするべきお話ではありません、これがもっと違う場で出会っていればもっと突っ込んだお話も出来たでしょうが、  大変お返事遅くなりましてすみません、本当にありがとうございました。  

  • cato_01
  • ベストアンサー率26% (74/277)
回答No.3

祈り  もう1本書いてみましょうか? 元々、当方は、日本人には少ない、武家出身なんです。 武家の風習は、愛を伴って、主君に忠実に従うことです。 最も こちらの主君は仏教徒だったし、今・兄宅も、昔の主君とは 連絡を取り合っているそうです。 愛に 従い、祈ること。だとすれば、私は、イエス藩を主君に持つ 家臣と、言い切れると感じます。 高山右近 対する 加賀山隼人  みたいなのが理想的な 祈りによる、愛。 故に、隣人の悲しみに、より沿わせて欲しいと言う、 祈りに、進んで行くことに、なろうかと、思います。

  • cato_01
  • ベストアンサー率26% (74/277)
回答No.2

祈りとは、神様との対話。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。                ヨハネ 3-16. 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。                使徒行伝 16-31 ★ この二つの聖句は、祈りの極意中の極意 でしょう。

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