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亡くなった舅が戦争に行ったことについて
現在もし生きてたら96歳くらいの舅について教えてください。 舅は大正生まれで戦争に行ったので、政府からねぎらいの品・・・見た目は金で盃の形をした品物です・・・そういうのが平成1,2年ごろに自宅に送られてきたことがありました。 舅は戦争に行ったんです。 で、今舅のことを思い出せば、くだらない、家事についての事とか、全く参考にならない自分の幼少の頃の話とか亡くなった兄弟の話とか、亡くなった奥さんの話とかで 主には口をはさんでもいいことが起こらない家事についての事を口数多く話をしていたことしか思い出されません。 口数の多い人でおしゃべりな方でした。 所で、私も子供を持ったり、孫を持ったりする年齢になった今、 夫の父について話をしたいのですが、現実、家事についての関心しかない人だったので 誇らしく子供らに話せる内容が無いのです。あんなに多弁な方だったのに、内容が本当にくだらないものしかなく無いのです。 子供らの社会についての勉強を見てた時 舅はどこに戦争に行ったとか、なぜ、一度も話をしてくれなかったのか何度も思いました。舅は無駄に会話が多い方で、おしゃべりな方だったのになぜ、戦争の体験を話してくれようとはしなかったか、わかりますか? 話始めたら止まらない人なので私から何か質問はしたことがありませんでした。もし、何か質問したら、5,6時間話し相手になるほど話が長い人だったので、話は聞き役、こちらから話しかけたり、質問したことはありませんし、したくなかったです。 でも、今思えばなんですが、舅はなぜ、戦争の話を一度たりともしなかったのですか? そこをしてたらもっと尊敬されてたと思えてならないのになぜ、しなかったのですか? わかりますか?
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- tiltilmitil
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自分の母の叔父だか祖父だかは戦争に行ったけど、軍艦に乗る前にケガして帰ってきてたいそうバカにされたそうな。『戦争に行った』は『ドラマチックな体験をした』とイコールじゃない。
- nonamelane
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私はある老人から何度も戦争の話を聞きました。それはかいつまんでという内容ではなく思い出しては語るというもので、時に取り留めなく繰り返し、私にも忍耐と時間が必要でした。しかし思えばそれを話す以前に、ご自身の戦争とは関係ない話を多くされておられました。あなたはその彼の家事や幼少の話を、くだらないとお感じになった、それを分かっておられたことも一因ではないでしょうか。重い口を開く内容です。誰にとっても良い思い出ではありません。仲間を失った方も多い。一般市民にとって戦争は何の意味があったのでしょうか。 平和に暮らす今、特にそういったことを話す必要がないと思われたか、おそらく話す気になれなかったか(興味を示して教えてくれと言われない限り)あるいは故意にその話を避けたかでしょうね。トラウマである場合も多いです。私の知人の老人は白人でUS海軍だったのでその思い出を何度も何度も話しましたが、そこに至るまでに長い時間がありました。私が日本人であることも考慮したと思います。負けた側である日本人が戦争の話をするときは、やはり話してほしい、伝えたい、話したいと思わない限り重い口を開きにくい気がします。多大な犠牲を経験なさっておられるからです。再度、誰にとっても決して良い思い出ではありません。あなた方が興味を伝えれば別であったと思いますが。後世に伝え、そういったことを二度と繰り返してはいけないという姿勢なら話したかもしれません。特に仲間を失った方は生きのこったことに複雑な感情を抱いておられるかもしれません。話してもらうことは実はそうそう簡単ではない気がします。勇ましいエピソードとして話すにはあまりにも痛ましいからなのです。
- zabusakura
- ベストアンサー率14% (2381/15944)
嫌な思い出、辛い思い出だったからじゃないですか?
- pipipi911
- ベストアンサー率22% (1029/4602)
《話始めたら止まらない》ということで、 もしかしたら、お舅さんは、発達障害だったのかも しれませんな。無傷で帰還されたのでしょうか。 それだけで、奇蹟の人ですよね。 前線で戦闘する機会がないような役割だったことも 考えられますが…お舅さんの戦時の状況を知りたければ、 軍人会からの名簿が送られて来ていたのが残されている でしょうし、年賀状とかも届いたのが残っているかも 知れませんので、いまからでも、お舅さんの戦友だった人達に 連絡をとって、訊いてみませんか。 [私は、多くの旧日本兵、軍属、従軍看護師さんの等の 戦時体験を「聞き書き」していたのですが…門前払いを 喰らったことも有りました。青春時代の苦い思い出なので 話したくない人達もいるのです。 〈人間魚雷「回天」の戦闘員で、母艦のイ号〇〇〇で 出撃したものの濃霧に阻まれて帰還して終戦を迎えた人 などは、全く相手にしてくれませんでした〉] ある人に「回天」の戦士の話をしたら、 《強姦された女性に事情を訊きに行くようなもので、 喜んで話してくれる人はいなんじゃないかなぁ》と 云われ、爾後、取材を諦めたことがありました。 皆さん高齢なので、時間の問題になります。 お早めに、連絡をとって、お知りになりたいことを 知ってみてください。 お舅さんの「沈黙の理由」が明らかになるかも 知れませんので。 [他、お舅さんの兄弟姉妹、お姑さんの兄弟姉妹が ある程度のことを知っている可能性がありますので、 訊いてみませんか]
- angelo77
- ベストアンサー率15% (304/2021)
私の祖父は早くに亡くなったので、直接話は聞いてませんが、祖母が最近になって満州から引き揚げた時の悲惨な話をポツポツするようになりました。 祖父は技術者だった為最後まで徴兵されず、祖母と子供達を連れて逃げる事が出来たそうですが、守ってくれる男手の無い女子供達は本当に酷い経験をしています。 祖父も生前戦争の経験を誰にも語りませんでした。 で、もしあなたのお舅さんが戦争の話をしたところで、あなたは聞いたんでしょうか。 戦争体験に興味ありますか? 私の父は、数年前から祖母が満州から逃げた経路を調べ始め、船が着いた九州の小さな港まで行って来ました。 年で記憶の曖昧な祖母が語る船の名前や、到着した地名などを頼りに1人で調べてました。 あなたもお舅さんについて知りたいなら、その金杯が何かを調べる事から始めてはいかがでしょう。 戦争に行った事がどうして尊敬されると思われるのか分かりませんが、盃には何か意味があるのかもしれませんね。
- mare5646
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私の祖父も支那事変の時に満州に行っています、それも志願で二回も。 ただ戦闘には直接関わらない後方支援の倉庫管理をしていた様です。 昭和15年で二回目の従軍を終えた後、太平洋戦争には関わる事はありませんでした。 祖父が存命中は、誰も戦中の話は聞いた事がありません、亡くなった後遺品の古い鞄から従軍中の日記が出て来て、それで始めて色々知りました。 満州での話をしなかったのは、太平洋戦争に参加せず、多くの戦友を亡くし、自分が行きて帰って来た事を悔やんだのかも知れません。 直接戦闘に参加しなかった祖父ですら語る事が無かったのですから、前線で戦って来た兵隊さん達は最も語る気にはなれないと思います。 戦って来た兵隊さん達のご苦労は察しますが、皆んながヒーローという訳ではありません、多くは心も身体も傷付いた普通の人達なのです。
- cactus48
- ベストアンサー率43% (4480/10310)
戦後生まれで戦争を知らない世代ですから、舅さんが何も語らかった 本当の理由はわかりません。ただ元自衛官で厳しい訓練を受けて来ま したので、質問者さんよりは少しは舅さんの気持ちは理解出来るので はと思います。 戦時中の舅さんは一言では言えないくらいに辛かったはずです。その 事を詳しく説明しても誰も同情してくれないし、信じては貰えないか も知れない。話せば話すほど辛かった当時が思い出されるから、それ で舅さんは固く口を閉ざして語られなかったのだろうと思います。 軍隊の上官であれば自慢げに話されたでしょう。下っ端は上官の命令 を忠実に守り実行するしかありませんから、ほとんど毎日が地獄だっ たと思います。戦争の話をしたって、誰も尊敬なんてしませんよ。 尊敬して欲しくて戦争に行ったんじゃありませんから。 話したら当時の事が思い出され、語れば語るほど辛さが増すから舅さ んは語るのを拒まれたのだろうと思います。
- kano20
- ベストアンサー率16% (1172/7073)
戦争に行ったのが事実だとしても、言葉にするようなことは何も無かったからだと思います。 戦争に行きひたすら下働きをしていた人もいます。 これも戦いだと納得しつつもどんな部署についていたのかも言わなかったのなら、戦争に行った!であって舅が思う部署に配属されなかった、隠したいし話す自つもりもなかったということでは。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34516)
>舅はなぜ、戦争の話を一度たりともしなかったのですか? ある元日本兵さんのお話なんですがね。中国戦線にいて、ある村に入ったら逃げ遅れた女性と1歳半くらいの坊やがいたそうです。戦争でいつ死ぬか分からないから、当然ここはレイプするところです。誰も見てないし、逃げ遅れた女が悪いですし、自分が捕まる心配はゼロで、自分も明日には死ぬかもしれません。みんなでレイプしたそうです。それは戦争の「ありふれた日常」です。 その女性、いつまでたっても泣き止まないのでイライラした兵隊たちはその女性を殺して村の井戸に捨ててしまったそうですよ。するとね、その子供が泣きながら自ら「マーマー!」といって井戸の中に自ら落ちたそうです。母親を追いかけたんですね。井戸に落ちたものだから、たぶん骨折か何かしたのでしょう。井戸の中から痛がる泣き声が聞こえたそうです。それで、先輩の兵士が「おい。可哀想だから楽にしてやれ」といったので、手榴弾を井戸の中に入れました。爆発後、泣き声はやみました。 戦争の誇れる話って、なんですか。戦友の体がバラバラになった話ですか。負傷して動けなくなり、置いていかないでくれと泣いてすがる仲間を置いて、耳をふさぎながら生き残るために逃げてきた話ですか。何の罪もないアメリカの若者を機関銃で沢山殺した話ですか。軍隊のいじめで嫌な先輩に目をつけられて、革靴で顔の形が変わるまでボコボコに殴られた話ですか。 ぜひ「野火」という映画を見ていただきたいなと思います。またもし機会があれば「レストレポ」というアメリカのドキュメンタリー映画も見ていただければなと思います。ツタヤのノンフィクションのコーナーにあります。 まだあどけない顔の少年といってもいい若者が、ニコニコ笑いながらいうんですよ。「戦争から帰ってきて、眠れない。どんな睡眠薬を飲んでも眠れないんだ。でも眠ると戦争の悪夢を見るから、眠れないほうがマシなんだ」って。 タリバンがいると思われるところを米軍機が爆撃して、そこにいってみたら現地の村の3歳くらいの女の子が顔中泥だらけになり、ヤケドを負って放心した状態でカメラを呆然と見つめているんですよ。そういうのを、毎日のように見てきたのです。
- tpg0
- ベストアンサー率31% (3785/11963)
こんにちは。 もし、現在も健在でしたら96歳くらいなら大正10年前後の生まれと思います。 私の母親が大正9年生まれで今年97歳になってますので、私の母親より1歳くらい下になると思いますが、戦時中は20代前半の若さだったでしょうから徴兵されて陸軍に入隊したとするなら二等兵か一等兵の階級だったと思われますので「武勇伝のような手柄は無かった」から戦争のことは思い出したくなかったのではないでしょうか。 もし、最前線の戦場で手柄話があるようなら、こちらから聞かなくも手柄話をすると思います。
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