※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:表現の自由と自然権の対立について)
表現の自由と自然権の対立について
このQ&Aのポイント
シャリル・エブド襲撃事件で、事件後、ペンの自由(表現の自由)を訴えての追悼集会が各国で催されていました。
表現の自由は被権力者間では自然発生し、今回の襲撃者側が持つもう一つの自由との対立があったに過ぎないと考えられます。
今回の襲撃者は国家が公共の福祉を理由に制限している報復の自由を行使したと思われます。同じ自由のぶつかり合いの中で、表現の自由は優位ではないと言えます。
シャリル・エブド襲撃事件で、事件後、ペンの自由(表現の自由)を訴えての追悼集会が各国で催されていました。この人権のひとつである表現の自由はどんなことがあっても侵害されない権利ということを主張していると思うのですが、一つ目の質問は、人権は、そもそも権力者(国家)と被権力者(市民)間での話であって、被権力者(市民)間の話ではないと思うのですが、つまりは、表現の自由はそもそも被権力者間では自然発生していて、今回は、襲撃者側が持つもう一つの自由(人権)との対立があったに過ぎないと思うのですが、そのあたりのロジックを教えてください。もう少し補足すると、被権力者間で自由や人権が侵害されるのは、他方が異なる自由や人権を行使し対立が起きた状態で、自由や人権を国家が奪うという次元ではないように思えます。これに関連して、二つ目の質問は、今回の襲撃者は、国家が公共の福祉を理由に自由を制限している報復の自由を行使したのだと思うのですが、言い換えると、国家が法律で制限するものの本源的には持ちうる自由(人権)を行使しただけのように思えます。つまりは、同じ自由(人権)のぶつかり合いの中で、表現の自由が優位概念ではないように思えます。さらに踏み込むと、今回のような風刺画を表現の自由ということで誰も侵害できないものとすることに対して、歯止めをかける考え方がないのだろうかとロジックを探しています。どうぞ助言よろしくお願いいたします。
お礼
ご回答ありがとうございます。「道義的には許されずただし、法律的には許容され、暴力で解決しようとした場合は法に則って処罰される。そう言う制度になっているだけと言うことではないかと思います。」という表現に深く賛同しています。あともう少しで、表現の自由への抑制のロジックが出来上がりそうな気がしてきました。「むしろ権利を悪用していると言うこともあると思います。」について、自然権においては、悪用はおそらく権利のあくなき追及ということになってしまうように思えましたので、国家の法の支配下において、法の執行プロセスとして自動的に暴力は処罰されるが、本来、人が持ちうる報復の権利は自由は与えられていないが、表現の自由と同等の権利により、表現の権利と対立をしたものであって、表現の自由の侵害ではない。という感じかなぁ、、、と思いました。いずれにしても、非常に整理されたアドバイスありがとうございました。