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後悔が消えません

2月に母が亡くなりました。 脳出血で緊急入院6ヶ月後、老健入所、退所を余儀なくされ2つ目の老健に入所後もうすぐ4ヶ月になるところでした。 67歳で倒れてからちょうど2年でした。 大きな後遺症は、高次脳機能障害(認知障害)でした。 入院時も最初の老健入所時も、認知機能に刺激になる事、良いと思う事、色々試していました。 リハビリとは別に、けん玉、歩行訓練、字を書く練習、元気な頃の楽しかった写真を置いたり、たくさん色んな話もしました。 でも、老健では部屋に居る機会も少なかった為か部屋に置いていた備品(けん玉やノート、筆記具、雑誌、写真等)もほとんど手つかずでした。 でも、イベントを始め、日常の作業をさせてくれたり、常に職員が入所者に話しかけてくれ、それなりに刺激のある日々を送れていました。面会に行った時は、歩行練習や字を書く練習をしていました。 次の老健は従来型で個室でした。 最初の老健が良かったからか、(規定は満たしてはいましたが)職員が少ないというか、入所者と関わる余裕が感じられませんでした。 例えば、前の老健ではトイレへ行く時、母に歩いていくか車いすで行くか聞いてくれ、身体が衰えないようリハビリの意味も含め可能な限り、歩いて連れて行ってくれたり、 歯磨きに時間がかかっていれば、本人が納得いくまで(?)洗面に居させてくれ見守ってくれていました。 TVもついていましたが、歌謡曲などのVTRを流しており、TVに入所者をお守(?)させる感じではなかったです。職員がギターを弾いてくれたり、そういう働きかけもありました。 常に入所者に声かけや話相手になってくれ、部屋に居る時でさえ眠れない時など話し相手になってくれていたようです。一言で言えば活気があったという感じです。 次の老健は、トイレは数人まとめて車いすで誘導したり、個人が訴えた時もほぼ否応なしに車いすでした。 日中、食堂(皆が集まる所)に集めている時も、立ちあがりそうな入所者は壁側にくっつけて座らせ、立ち上がれないようにしていた感じもありました。 母も、立ち上がるようなしぐさをしていた為か(でも、車いすから離れて歩きだすという事はない)、壁にくっつけて座らされている事もありました。 TVも常についていて、食事が地下から上がってくるまでの隙間時間など、職員はTVを見て食事が上がってくるのをただ待っているだけで、入所者に声かけや働きかけて会話などをするという意識がないようでした。 2つの老健共に、一般フロアから認知フロアに変えられましたが、1つ目は認知症フロアだからという厳密な細かい違いや制限はなく、4人部屋で私物も何も制限なく、自由に服なども整理したり確認したりできました。 が、2つ目の老健は、個室で持ちこむものを制限されました。というか、ほとんと持ち込めませんでした。タンスもありましたが、職員が鍵をかけ、家族でさえ鍵開けを頼まないと中を自由に触れませんでした。 入所時の「余計なものは極力持ってこない(置かない)で下さい」という職員の言葉が強烈に私の頭に残ってしまいました。 結果、母の部屋に入院時や最初の老健では置いていた物を何も置けていませんでした。 かろうじて、時計、カレンダー、ティッシュくらいでした。 それでもあまりにも殺風景で、刺激も暇つぶしも何もあったものではないと思い、机を置くか、ベッドサイドにケースをかけて何か置けるようにしようと父と話していました。 なのに。なのに。 自分の仕事や家事で余裕がなく、 また、病院退院後から老健生活も2つ目、療養生活(?)も1年過ぎ、惰性になっていたかもしれず、 また、最初の老健であまり意味がなかったからと「ダメだろう」という気持ちがたってしまっていたかもしれず、結局、何も置けていませんでした。 せめて筆記具などを置いて交換日記みたいにして、母の本当の気持ちを聞く機会を作ってあげたかったです。 大きな大きなミスです。後悔です。取り返しのつかない至らなさです。 何かをしてあげようという意識ばかりで、母の本音を吐きだす機会を作ってあげられなかったんです。 「何がしたい」「何を持ってきて欲しい」「何食べたい」等々母の気持ちを尊重しているつもりでした。GWにドライブに行こうねとかそんな話もしていました。 「これでいい」とか「何も要らない」とか素直に気持ちを言ってくれました。 ただ、認知障害があったもののまだまだ気遣いのする普通の母で、私や父に気を使っていると感じられる言動もありました。 私や父の前では子どもになったり甘えたりわがまま(という程でもないけれど)を言ったりしていても、職員が来ると尚更、キリッとよそいきの顔になり、元気な頃のそういう母に変わりました。 だからこそ、母は本当はどんな気持だったんだろうとすごく気になるのです。 入院時は、置いていたノートやその辺の紙(食事箋など)に、「帰りたい」「○○はここにいるの?」「○○さん」「何も分からなくなってしまった」「ごめん」などと、つたないミミズのような震える字で書いていました。 全て一人になった時に書いていたようです。 確かに、得意だった字を上手く書けなくはなっていました。 最初の老健ではノートと筆記具を置いていたけど手に取ったか分からない状態ではありました。 入院時と比べると、もっと書けなくなっていたかもしれません。 私達の前では練習をしようと言っても嫌と言ったり、ミミズのような字でキチンと読めるように書く事は難しくなっていたのは否めません。 まして、寝るときくらいしか部屋に居ないのに、自らペンをとって何かを書いたかさえわかりません。 それでも、せめて置いてみて意味がなかったなら後悔の意味も違ってきます。 なぜ、母が危ない事をしないようにしつつ簡単に手に取れるように、 ベッド柵にノートとペンをくくりつけてみるという事をしなかったのか、気付けなかった自分が悔しく後悔が消えないのです。 唯一、一人でリラックスできる夜、周りには暇をつぶせるものも何もない中、 ふと、自然と目の前にあるノートとペンをとり、辛い胸の内や不安な事等々を、 日記のように気持ちを吐露したのではないかと思えてならないのです。 字が書きにくくなった自分を分かっていても、辛くても、私や父や誰かに伝えようと何とか書こうとしたのではないか、 私の前ではプライドや悔しさもあり拒否していても、誰にも見られる事のない状況では頑張って頑張って書いたかもしれない、 何より、気持ちを吐き出したい一心で、誰かに伝えたい一心で、一生懸命書いたかもしれないと思えてならないのです。 書けなかったとしても、ミミズのような字でも、そうして何かを伝えようとした形跡を残してくれたかもしれないと思えてならないのです。 あれもしてあげられなかった、これをしてあげようと思っていたのに、悪かったかわいそうだったという後悔はたくさんあります。でも、こちら側の一方的な気持ちかもしれず残された者にはよくある事です。 今処理しきれないのは、母の本当の気持ちが知りたかった、その機会を作れなかった(作らなかった)後悔です。 認知障害とはいえ、施設で過ごさせてしまい自宅へ帰してあげられず、 できる事が減ってしまった自分も分かっていただろうし、どこまで本当は理解していたんだろう、 どこまで我慢して、どこまで気持ちを吐露できていたんだろうと思うのです。 1年近く置いてくれた前の老健では、それなりに楽しく(?)過ごしていた感じはありました。 介護士の名前を覚えたり、イベントでは無邪気になったり。 そこまで慣れた老健でも職員にはよそいきの顔はしていた気がします。 年末年始に自宅へ外泊しても、昨年は「自宅」を選択したのに今年は気を遣ったのか「施設」を選択した会話もありました。 字が上手くは書けなくても、字になっていなくても、ノートにその痕跡を残してくれたんじゃないか。 なぜ、何も持ってこないでという施設の言葉に"良い子ちゃん"になってしまったのか、 自分自身も惰性になって、ノートをベッド柵にくくりつけるという発想が出なかったのか、 もっともっと入院時のように刺激になる事、母の気持ちを考えた事が出来なかったのか、 そんな至らなかった自分が悔しくて悔しくて、責めてばかりでどう処理していいのか分かりません。 この後悔は、自分が死ぬまで私を苦しめるのだろうとしか思えません。 長くダラダラとまとめられずすみません。 同じような後悔を経験した方、どう乗り越えましたか。 どう気持ちを整理すれば前を向いて自分の人生を進んでいけるのでしょうか。 独身なので家族もおらず、同じ立場の人もおらず、 仕事も契約が切れ再就職へのんびりしてられないのに、何も手につかなくて、立ち止まってばかりです。 最後まで読んで頂いてありがとうございます。 このどうしようもない自分に対する悔しさと後悔とどのように付き合っていったらいいのでしょうか。

みんなの回答

noname#209946
noname#209946
回答No.9

こんな分かった風の私ですが 私も 寂しいです。気持ちは 行ったり来たりで。 会いたいです 謝りたいです でも 壊れるのが怖くて 真っ向に 母の写真は見ないんです。 お互い 後悔も悲しみも 寂しさも 胸の中で 開いたり閉じたりしながら 自分も労っていきましょう。 私も 母に会いたい…

noname#227934
質問者

お礼

ありがとうございます。 この週末は、母の荷物を施設へ取りに行って以来そのままになっていたので、 その整理をしました。 母が倒れる前、自宅で最後に着用していた部屋着やパジャマ、靴下、レッグウォーマー、 入院や施設へ入所して用意した衣服、靴、日用品等々。 持ち主がいなくなったんだと思うと、寂しかったです。 これを履いて一生懸命、歩行練習していたな、この服は良く着ていたな、 これは気にいっていたな等、母の姿が思い浮かんで寂しいです。 四十九日も終わり、祭壇も片付けざるを得なかったのですが、毎日好きだった食べ物をお供えする器(?)もなくなり、徐々に徐々に母の遺影の前から供養の品がなくなっていき、本当に寂しいです。 仏壇にも、お供えをする飯器(?)ももちろんありますが、小さいのでお供えできるモノも自由度が減ってしまうので、さみしいです。 こうして否応なく母が「過去の人」になってしまうようで怖いです。 でも、仏壇の花を絶対に欠かさないと決めています。季節の花を母を思って供えます。 食べ物も(物理的に)可能な限りお供えします。 線香を絶やさない、というのは留守をしたりで出来ないかもしれませんが、 毎朝と毎晩は絶対、母に手を合わせます。 日々、気持ちが行ったり来たり… 瞬間瞬間、気持ちが行ったり来たり… 母に謝りたい、本音を聞きたい、 母に感謝の気持ちを直接もっともっと伝えたい、 母と色んな事を楽しみたい、 母にこんな事があったよ、こんな事があるよと、話してあげたい 私の知らない母の生きてきた歴史ももっと聞きたい、 心配もかけた私だけど、ほら、取り越し苦労だったでしょって 直接母に見てもらって安心して欲しい、 日常生活の中で、徐々に、私の人生を主に考えられるようにしなければと言い聞かせて、 頑張ります。 「お母さん、ありがとう。 おばあちゃんやお兄さん、おじいちゃんに会えた?寂しくない?心細くない? 足もいたくない?字を書こうってイヤなこと言う人もいない? もっとしてあげればよかったって言っていた分、おばあちゃんに会って、 やり残したことしてあげられている?」 こんな気持ちで、毎日、母に話しかけています。

noname#209946
noname#209946
回答No.8

回答7です。 お礼文読みました。 書き記してある 日記ですね… うちにもなん十冊もあります。 開けるのが怖くて そのままです。 自分を責めたら いけないです。 亡くなった人は もう…楽になってますよ 生きて行かなきゃいけない人が 苦しんだら ダメです。 誰かが言いました 生きてるときに親孝行しなきゃ 死んでからしてもね…って。 生きてる時も 死んだって 親孝行は 子供のためにある…と思うんです。 死んだ人は 帰ってこないから… 喧嘩したことも 憎んだことも もう 無。 でも 親に対する思いは 言うなれば…勝手に続けられます。 それは 生きてるからこその 思いですよね。 だから…思いでは 生きてるって いうんじゃないですか。 生きてるならでの やれなかった事を そのままの形では できなくても 写真をなでたり お墓を掃除したり お花を 選んであげたり いないけど…膝掛けを編んでもいい 自分なりに 納得してほしいなぁと思います。 私は お茶は飲まなかったんですが 仏壇の母の為に 美味しいお茶を 選ぶようになりました。 母のためだけの。 毎朝 入れるので 残りを飲むようになったら お茶の味をしりました(笑) 母に不味いお茶はやれないと 少しづつ 高めになってきた…^^ それが 楽しみにもなりました。 貴方なりの 生きてる人にしかできない 親孝行をしてあげてください。 生きてても 亡くなっても 親孝行に終わりはないです。 生きてる時に 貴方も 親孝行してるじゃないですか! 自信をもって! 自分を責めないで…

noname#227934
質問者

お礼

ありがとうございます。 >書き記してある 日記ですね… うちにもなん十冊もあります。 >開けるのが怖くて そのままです。 お母様の日記ですか。回答者様の日記ですか。 私には母は日記を書いていなくて、倒れてからの「帰りたい」とか「何も分からなくなった」とかの震える字で書かれた数個のメモ書きしかありません。 母の声や動く映像を撮っておけばよかったとも思ったけど、 長い将来を考えると、逆に、辛くなるだけかもしれないしと自分に言い聞かせる事は出来ました。 でも、母の字(習字や字が母の一番の特技で本人も自慢でした)、写真は、あるもの全て貴重です。 字は残念ながらあまり残ってないけれど、 倒れてからの数少ない母の字、 母の当時の率直な素直な誰にも遠慮しない母の気持ちの書かれた小さなメモ書き、 これだけは大事に貴重な母の思い出です。 見る度に、ごめんね、さみしかったね、不安だったね、心細かったね、という気持ちが涙と共に溢れ出ます。 昨日、最後の老健へ荷物を取りに行きました。 そして、日々の生活の様子や、救急搬送されるまでの最後の様子を聞きました。 残念ながら、最後の様子は(納得できる程の事は)あまり聞けなかったです。 でも、入所者の方とそれなりに話をしていたこと、歌を歌いながら歩行練習をしていたこと、 入浴は(前の老健と違い)面倒がらず割と拒否せず、入浴させてもらっていた事、 興味のあるTVの時は見入っていた事、など聞きました。 ただ、夜は「さみしい」と言う事もあったようで、 気を紛らわすために介護士に食堂でTVを見せてもらったりしていた事も聞きました。 父や私が帰ってしまうと「置いて行かれた」と自分も帰れなかった事を寂しがっていたとも聞きました。 やっぱり、ひとりになると寂しかったんだな、 (自宅ではない事はわかっていたと思うので)施設での暮らしになっている自分の状況を どんな気持ちで受け止め、どう折り合いをつけていたのかと想像すると、 本当にくどいですが「気持ちを吐き出させてあげたかった」 「書けなくても一生懸命辛さを書いたかもしれない」 「書く事で気持ちも少しは楽になったはずなのに」 「その率直な本音を教えて欲しかった」 「伝えようとしたその形跡だけでも残して欲しかった」と日々そんな思いが募ります。 でも、親に対する思いは勝手に続けられる、 亡くなっても親孝行は続けられる、 生きている私にしかできない親孝行もできる、 そう思って、ずっとずっと私が生きている限り、元気でいる限り、 母の好きだったものを供えたり、母と一緒に何かをしているつもりで 思い出を大切に、母の思いを大切にしていきたいと思います。 母だったらどうするだろう、母だったらどう考えるだろう、母だったらどう思うだろう、 迷った時、辛い時、悲しい時、勝手に相談していこうと思います。 元気だったころの母、母が亡くなるまで私にしてくれた様々な事に感謝しながら、 母の功績を傷つけないように、 母が作り上げた私、育ててくれた私、教えてくれた私は母でもある事を忘れずに、 残りの人生を恥じることなく歩めるよう頑張りたいと思います。 気持ちの持ち方、色々教えて頂いて本当にありがとうございます。

noname#209946
noname#209946
回答No.7

私も 最近 親を亡くしました。 お気持ち お察しします。 私自身の気持ちですが 死を受け止めたり してません。 生きてます… でも お墓には月2回は行って 綺麗にふきあげ お花を飾って帰ります。 それでも 生きてる感じ…なんです。 夜中ふと 目が覚め 亡くなる時の顔を 思い出し 涙かツーっと・・ でも それ以上は思い出しません。 私は十数年 実家に通い介助してきましたし 朝方に 救急に何度も連れたり 親孝行者と言われても それでも 自分の百パーかと言えば 違うし… 百パー出していたら 家庭もあるし 持病もあるので 倒れます。 どんなにしても後悔する…って思ってたので 後悔は自分の逃げだと それはしない!と 決めて 介助してきました。 あれこれ 死んでから どうしようもないんです。 自分にも生活があって 犠牲にもできないなら 毎日同じように 感じてやる事は 無理なんです。 順繰りなんです。 だから 毎日手を合わせ もう 苦しくないね…って それだけを 呪文にして そして お墓に 会いに行く。 今できることは もぅ限られてます。 貴方は仕事もありますよね 現実って そうです。生きてるから 温かい場所がいるし食べ物もいるし。 生きてるって 幸せなんだろうけど 死にたくても 生きてく事しか できないのも 正直なとこです。 後悔は 自分が涙する言い訳だと 私は思ってます。 それで涙しても その時期は その対応しかできなかった…そぅ考えます。 勿論 母が恋しいです 勿論 言ったように後悔をしないなんてあり得ません… でも 自分保つには 自分なりのやり方を考えるしか なかったんです。 母が死んだら 私も自殺するんじゃないかと 思った時がありましたもん。

noname#227934
質問者

お礼

>後悔は自分の逃げだと それはしない!と >順繰りなんです。 > だから 毎日手を合わせ  もう 苦しくないね…って それだけを 呪文にして そして お墓に 会いに行く。 > 死にたくても 生きてく事しか できないのも 正直なとこです。 >その時期は その対応しかできなかった…そぅ考えます。 心に響きました。 母も倒れてからリハビリしている時言っていました。 (祖母(母の母)も脳出血から老健、老人ホームとたどった末、母が倒れる2年前に亡くなったのですが、) 「もう少し母(祖母)の所へ行ってあげたらよかったかな」と涙ぐみながら言っていました。 祖母が亡くなった時、母が燃え尽きになるんじゃないかと心配しましたが、特に大きな変化を感じなくて、「祖母は90歳も過ぎて大往生だったからかな」と思っていたんですが、やはり、私達には見せなかったけれど母の中では悔いていた事も悲しかった事もあったんだと気付きました。 確かに私達は、入院中、リハビリ棟へ移った時、病院を出なければいけなくなった時、老健に入ってからもずっとずっと、その時その時で精一杯の行動、考えで判断で、精一杯の事をしてきたつもりです。 父は、ほぼ毎日母に会いに行っていました。 私は週末しか行けなかったけれど、母が喜ぶだろう食べ物をいつも父に託していました。 母は食べることだけが楽しみだった感じもあったし、元気な頃から食べることが大好きだったので。 私も母が亡くなったら自分がどうなるか分からないと思って母の世話をしてきました。 実際、亡くなって、少しだけ死にたいって思ったけど、まだそれよりも、 母の本当の気持ちが知りたかった、母がどこまで理解していたのか知りたかった、という思いの方が強く、そこで思考が止まっています。 母の服、よくいた台所、家のあちこちに母の面影があります。 遺品とはまだ言いたくないけど、その片づけも先延ばしには出来ないし、 捨てざるを得ないものも出てくるだろうし、でもそれを選別する作業も辛そうで怖いです。 でも、生きていく義務がありますよね。 自分の人生を考える事も、日々を楽しむ事も許されますよね。 それこそ親はいつまでも子どもの親なんですよね。 そう言い聞かせて徐々に前を向いていきたいと思います。

  • 96183327
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回答No.6

はじめまして。 お母さまを亡くされたばかりで、今はまだ、悲しみと後悔とでお辛いことでしょう。 どんなに親孝行したと思っても後悔はします。 私も、父が他界したときは独身でしたので、結婚もせず、孫の顔も見せてあげられなかった等、いろんな後悔をしました。 三回忌を迎えて、やっと気持ちが落ち着いてきたように思います。 それぐらいから、生前、「お前は、結婚なんかしなくていい。自分のそばにいてくれれば」なんて、冗談交じりに言っていたこともあり、それだけでも親孝行したじゃないなんて、思えるようになっていきましたね。 しかし、そこから真剣に、自分の結婚を考え始めました。 自分の居場所を自分で見つけなければと、やっと心底本気になりました。 私は、結婚して家庭を持つことが、一番やりたいことであり、幸せと感じることでしたので。 何も、結婚に限らず、あなたが将来どうありたいかを真剣に考えると、色々なことが見えてきたり、そこにつながる人脈などがつながってくると思います。 肉親の死は、時間が解決するしかありません。 子供が先に逝くほど親不孝はないと思えば、それだけでも親孝行してますからね。 これから先、あなたが自分の人生を充実させていくことが一番の親孝行です。 お母様の死によって、あなたがたくましく生きていく姿を、天国から見守ってくれてますから。 大丈夫。いつか必ず、笑顔になれる日が来ますからね。 気持ちが落ち着いたら、自分自身に真剣に向き合っていけると思いますよ。

noname#227934
質問者

お礼

>私は、結婚して家庭を持つことが、一番やりたいことであり、幸せと感じることでしたので。 私もそうです。母が倒れる前もそうでしたが、倒れてからは、一層強く思いました。 そして、私の結婚式に車いすで出席してもらって、 (でも後遺症で全てを理解できないと思うから)、父に「○○の結婚式だよ」等と説明してもらいながら、一番後ろの家族席で車いすながら嬉しそうに私の花嫁姿を見てくれている状況まで想像してしまっていました。 でも、間に合わなかった。このままだと、父にも安心してもらえない。 ほんの少しだけ、「私の事は二の次で良いから、良い人がいたら決断できるように、私は一足先に皆のそばから少し離れるね」と母は言っているのかなと、強引に母の急逝を肯定しようとする瞬間もあります。 でも、まだそんな肯定の仕方はバチが当たる気がします。 やっぱりまだ、母が気兼ねなく率直な胸の内を吐き出せる機会を作らなかった事を悔やんでいます。 母は倒れてから(特に老健に移ってから)私や父がしてきた事が、 嫌だったのか迷惑だったのか、嬉しかったのか、 周囲に表現している事はどこまで本当だったのか、 どこまで自分の事を理解していたのか、 私達が認知障害と感じていた事は本当に全てそうだったのか、そういう振りをして自分が我慢していたのか、 夜は一人になって、誰に気を遣う事もなく休まったかもしれないけれど、 一方で、一人でどれだけ心細かったのか、さみしかったのか、 何をどれだけ我慢していたのか、 本当に母の気持ちが知りたい。 病院で少しだけ書いてくれた「○○はここにいるの?」「○○ちゃん」「何も分からなくなった」「帰りたい」「どうしたらいいの」「ごめん」という震えるミミズのような、でも、一生懸命吐き出してくれた僅かな母の文字。 これを見る度、当時の母の気持ちを思い涙が出るし、同時に、老健でなぜ「ダメだろう」なんて思ってしまったのか、仕事や家事の事でいっぱいになって、惰性になって、ノートをベッド柵にくくりつける発想が出なかったのか、悔しくて、全ての自分の思考行動が止まってしまいます。 >何も、結婚に限らず、あなたが将来どうありたいかを真剣に考えると、色々なことが見えてきたり、そこにつながる人脈などがつながってくると思います。 母の勤務時代の友人が線香をあげに来てくれました。(家族だけの葬儀を終えてから知らせたので) 母が繋いでくれた縁かもしれません。母の知らない一面も聞けました。 頑張って良い方に出会って、幸せになっている自分を母にも父にも見てもらいたいと思います。 結婚しない事の寂しさ、家族がいない事の孤独さを、以前にも増して感じています。 父に「母が倒れてからお前はしっかりした」と言われました。 父が気付かなかっただけなんだけどと思いつつ、やっぱり私の人生も充実させていいんだ、それが一番なんだと思いました。 周囲には決まって、「娘さんがいるから大丈夫。娘さんがいて良かったですね」と父は言われます。 その横で、「私は?」「私も悲しいし、自分の人生不安だよ。私もいるよ」と思ってしまいます。 でも、そうなんですよね。年老いた父を安心させられるよう、今まで通りくじけることなく、父の前で涙を見せることなくしっかりした娘でいたいと思います。 ありがとうございました。

  • pct10968
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回答No.5

じじいです。 まだ亡くなられたばかりなのですね。 悲しみお察し致します。 私も昨年の暮に母親を亡くしました。 脳卒中で倒れ、助からないか重度の後遺症が出るとの事でしたが、延命を希望しました。 その為に、ベッドに寝たきりで意思の疎通も出来ない、回復の望みのない辛くて長い闘病生活を母親に与えてしまう結果になってしまいました。 私にとっても、母親にとっても、回復の兆しの無い10年でしたが、一緒に戦った10年でした。 最後の危篤の時は、仕事を2週間休ませて頂き母に付き添い、看取る事が出来ました。 夏の厚い最中、軽い認知症になった母の薬を与える事を忘れたその日に倒れた事は、今でも自責の念で胸が苦しくなります。 >このどうしようもない自分に対する悔しさと後悔とどのように付き合っていったらいいのでしょうか。 あなたと年齢こそ違いますが、母親を亡くした悲しみは同じです。 >仕事も契約が切れ再就職へのんびりしてられないのに、何も手につかなくて、立ち止まってばかりです。 お気持ちはお察しします。 私もたった一人になりましたが、救いは仕事を続けていられる事です。 取り敢えずでも、働いて気を紛らわせる事で心のバランスを保っていました。 今でも辛くて亡くなる頃の写真を見る事が出来ません。 毎朝線香を付け、元気に生きていた頃同様に、「仕事に行ってくるよ」「帰ってきたよ」と遺影に話し掛けます。 あなたも、早く再就職出来るよう心からお祈り致します。

noname#227934
質問者

お礼

>夏の厚い最中、軽い認知症になった母の薬を与える事を忘れたその日に倒れた事は、今でも自責の念で胸が苦しくなります。 私にも似た苦しさもあります。 最初の老健は、とってもいい所でした。 最初に入った所が良すぎたせいか、次の老健は入所したそばから自ら出て違う所に申し込もうかと思ったほど良くは思えない老健でした。(質問に書いた通りです) 最初の老健に1年以上も居させてもらっていて、退所を急かされていた事もあり、 でも一方で、これといった老健も見つかっていませんでした。 (並行して特養、有料老人ホームも探していましたし、実際申し込みもしていました) かろうじて、2・3ヶ所申し込みをして、でも、面談にすら来てもらえなくて、 「入れてもらえそう」と申し込んだ老健が、2つ目の老健でした。 次の施設を決める段階で、母にとって、退院後初めて老健に入所した時よりも更に辛い思いをさせてしまう選択をしていたかもしれません。 部屋では前の老健より寂しく、心細く、どうしようもない不安な毎日を送らせてしまっていたかもしれません。 だからこそ、胸の内を気兼ねなく吐き出せるノートとペンを、自然に手に取れるベッド柵にくくりつけてあげたかった。 何とか、頑張って頑張って、伝えたい思いで、つらい思いを吐き出したい思いで、 しっかりとは書けなくても、書こうと、何とか何とか頑張って頑張ってノートに向き合ったかもしれない。 その努力(苦難)の跡だけでも残してくれたかもしれない。 こう思うのです。 余談ですが、今でも初めて病院を出て老健に入所した日の事を鮮明に覚えています。 最初の老健に入所した当初、「だまされた。帰る!」と自宅へ帰れなかったこと、自分の状況を理解できておらず、興奮していました。 私が倒れてからの経緯を丁寧に説明すると、静かに聞いてくれ徐々に穏やかになり、最後には泣いてしまいました。 そして、丁度夕食の時間になって、気を紛らわすためと抵抗なく夕食の席へつけるように 「○、△、□(と意味のない事を)3つ覚えておいてね。夕食がすんだら聞くからね」と夕食へ送りだしました。 しばらく見守っていると、夕食の途中に手招きされ、 「ごめん。さっき言っていた3つ忘れてしまった。」と律義に覚えようと、私の言った事を守ろうと、忘れてしまった事を申し訳なさそうに話してくれました。 後遺症の認知機能の低下があったので、状況が把握できなかったり記憶が入らなかったりという事があったので、本当に、その時どれだけ不安だっただろうかと思いました。 一生懸命、3つの事を覚えようとしてくれたんだと思います。そのほかには自分がどうしていいのか分からなかったはずだから。 入院中は、まだそれでもその時よりは自分の意思もしっかりしていて、老健とは違ってずっと病室にいたのでノートも手にとって、一人になった時書いてくれていました。 「○○はここにいる?」「何も分からなくなってしまった」「帰りたい」「どうしたらいいの」「○○ちゃん」「急用」「ごめん」と震える字で書いていました。 「急用」には下線も引いていました(震えていたので波線でしたが)。 ○○を大きく○で囲んでいるような感じもありました。 急用と書いたら、そこを目立たせたら、すぐに飛んできてくれる、すぐに気付いてくれると思ったのだと思います。 読みとれなくて「帰りたい」と読み解けた時は、泣いてしまいました。 病院の食事についてきていた食事箋に書いていたんです。 でも、一方、上手く書けなかったのか、見られたくなかったのか、悔しかったのか、 何かを書いた跡の食事箋をビリビリに破っていた事もありました。 毎日、毎食の度、祭壇に好きだったもの、私達と同じ食事をお供えし、線香をあげています。 法要は日程の関係で終えてしまいましたが、正式な四十九日を過ぎたら、どうしようか悩みます。 祭壇は四十九日まで、この日までにあの世にいけるかの判断を下されこの日を境に故人は仏になる事を許される、いつまでも仏壇ではなく祭壇では母にとって成仏できないのか、等々と。 母にペンをとって欲しかった。 こういう願いをいつまでも抱き続けてはダメかもしれませんね。 徐々に、自分が幸せになる事を、笑顔で生きていける事を母に見てもらえるよう、前を向いていきます。 有難うございました。

  • blazin
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回答No.4

後悔は消えないよ。 それはそれで付き合っていくもの。 でも、 後悔「だけ」と貴方は付き合わなければいけないのか? それも違う。 愛するお母さんが天国へ旅立った「後」の世界。 既に2月以降の貴方にはそれが始まっている。 当然貴方は、 その新しい世界とも丁寧に付き合っていく必要がある。 まだ付き合い切れてはいないけれど、 少しずつ慣れて、少しずつ順応していく必要がある。 そのペースや落着きは、 貴方自身の新リズム(再就職~安定)によっても変わってくる。 貴方は、 これからも折に触れて、 お母さんならどう思うだろう? 今の私を、私の知るお母さんならどう見ているだろう? そして、 どんな言葉を掛けてくれるだろう? そんな事も考えながら生きていくんだと思う。 後悔とも付き合うけれど、 お母さんが残してくれた大切な時間(や思い出) そんな素敵な財産とも付き合って「いける」んだよ。 後悔だけが貴方を灰色に覆っていく事は無い。 それは信じても良い。 貴方が今考えている事もよく分かる。 今思えば・・・ お母さんはお母さんなりに、 何かを表したかったんじゃないか? そう思うと、 表せない(表さない)まま旅立ったという事実に対して、 貴方は肉親としての深い無力感を感じてしまう。 障害という言葉に対して、 どこかで限界や難しさを感じていたのも事実。 それ故に、 お母さんの目線から世界を見ているようで。 実は私から見た出来る(出来ない)世界、 それを中心に世界を、今出来る事を考えてしまった。 その目線にノート(表現)は無かった。 でも・・・ あったかもしれないと考え出すと、 それがあたかも事実(真実)のように思えてしまう。 それは誰にも分からない。 何故ならお母さんが語っていないから。 貴方は、 してあげられなかったという悔いを感じている。 でも、 本当にお母さんがそう「したい」なら、 貴方にも分かるように示していた。 それはおそらく事実であり、真実。 貴方は今、 自分がしてあげられなかった後悔を感じている。 でも、 実はその後悔を、 より丁寧にひも解いてみるなら・・・ もし私がしてあげられたと仮定して、 そこにお母さんの何かしらの気持ち(意志表示)があったなら。 私はそれを知りたかった。感じたかった。 生きているうちに是非感じたかった。 後悔とはまた別の、 お母さんの気持ちを知りたかったという強い思い。 それがどうしてもあるんだと思う。 出来なかった悔いよりも、 お母さんの素直な気持ちを知れる機会が創れるなら・・・ せめて創ってあげたかったし、 創る価値は十二分にある。 今の貴方はそう思っている。 ただ・・・ その時の貴方はそこまで気が廻らなかった。 それを仕方が無いとは思えないし、思いたくない。 今の私が、 その時の私に代われるなら・・・ 貴方は、 (実際に)綴れるかどうかはおいておいても、 そういう形で一つの心の解放口を提示してみたかった。 それって、 貴方にとってはとても自然な感情(考え)なんじゃないの? それを、 後悔や悔しさという大きな「間口」から向き合ってしまうと。 本当に貴方は苦しい日々を背負う事になってしまう。 それって貴方のお母さんが望んでいる事かな? 今の貴方の姿だって、 お母さんには見えているんだよ? 上手く伝えられなくなった晩年(2年)。 でも、 それ「まで」のお母さんは既に、 貴方に十分な存在としての「彩」を残している。 それを貴方は忘れない事。 今はまだ、 バタバタした(倒れた)後の2年の印象がとても強い。 それでも、 貴方は自分の年齢≒お母さんとの共有歴の持ち主。 既に沢山得ている世界もある。 時間を掛けて戻ってくる世界もある。 仮に後悔に向き合うとしても、 倒れた後の2年「だけ」に多くを背負わせない事。 それはお母さんにとっても苦しい事だから。 もう苦しい状態からは解かれたお母さん。 貴方の手の掛からない所に進む事が、 貴方を苦しい状態から解く事で無い。 貴方は貴方で、 お母さんをおくった後の日々が始まっている。 それはそれで茨さえ感じる。 解かれたお母さんに対して、 貴方は大切な人一人分の重さを背負って、 これからの日々を丁寧に進んでいく必要がある。 進みたいからこそ、 貴方は今必死に自らの後悔にも向き合っている。 それは大事な事なのかもしれない。 でも、 向き合う事は後悔「だけ」では無い。 後悔もその一つであって、 貴方は年齢分お母さんを知る肉親として。 お母さんが残した大事な、 言葉に出来ないものを大切にして生きていく。 今貴方が後悔を言葉にしているなら、 貴方は言葉に「しない」部分も大事にしていくんだよ。 貴方にしか分からない部分を。 貴方なら出来る。 後悔に向き合える貴方なら出来る。 貴方の今の感覚を、 全て分かったように語れる人は一人もいない。 それでも、 貴方が感じている事の「輪郭」に触れる事は出来る。 ゆっくりと深呼吸を。 お母さんの分も、優しい気持ちで春風を感じる事。 貴方はまだ生きている。 これからも生きていく。 お母さんの分も大切に生きていく。 後悔よりも、 貴方なりの「ありがとう」がゆっくりと浮上していく。 そんな時間が必ずやってくるから。 改めて、 これからの貴方自身を大切にね☆

noname#227934
質問者

お礼

どうしても母が迷惑だったのか嬉しかったのか、知りたい。 不安だったこと、心細かったこと、一人になって感じていた事、気兼ねなく吐き出して欲しかった。 せめて、字がうまく書けなくても、そうしようとした痕跡を残して欲しかった。 その機会を作っておくべきだった。 この取り返しのつかない私の至らなさのせいで、知る事が出来なかった無念さがあります。 でも、私の年齢≒母の事を何よりもよく知る家族として、 思い出を大事に、「母ならどうするか」「母ならどう言うか」「母ならどう考えるか」等々を考えながら生きていこうと思います。 有難うございました。

  • momo2727
  • ベストアンサー率45% (16/35)
回答No.3

こんにちは たとえどんなに誠心誠意介護しても後悔はあると思います。 私も父が亡くなて2年たちます。その2ヶ月前に義理母も亡くなりました。 今でも後悔がいろいろあります。 その時はこんなに後悔するとは思いもしませんでした。 でもお母さんはあなたに感謝していると思い ます。 あなたなりに頑張たと私は思います。 これからは自分のためにね。 お母さんもそれを望んでいると思います。 お疲れ様でした。

noname#227934
質問者

お礼

母は何かを書こうとしてくれたでしょうか。 不安や辛さ、心細さ、その一端でも、書けなくても形跡だけでも残してくれたでしょうか。 入院していた時は「何も分からなくなってしまった」「どうしたらいいの」「ごめん」と書いていました。 「ごめん」(謝らなくて良い、当たり前の事してるだけだから)ではなく、 「ありがとう」(感謝して欲しいのではなく、私がしていた事が迷惑だったか嬉しかったかどちらかを知りたいだけです)とか 「○○したい」「帰りたい」「○○は辛い」など、気を遣うことなく本音を書いて欲しかった。知りたかった。吐き出させてあげたかったです。 どれだけ自分の事を理解していたのか、心配かけないようにとわからない(認知障害)振りをしていた部分もあったのか、知りたいです。 母は最後、部屋で嘔吐し意識を失ったそうです。再度の脳出血でした。 誰かを呼ぶでもなく、一人でどんなに心細かったか、怖かったか、 最も心を許せる私達にそばにいて欲しかったに違いないのに母は一人で・・・ 私が笑顔で生きていく事を母は望んでいますよね。 有難うございました。

  • hkinntoki7
  • ベストアンサー率15% (1046/6801)
回答No.2

 自分は結婚して離婚しました。短い間でしたが、親の経験をさせてもらいました。  親の気持ちは親にならないと理解できません。参考までに自分のつたない経験をもとに回答させていただきます。  娘が二人いて上が小6、下が小2の時に離婚しました。子どもは一番手がかかる幼稚園くらいまでの印象が強いのです。元妻、子ども達は近所に住んでいますけど事情があり、ここ1年以上子ども達に会っていません。  ですけど、子ども達がいくつになっても幼稚園の頃の子にしか見えないのですよ。だから、何歳になっても親は子どもを子ども扱いするのです。振込め詐欺の被害者が後を立たない原因は親心なのです。ある被害者のインタビューで、子どもがトラブルを起こしていなくて良かったと胸をなでおろしていました。それくらい、親は子離れできていないのです。  おそらく、質問者様のお母さんは、質問者様に心配を掛けまい、負担になるまいと考えていたはずです。確かに寂しかったかもしれないけど、いくら後悔しても始まりません。お母さんは、自分はもう、あなたを助けてあげられないけど、産んでもらってよかったと思えるような人生を歩んで欲しいと思っているはずです、それが親なんですよ。つまらない後悔を背負って生きていくのではなく、自分の人生を楽しみなさいね。そして、お母さんのことを忘れてはいけませんよ。三谷幸喜さんは弔辞で、人には二度の死がある。一度目は肉体的な死、二度目は人々の記憶から忘れられる死、と述べられていました。お母さんとの思い出と教えられたことを忘れずにすることがお母さんの供養になります。当然、質問者様が生きていくことが最優先ですが、たまにはお母さんのことを思い出してあげてください。それで十分だと思います。

noname#227934
質問者

お礼

今はまだ父が健在ではありますが、父が亡くなった時本当に孤独になります。 母が亡くなったら自分がどうなるか分からないと思っていましたが、両親ともに亡くなったら、 本当に自分が普通にしていけるか自分でもわかりません。 だからという訳ではないけれど、この歳になってもまだ、結婚をしたいと思っています。 相手はいませんが、いわゆる婚活も少ししていました。 自分の生活、人生を楽しんでもいいのか、楽しむ気になれない、という気持ちですが、 結婚して、母も父も安心させたいという思いもあります。 こどもは諦めているけれど、一緒に生きていける喜怒哀楽を共有できる人と家族になりたいと思っています。(結婚未経験者の理想に過ぎないかもしれませんが) 自分の将来の事を第一に考えて生きていってもいいですよね。楽しんでもいいですよね。 三谷幸喜さんの弔辞、心に響きました。心に刻んでおきます。 決して母を忘れる事はしません。 四十九日の法事はすませてしまいましたが四十九日はまだで、毎日祭壇の仏花の水を換え、食事とおやつを時間ごとにお供えしています。留守をする事が多いので、線香を絶やさないという事は出来ていませんが、朝や帰宅後、お供えするごとにたくさんお線香もあげています。話しかけ、謝り、感謝しています。 買い物へ行くたび、家の母のモノを見る度、寂しさや喪失感が募ります。 初めて身近な肉親を亡くしたのですが、母が亡くなって葬儀が終わりしばらく後まで、私達がこんな状況の中にいても、世間では普通にいつものように人が行き来し社会が動いている事を感じた時、別世界にいるようでした。 母は、何か書こうとしてくれたでしょうか。 一人の夜、誰にも気兼ねなくリラックスできたかもしれない一方、 さみしさを紛らわす何も置いてあげられなくて、本当に申し訳なかったです。 母はいつまでも子どもの親なんですね。ありがとうございました。

  • okwavehide
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回答No.1

死者を出した場合は、老衰によるものでも後悔の気持ちが徐々に募ります。 あなたの場合、独身で家族もおらずとあるので、分かち合うこともできないので、猶更辛いのでしょう。 早寝早起き、規則正しい食事と適度な運動。 笑顔と感謝の気持ちを忘れず、一日も早く穏やかな日々が戻ると良いですね。

noname#227934
質問者

お礼

老衰でも後悔の念が募るんですね。 いつまでもメソメソしていては母も心配して成仏できないと葬儀の時は思っていたんですが、 確かに、日に日に後悔、さみしさ、喪失感が募ります。 感謝と笑顔を意識していきます。

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