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後悔が消えません
2月に母が亡くなりました。 脳出血で緊急入院6ヶ月後、老健入所、退所を余儀なくされ2つ目の老健に入所後もうすぐ4ヶ月になるところでした。 67歳で倒れてからちょうど2年でした。 大きな後遺症は、高次脳機能障害(認知障害)でした。 入院時も最初の老健入所時も、認知機能に刺激になる事、良いと思う事、色々試していました。 リハビリとは別に、けん玉、歩行訓練、字を書く練習、元気な頃の楽しかった写真を置いたり、たくさん色んな話もしました。 でも、老健では部屋に居る機会も少なかった為か部屋に置いていた備品(けん玉やノート、筆記具、雑誌、写真等)もほとんど手つかずでした。 でも、イベントを始め、日常の作業をさせてくれたり、常に職員が入所者に話しかけてくれ、それなりに刺激のある日々を送れていました。面会に行った時は、歩行練習や字を書く練習をしていました。 次の老健は従来型で個室でした。 最初の老健が良かったからか、(規定は満たしてはいましたが)職員が少ないというか、入所者と関わる余裕が感じられませんでした。 例えば、前の老健ではトイレへ行く時、母に歩いていくか車いすで行くか聞いてくれ、身体が衰えないようリハビリの意味も含め可能な限り、歩いて連れて行ってくれたり、 歯磨きに時間がかかっていれば、本人が納得いくまで(?)洗面に居させてくれ見守ってくれていました。 TVもついていましたが、歌謡曲などのVTRを流しており、TVに入所者をお守(?)させる感じではなかったです。職員がギターを弾いてくれたり、そういう働きかけもありました。 常に入所者に声かけや話相手になってくれ、部屋に居る時でさえ眠れない時など話し相手になってくれていたようです。一言で言えば活気があったという感じです。 次の老健は、トイレは数人まとめて車いすで誘導したり、個人が訴えた時もほぼ否応なしに車いすでした。 日中、食堂(皆が集まる所)に集めている時も、立ちあがりそうな入所者は壁側にくっつけて座らせ、立ち上がれないようにしていた感じもありました。 母も、立ち上がるようなしぐさをしていた為か(でも、車いすから離れて歩きだすという事はない)、壁にくっつけて座らされている事もありました。 TVも常についていて、食事が地下から上がってくるまでの隙間時間など、職員はTVを見て食事が上がってくるのをただ待っているだけで、入所者に声かけや働きかけて会話などをするという意識がないようでした。 2つの老健共に、一般フロアから認知フロアに変えられましたが、1つ目は認知症フロアだからという厳密な細かい違いや制限はなく、4人部屋で私物も何も制限なく、自由に服なども整理したり確認したりできました。 が、2つ目の老健は、個室で持ちこむものを制限されました。というか、ほとんと持ち込めませんでした。タンスもありましたが、職員が鍵をかけ、家族でさえ鍵開けを頼まないと中を自由に触れませんでした。 入所時の「余計なものは極力持ってこない(置かない)で下さい」という職員の言葉が強烈に私の頭に残ってしまいました。 結果、母の部屋に入院時や最初の老健では置いていた物を何も置けていませんでした。 かろうじて、時計、カレンダー、ティッシュくらいでした。 それでもあまりにも殺風景で、刺激も暇つぶしも何もあったものではないと思い、机を置くか、ベッドサイドにケースをかけて何か置けるようにしようと父と話していました。 なのに。なのに。 自分の仕事や家事で余裕がなく、 また、病院退院後から老健生活も2つ目、療養生活(?)も1年過ぎ、惰性になっていたかもしれず、 また、最初の老健であまり意味がなかったからと「ダメだろう」という気持ちがたってしまっていたかもしれず、結局、何も置けていませんでした。 せめて筆記具などを置いて交換日記みたいにして、母の本当の気持ちを聞く機会を作ってあげたかったです。 大きな大きなミスです。後悔です。取り返しのつかない至らなさです。 何かをしてあげようという意識ばかりで、母の本音を吐きだす機会を作ってあげられなかったんです。 「何がしたい」「何を持ってきて欲しい」「何食べたい」等々母の気持ちを尊重しているつもりでした。GWにドライブに行こうねとかそんな話もしていました。 「これでいい」とか「何も要らない」とか素直に気持ちを言ってくれました。 ただ、認知障害があったもののまだまだ気遣いのする普通の母で、私や父に気を使っていると感じられる言動もありました。 私や父の前では子どもになったり甘えたりわがまま(という程でもないけれど)を言ったりしていても、職員が来ると尚更、キリッとよそいきの顔になり、元気な頃のそういう母に変わりました。 だからこそ、母は本当はどんな気持だったんだろうとすごく気になるのです。 入院時は、置いていたノートやその辺の紙(食事箋など)に、「帰りたい」「○○はここにいるの?」「○○さん」「何も分からなくなってしまった」「ごめん」などと、つたないミミズのような震える字で書いていました。 全て一人になった時に書いていたようです。 確かに、得意だった字を上手く書けなくはなっていました。 最初の老健ではノートと筆記具を置いていたけど手に取ったか分からない状態ではありました。 入院時と比べると、もっと書けなくなっていたかもしれません。 私達の前では練習をしようと言っても嫌と言ったり、ミミズのような字でキチンと読めるように書く事は難しくなっていたのは否めません。 まして、寝るときくらいしか部屋に居ないのに、自らペンをとって何かを書いたかさえわかりません。 それでも、せめて置いてみて意味がなかったなら後悔の意味も違ってきます。 なぜ、母が危ない事をしないようにしつつ簡単に手に取れるように、 ベッド柵にノートとペンをくくりつけてみるという事をしなかったのか、気付けなかった自分が悔しく後悔が消えないのです。 唯一、一人でリラックスできる夜、周りには暇をつぶせるものも何もない中、 ふと、自然と目の前にあるノートとペンをとり、辛い胸の内や不安な事等々を、 日記のように気持ちを吐露したのではないかと思えてならないのです。 字が書きにくくなった自分を分かっていても、辛くても、私や父や誰かに伝えようと何とか書こうとしたのではないか、 私の前ではプライドや悔しさもあり拒否していても、誰にも見られる事のない状況では頑張って頑張って書いたかもしれない、 何より、気持ちを吐き出したい一心で、誰かに伝えたい一心で、一生懸命書いたかもしれないと思えてならないのです。 書けなかったとしても、ミミズのような字でも、そうして何かを伝えようとした形跡を残してくれたかもしれないと思えてならないのです。 あれもしてあげられなかった、これをしてあげようと思っていたのに、悪かったかわいそうだったという後悔はたくさんあります。でも、こちら側の一方的な気持ちかもしれず残された者にはよくある事です。 今処理しきれないのは、母の本当の気持ちが知りたかった、その機会を作れなかった(作らなかった)後悔です。 認知障害とはいえ、施設で過ごさせてしまい自宅へ帰してあげられず、 できる事が減ってしまった自分も分かっていただろうし、どこまで本当は理解していたんだろう、 どこまで我慢して、どこまで気持ちを吐露できていたんだろうと思うのです。 1年近く置いてくれた前の老健では、それなりに楽しく(?)過ごしていた感じはありました。 介護士の名前を覚えたり、イベントでは無邪気になったり。 そこまで慣れた老健でも職員にはよそいきの顔はしていた気がします。 年末年始に自宅へ外泊しても、昨年は「自宅」を選択したのに今年は気を遣ったのか「施設」を選択した会話もありました。 字が上手くは書けなくても、字になっていなくても、ノートにその痕跡を残してくれたんじゃないか。 なぜ、何も持ってこないでという施設の言葉に"良い子ちゃん"になってしまったのか、 自分自身も惰性になって、ノートをベッド柵にくくりつけるという発想が出なかったのか、 もっともっと入院時のように刺激になる事、母の気持ちを考えた事が出来なかったのか、 そんな至らなかった自分が悔しくて悔しくて、責めてばかりでどう処理していいのか分かりません。 この後悔は、自分が死ぬまで私を苦しめるのだろうとしか思えません。 長くダラダラとまとめられずすみません。 同じような後悔を経験した方、どう乗り越えましたか。 どう気持ちを整理すれば前を向いて自分の人生を進んでいけるのでしょうか。 独身なので家族もおらず、同じ立場の人もおらず、 仕事も契約が切れ再就職へのんびりしてられないのに、何も手につかなくて、立ち止まってばかりです。 最後まで読んで頂いてありがとうございます。 このどうしようもない自分に対する悔しさと後悔とどのように付き合っていったらいいのでしょうか。
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お礼
ありがとうございます。 この週末は、母の荷物を施設へ取りに行って以来そのままになっていたので、 その整理をしました。 母が倒れる前、自宅で最後に着用していた部屋着やパジャマ、靴下、レッグウォーマー、 入院や施設へ入所して用意した衣服、靴、日用品等々。 持ち主がいなくなったんだと思うと、寂しかったです。 これを履いて一生懸命、歩行練習していたな、この服は良く着ていたな、 これは気にいっていたな等、母の姿が思い浮かんで寂しいです。 四十九日も終わり、祭壇も片付けざるを得なかったのですが、毎日好きだった食べ物をお供えする器(?)もなくなり、徐々に徐々に母の遺影の前から供養の品がなくなっていき、本当に寂しいです。 仏壇にも、お供えをする飯器(?)ももちろんありますが、小さいのでお供えできるモノも自由度が減ってしまうので、さみしいです。 こうして否応なく母が「過去の人」になってしまうようで怖いです。 でも、仏壇の花を絶対に欠かさないと決めています。季節の花を母を思って供えます。 食べ物も(物理的に)可能な限りお供えします。 線香を絶やさない、というのは留守をしたりで出来ないかもしれませんが、 毎朝と毎晩は絶対、母に手を合わせます。 日々、気持ちが行ったり来たり… 瞬間瞬間、気持ちが行ったり来たり… 母に謝りたい、本音を聞きたい、 母に感謝の気持ちを直接もっともっと伝えたい、 母と色んな事を楽しみたい、 母にこんな事があったよ、こんな事があるよと、話してあげたい 私の知らない母の生きてきた歴史ももっと聞きたい、 心配もかけた私だけど、ほら、取り越し苦労だったでしょって 直接母に見てもらって安心して欲しい、 日常生活の中で、徐々に、私の人生を主に考えられるようにしなければと言い聞かせて、 頑張ります。 「お母さん、ありがとう。 おばあちゃんやお兄さん、おじいちゃんに会えた?寂しくない?心細くない? 足もいたくない?字を書こうってイヤなこと言う人もいない? もっとしてあげればよかったって言っていた分、おばあちゃんに会って、 やり残したことしてあげられている?」 こんな気持ちで、毎日、母に話しかけています。