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同性愛傾向の男性が性に理解されない理由とは?
- 同性愛傾向の男性がなぜ性に理解されないのかについて、その原因と理由を探ってみました。
- 同性愛傾向の男性が性について理解されにくい理由として、異性愛者との違いや自身の性的嗜好などが挙げられます。
- 同性愛傾向の男性が性について理解されないことに対する悩みや困りごとについて、その解決策と向き合い方を考えてみました。
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質問者が選んだベストアンサー
この際、ヘテロ的な話は少し置いときますが、質問者さまの心理にあるのは、マイノリティの中でのマジョリティorマイノリティ、という部分での葛藤なのでしょうね。 いまは昔にくらべ「同性愛」の情報が多いですから、成長段階の早期に、男性の肉体や志向性にエロスを感じることを同性愛へと結びつけやすいのでしょう。 少し話は変わりますが、アメリカの文化では、質問者さまが言うような「男性のエロス」というのが日本よりも比較的に社会へ浸透しています。たとえばニューヨークの街なかに、筋肉質で半裸の男性モデルの下着ブランドのの巨大広告看板があったりします。同じようなシチュエーションを日本にあてはめると、新宿や渋谷の駅前に巨大な半裸の男性を映した広告がある、という状況になりますが、日本ではそれはほぼありえないです。 また、質問者さまがあげた「戦隊ヒーロー」の類も、アメリカのコミック文化では日本よりもシンプルでタイトなコスチュームで、筋骨隆々とした肉体を誇示するようにしています。 アメリカの場合、大きくて筋肉質な、いわゆる『マッチョ』を文化的に奨励しているような感じです。ですので、少年期から多くの『マッチョ』を自己の理想として持ちやすくなる、と言えます。 質問者さまの持っている、プロレスラーや競パンなどのアイコン・アイテムへのリビドーというのは、ざっくり言うと『マッチョ』への憧憬だと思います。これはイメージ通りの「筋肉質な男性」というより、「形質的に男性性の強いものを好む」という感じです。 しかし、それが、必ずしも「同性愛的傾向」を増やしているか、と言われたらまた別の話です。 アメリカに見る『マッチョ文化』は、一種の政治的なプロパガンダと刷り込みであり、たとえば戦争での勝利や軍隊の存在を肯定させるものでもあるでしょうし、アメリカ男性に「アメリカ人は他のどの国よりも男らしくて強い」といった意識を植え付けさせているものだと思います。またそれは男性だけでなく女性の方にも『マッチョ』な男性を恋愛や性愛の対象として志向するように仕向けるのです。 さて、話は逸れているかもしれませんが、なぜアメリカが『マッチョ』を奨励するのか、というのと、質問者さまの心理的な葛藤には、共通する部分があるのではないか、と思います。 発達心理学の中で、成年期までの成長段階を、たとえばフロイトの性的発達段階を引用すると、5段階に区分けされます。 その中で、「男根期」に、自身の性器に興味を持つ、性器が性感の中心である、といった自覚を持つのですが、多くの戦隊ヒーローものや特撮、アニメなどを視聴し影響を受けるのは、ちょうどこの時期となります。幼児がヒーローごっこなどを行い、自身がメディアの中の存在を吸収・同化しようとするのは、ある意味で自身に「男根」があることを確かめている(自身の男根を成長させようとしている)、ということになります。肉体的な性と精神的な性を一致させる時期、とも言えますね。 それを経ての「性器期」(児童期・青年期/思春期)において、性器を通じて具体的な性感(射精)を得ることとなるのですが、これは肉体的に男女の性差が顕著になることとも重なります。この時期は「男根期」などに得ていた同一感が他者とは一致しない、という自己と他者との決別(異性の認識)となり、また同性間での個体差から劣等感なども覚える時期です。 「性器期」は、小学校高学年から中学生くらいの学生の時期とも重なります。しかし学生は学業などで優れるか、ごく一部スポーツで優れるなどして抜きん出る「勝ち組」の他は、ある種「負け組」的な存在となります。アメリカ社会における『マッチョ』というのは、この時期に多数の男子が覚える劣等感を正のストレスとして昇華させるためのロールモデルではないか、と思います。 では、日本は、と考えると、多少なりとも学生の時期に劣等感を抱くものの、アメリカ社会ほど顕著に「負け組」を認識することはありません。確かに学校の優劣もありますが、日本では義務教育を終えても大概が高校へと進学するなど、高等教育での受け皿は広いです。しかしアメリカの場合、義務教育で中以上の成績でないと進学はできず、職業訓練を受けて就職するなど、格差が顕著になります。 日本の場合は、強い劣等感を認識することもあまりなく、またその劣等感を解消するロールモデルもほとんど提示されないといった社会なのだと思います。また仮に学生の時期に優秀であっても、その先の将来像というのが、アメリカほど単純明快には示されていません。結果、学生の時期に、どこかで自己を肯定できる感覚が持ちにくいのが日本社会の特徴なのだと考えています。 また、フロイトの話を少し飛躍させると、思春期の頃を境目に、人はすべてが同性愛者であり自己愛者である、とも言えますね。 思春期を転換期として、それまでは自己の肉体に向けてリビドーが発生するのですが、以降は、自己のリビドーを他者に向けて発する支配的なものとなるのでしょう。そして他者に向け、特に肉体的にも異性を対象とするのがヘテロで、同性を対象とするのが同性愛者で、となりますが、このとき、必ずしも他者に向けて支配的にならなかったタイプもあり、それが質問者さまに近い存在なのかもしれません。 質問者さまの成長段階での心理的な側面は推測できませんが、何かしら、自己を肯定したい(肯定されたい)、とする願望が今でも強いのだと思います。これは、多少なりとも普通の大人ならすべてに存在する感覚ですが、同性愛というマイノリティを認識することで、その感覚が増しているのだと思います。 私個人として、質問者さまの趣味嗜好や性的なフェチズムに対して共感する部分があり、また、私も経験上、質問者さまと同じく自己を中心にリビドーが働いたりします。 ですが、それが主観的か、と言われると微妙なところです。ヘテロや「教科書的な同性愛者」の場合、他者への性的衝動というのは客観的なものではなく、自己の主観を他者にも投影し同化しようとすることであって、それもまた主観的なものだと思います。 また、自己愛が強いナルシシストというのも、「周囲から見られている自分」というところに視点を置いて自己陶酔するタイプの人も多いでしょう。これは結果的に主観と言えますが、自己を見る視点そのものは客観性が強いと思います(女性にはこのタイプの方が多いですね)。 「自己=主観」「他者=客観」という図式は必ずしも当てはまることばかりではなく、「他者に自己の主観を投影する」ことも「自己を他者の視点から見る」ことも、結果的にどちらも主観の産物で、自己を起因とする以上、客観は実際には存在しないと考えられます。 そんなこんなで、ご質問の回答にはなっていないかもしれませんが、今日のように、ある程度世間一般に同性愛というマイノリティが浸透すればするほど、そのマイノリティの中にあるさらなるマイノリティというのが「理解されにくい存在」となってしまうのは、一種のジレンマだと思います。 ただ、この点は、同性愛というマイノリティのくくりを一旦外して考えると、案外、共感できる人は多いかもしれませんね。 たとえば、ヘテロ女性のマゾヒストや、ヘテロ男性のヌーディストなど、とか。性愛の嗜好はヘテロであっても、彼らがどのように異性を見ているかというのは、意外と質問者さまに似ているかもしれません。 異性愛と同性愛という大きな区分けの中に、ツリー形式で細かい区分けが存在する、という図式で考えるのではなく、性愛という大きな領域の中で、さまざまな趣味嗜好が細かく散布され、そのどれにも異性愛や同性愛といった属性がそれぞれ任意のバランスを持って共存していると考える方がいいでしょう。 あまりまとまっていませんし、長文になり申し訳ありません。 理屈っぽい部分ばかり例示してしまいましたが、多少の差異はあれど、感覚的に、私が質問者さまに共感できることだけでもご理解いただければ、と。
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- moritaroh
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なんだか会話的になってしまうのもよくないですが、追記やお礼に対しても含めあらためて回答いたします。 私個人の視点としては、どの程度「大局的」にものごと考えるか、というところがあるので、質問者さまのお考えと異なる部分もあるでしょう。細かい部分をひとつひとつ個別に論じれば、それぞれに着地点は見いだせるかもしれませんが、それだと、大きな枠組みでの話(たとえば『同性愛』や『性行為』など)が見えなくなる可能性があることや、それぞれの着地点どうしが矛盾してしまうこともあるでしょう。ですが、大局的に考えると、仔細までは言及しきれず例外も存在してしまう、というのもあります。 帰納と演繹での相違、みたいなものですね。 どうしても前置きが長くなってしまうのですが、私個人の大局的で独自な見解として、男性性にまつわる日本文化は、戦前・戦後を境に『去勢』されたのだと思っています。 質問者さまは、たとえば特撮ヒーローものや漫画・アニメなどの変化を挙げられていますが、私は、戦後、徐々に日本の一般論的な男性性が女性化していく傾向にあったと思います。良くも悪くも軍国主義的な近代の日本では、男性性は強さやたくましさによって象徴されていたと思います(もっとも、その先には『武士の死』や『戦争での若くたくましい兵士の死』があり、強さとたくましさの内に儚さもはらんでいたと思いますが)。 そのことは、たとえば戦後、三島由紀夫に象徴されると思います。文学青年であり虚弱であった三島がなぜボディビルディングに熱中し思考的にも「マッチョ」を追い求めることに傾倒してしまったのかは、終局的に右翼的活動をもって自殺したことで、「去勢」に抗おうとしたのかもしれない…と考えています。で、三島には同性愛的傾向ももちろんありましたが、彼は同性愛者ではなく異性愛者でした。 現代、多くの場合、「マッチョ」を志向するのは同性愛的傾向とされるかもしれませんが、この点においては、私は「そうではない」と思います。それは男性の視点から見たときと女性の視点から見たときで多少の差異はあるでしょうけれど、男性一般には「マッチョ」思考はそれほど受け入れられない(=ゲイ、と誤認される)のですが、女性視点ではそうでもありません。 なぜ、スポーツ選手や格闘家が一般女性と結婚せず、それなりに華やかなモデルや芸能人、アナウンサーなどと結婚するか、というのは、資本主義社会の生存競争の中で生き残る術を持っている女性たちにとって、子孫に引き継ぎたいものは頭脳や知性ではなく「生き残るための肉体」であり、結果、思考や肉体が「マッチョ」な男性を好むのではないか、と。 知人女性に医師がいますが、その意見も似たようなもので、「それなりに稼ぎが(自分に)あるから、結婚したい相手は別に仕事とかできなくていいから、スポーツ選手とか、極端な話、肉体労働者でもいい」などと言っていました。 あくまでも仔細な例のひとつに過ぎませんが。 では、なぜ、男性視点で「マッチョ」が封殺されたのか、と言えば、それこそカウンターカルチャーとしての、漫画などが挙げられると思います。 質問者さまがおっしゃる1970年代~1990年代頃の状況は、高度経済成長期を経て所得格差が広がりつつある中、『アウトロー』や『不良』がカウンターカルチャーとしても広がっていった時代だと思います。資本主義が加速する時代の、ある意味「落ちこぼれ」たちの慰めとして、それらがあったと思いますし、『アウトロー』や『不良』的な生き方を肯定してくれるものでもあったと思います。 この時代の少年たちにも現在同様、漫画やアニメはもてはやされていましたが、今でこそ官僚になっているようなエリートコースに向かう少年たちにとって、社会の中でそれらはあまり教育的ではない、とされていたと思います。要は幼児期に勧善懲悪の正義のヒーローを見て育った少年が、青年へと変わる時期に、どんどんと「去勢」されていった時代であった、と考えられます。 また、資本主義社会が加速する中で、たくましい肉体よりも、効率良く金を稼げてなおかつ機会も平等であるのが、それこそ会社員という存在であったと思いますし、その傾向は多くの男性の持つ自身の男性性に大きな影響を与えたでしょうし、この時代の女性にも、男性を三高(高身長・高学歴・高収入)といった条件で見ることが多数派になるなど、影響を及ぼしたでしょう。 現在の社会的不安や経済的停滞は、日本社会に、ある意味で「マッチョ」が復権しつつあることも意味していると思います。 健康ブームもそうですし、ジムでトレーニングをするなどは一定以上の所得のある男女ともに流行していますし、下着や服装の傾向も急速に変化しています(これについては後述)。 また前述のように、女性が再び社会進出した(過去、女性が自身で職を得て収入がある時代もありました。高度経済成長期がむしろ女性を「家庭」の内へと封印した)こともあり、男性性として描かれるイメージは再び変容しているのではないか、と。 男性のスカート装や競泳水着の話なども出されていましたが、競泳水着の流行はテクノロジーの進化であって、肉体の露出か否か、という部分は後天的なものです。が、たとえば下着にいたっては、戦中あたりが褌から短パン型のトランクスタイプへの移行期で、以降はトランクスが隆盛となりますが、1960年代頃からブリーフが流行(縫製技術的にはブリーフの方が高い技術が必要=技術革新が行われブリーフが一般化)します。今ではあまり信じられないかもしれませんが、1980年頃までにはブリーフからさらに進化しビキニがもっとも最先端であるとされ、トランクスはなりを潜めていました。トランクスが復権したのは1990年に差し掛かる頃であって、ある意味で「去勢文化」が根付いたときに、男性器のシルエットが露わになりがちなビキニやブリーフというのが、特に青年たちに敬遠されるようになりました。 しかし、2000年以降から現在まで、その下着も再び変化していますね。 これについては、質問者さまも何かしろ持論があるか、と思いますが、私はこうした下着の変化が、どことなく「マッチョ」の復権の兆しのような気がしています。 すべて余談のようなものですが、最後に追記の部分でご指摘のあった「sexは本能かリビドーか」という部分について、もはや爛熟しきった社会において、sexは本能的な行為ではないと思います。特に男性にとって。 sexを子孫繁栄のための本能的な行為で、と言う男性であっても、それを頭で考えて行っているのではなく、sexの結果がそうなるという話であって、sexを行う衝動はやはりリビドーだと思います。女性にとってもそうであるか、と言えば、私は女性ではないのでわかりません。 しかし、どちらの場合も、子孫を残すのは結果であって、初動的な要素(目的)であるのはあくまでも理論上での話だと思います。 だしとたら、なぜ、それまでしてsexを子孫繁栄のため、と位置づけたがるのかは、やはり心理的に「去勢」されているからでしょうし、子孫という結果をもって、男性は自己を再認識したいのでしょう。 リビドーが中心となるsexも極論、自己を再認識することとして同じであって、異性愛者であろうが同性愛者であろうが、心理的に「去勢」された自身の男性性を、男性器に発するリビドーから再発掘するのだと思います。
お礼
何度もありがとうございます。 >私個人の視点としては、どの程度「大局的」にものごと考えるか~お考えと異なる部分もあるでしょう。 かも知れませんね。 まあもっとも、細部に拘りすぎると大筋が見えにくくなりますし、細部で別に気になることがあるのであれば、別に質問を出し直した方が良いかも知れませんね。 >そのことは、たとえば戦後、~ではなく異性愛者でした。 三島由紀夫氏は確かにそうでしたね。 彼の考え方や人生観がどこまで賛同できるかはわかりませんが、そこに関しては気持ちは分かるかも知れません。 しかしながら三島由紀夫氏は同性愛傾向はあれど、同性愛者とは異なった訳なんですね。 基本的に三島由紀夫氏=ゲイ だと思ってる人は少なくない様なのですけどね。 ところで、ふと思ったのが同性愛傾向というのと、同性愛者というのはどこらへんに違い、線引きががあると思いますか? >現在の社会的不安や~意味していると思います。 そうなんでしょうかね。 これ自体に関してはそう思うとも思わないとも言えないのですが、何となく感じとしては今後ではなくて、あくまで現状ですが、元々昔の時代に「強者」だったものが「弱者」へ、「弱者」だったものが「強者」に入れ替わって来ている様に感じます。 かつてはそれこそあなたがおっしゃったような「不良」とか「ヤンキー」の如く、知的レベルが低い人や所謂今で言うDQNと言われた人も、良いか悪いかは別として社会に居場所があったかなと思います。 また、いわゆるマッチョにせよ強い男が男性にもある程度憧れの対象とされていたと思います。 またこちらも良いか悪いかというと、むしろ良くないとは思いますが、かつては本当にありとあらゆる面で男尊女卑な社会だったと思います。 ところがどっこい、現在の価値観だとある意味このパワーバランスはあべこべになっていると思います。 不良やヤンキーって言うのも今は表立って姿がなく、暴走族なども社会的な容認が無くなり取り締まりによる減少や価値観の変化によって殆ど見なくなりましたし、ある意味DQN層が地下に潜った感じがします。 男性もマッチョへの憧れとか同性への憧れが減って、むしろフィクションの世界でも萌えや恋愛への価値観などが強まり、可愛い女の子とかが好きな人が増えて来た様な、オタク層の嗜好も180度変わって来たなと思います。 更にまた、かつては男尊女卑な物がありとあらゆる所にありましたが、逆に今では女性優遇や女性専用○×などが増えて、全てとは言えませんが一部では女性の方が社会的に極端に強者になっている面を感じます。 これに関しては男尊女卑も良くないですが、こんなのが跋扈するのも僕はよくないと思うんですけどね。 さて、人間も社会も、あくまで力だけで生きている訳ではないので、物理的に強ければ強者になれるかというとそうではないので、社会がどう思うか、社会的にどう扱われるかが実質的な強者弱者の線引きになるので、物理的に強くないものが強者になることはあると思います。 ある意味、現在は男性性の「去勢化」は極まっていると思います。 つまりはは男性性=良くないもの、女性性や物理的な強者にならないもの=正しいものと見なされているのが現代の様に感じます。 しかし勿論将来はまた変化する訳で、現に徐々にこの考えに抗う人が二つのパターンで出ているかと感じています。(当方ややジェンダーフリーにも興味があるのでそこを通じて思った事です) かつての男性性を強める事を良しとする力と、むしろかつて弱者だった方も強者だった方も、以後どちらも強者にも弱者にもなるべきではないという力が、それぞれ強まって来て二方向への複雑な動きを感じます。 これに関しては僕個人としては、今程男性性が弱過ぎるのは問題だけど、かといってそれが人を傷つけてしまう程強化してしまうと問題だし、それが続くとまたかつてのようにひっくり返し合いが繰り返されるのが目に見えているので、後者の形で今の男性性の去勢化には抗いたい気がします。 それで本来は十分にバランスは取れると思いますし、誰も傷つけないし再びひっくり返し合いが繰り返される事もないかと思います。 話がちょっと横に行ったかも知れません済みません。 いずれにせよ、バランスが崩れない程度に、あくまで他の人に対しては強者に戻ってしまわない程度にマッチョも復権して良いと思いますね。 勿論、他人に対する物でなければ、自分の中に対するものであれば、ガンガンマッチョでも良いでしょう。 >しかし、2000年以降から現在まで、その下着も再び変化していますね。 これに関しては、ブリーフでもビキニでもトランクスでもない、ボクサーが主流になってきていますね。 これが何を意味しているのかは僕にはちょっと分かりませんけど、どうなるんでしょうかねえ。 個人的には僕はボクサーはあまり穿かず、現在はビキニ派ですね。 自分の下着に関しての嗜好は人にどうこうする範疇ではないので、ここは目一杯、な方向に行った結果、現在はビキニ派です。 一時期中学生の頃急にトランクスが普及しだしてその影響でトランクスに乗り換えましたが、10代の終わり頃からボクサーにはいかずそのままビキニに一気に飛び戻った感じです。 最後のsexはリビドーか本能か、というのに関してはあなたのおっしゃる通りだと思います。 みんな本能、本能で片付けてしまうけど、毎回なんじゃらほい、となっていました。 とは言え、殆どの人がシスヘテロで、同性愛者もマイノリティで、同性愛傾向(これがどこに位置するのかは自分でもまだよく分からないですが)は更にマイノリティな感じなのは、なぜだろうなと思っています。 本能ではなくてリビドーであれば、どこがその方向性を決めるのだろうか?とは思います。 完全にはよく分かっていないのですが、今までの話を聞く限りで自分流にまとめてみると、同性愛という物が認知される一方で、男性性というものは去勢されていく中、同性愛とは似て非なる同性愛傾向という物はどんどんマイノリティになって行き、残った完全疑う余地無しのシスヘテロが結果論としてマジョリティを占めてしまったという事になるのでしょうか? これだけいっぱい説明を頂いておきながら、きちんと理解できていなかったら済みません。
- 177019
- ベストアンサー率30% (1039/3444)
すごく頭が良すぎる方とお見受け致します。私の私観ですが貴方の文面からして一つ一つの事柄をこまめに追求して、それに結論、結果を見出そうとしているように思えます。それがダメだとか言うのでなく、人間ですから様々なタイプがあって当然です。人気タレント、マツコデラックスは「女装家」です。体の中は男のままで女装したい、性の対象は同姓です。かと思えばはるな愛は整形してでも女性に体もすべてなりたい、と皆、様々なのです。この事を、貴方が新宿2丁目のバーで語っても恐らく誰も分かってくれないと思います。貴方のような同性愛者もいて当たり前なのです。当然ですよ。私から言わせれば理論だけでは理解に苦しみます。だから今の貴方のままで、結論を出そうとしないで下さい。
お礼
ありがとうございます。 まあ結構様々ですよねえ。 確かにマツコは自称もしていますが、マイノリティの中のマイノリティでしょうね。 芸能人にならなければあそこまで人気者になれなかった、理解もされなかったかも知れませんね。 確かに同性愛者もたくさんいますね。 とはいえ、落としどころを見つけている人は目に付くので、どうやったのだろうと思います。 >結論を出そうとしないで下さい どうしても出さない方がいいでしょうかねえ。 それはそれですっきりしない所はありますが。
>自分としてはどっかにこぼれ落ちたような存在に感じますし、 >それを話しても理解されないし、回りはどうなのか聞いても理解できないし、 そういう状況を、マイノリティとよぶのだから、自分がマイノリティだと自覚した時点で、 現状では、はなすことが理解されないとかは、どうしようもないことだと思います。 全能の存在でも ないかぎり、かかわりのある、すべての人間を理解するのは、不可能でしょう。 アナタが人生の時間をかけてきた大切なひとたちが、ある程度、あなたを理解されていれば、それで十分なのではないでしょうか? 知人程度のかかわりにない人に対して、「俺のことを理解してくれ」といっても、彼らにも、自分の貴重な人生の時間を自由につかう権利がありますから、それを強制はできないでしょう。
お礼
ありがとうございます。 とはいえ、同性愛者であること自体がマイノリティとはいいますが、彼らはそれなりに落としどころを見つけていると思う訳です。 だから僕もどこかに落としどころがあるんじゃないかと思うのですけどねえ。 おっしゃることは分かるのですが。
お礼
ありがとうございます。 かなりの内容をありがとうございました。 >いまは昔にくらべ「同性愛」の情報が多いですから、成長段階の早期に、男性の肉体や志向性にエロスを感じることを同性愛へと結びつけやすいのでしょう。 んと、それはどうしてでしょうか? あと基本的に男性の肉体や志向性にエロスを感じるのは同性愛だという人が殆どですし、そうでなければあり得ないという人が殆どですけど、それは正しくないのでしょうか? >たとえばニューヨークの街なかに~日本ではそれはほぼありえないです。 確かにそうですよね。 なんで日本ではこういうのってダメなんでしょうねえ。 >また、質問者さまがあげた~自己の理想として持ちやすくなる、と言えます。 あ、これに関してはふっと思った事です。 これは日本では文化から削除されたという物でもある気がします。 マッチョとまではいいませんが、70年代(この頃は生まれてませんが)から90年代前半ぐらいの、アニメとかの男性キャラクターって「かっこよい」「セクシー」というのがかなりいた様に思いますが、今は廃れたと感じます。 正直この頃の男性キャラクターは僕好みのキャラが多かったと思いますし、この頃からそれらへの憧れという方向性からある種の「オタク道」に入っていった気がします。 今の二次キャラって、男性キャラクターも「かっこいい」というかは純粋な「イケメン」が増えたと思います。 鳥山さん系や永井さん系の「眉毛のぶっとい男キャラ」って今更少ないですよね。 昔はぎょうさんいた覚えですが。 見た目がシンプルで憧れを抱き易い、視聴者からの同一感を得易そうな、シンプルなデザインのキャラクターも昔はめちゃくちゃ多かったですけど、また肉体美を生かした格好のキャラクターもメチャクチャ多かった訳ですけど、そういうのは今では「時代遅れ」な扱いを受けますよね、なぜか。 また、プロフィールとか身長とか年齢とかのキャラクター設定も細かく行われる事が近頃は増え、どっちかというと(主に男性の)視聴者が同一視や憧れという観点、感情移入しやすさで扱うキャラが無くなった気がします。 またそういう、キャラクターの「華」や性的な萌えとかそういうのって、今では女性キャラにすっかりとられてしまった気がします。 男性用のショートパンツが長くなったのも、競パンがブリーフ型からスパッツ型に変わっていったのも、ゼルダの伝説のリンクが生脚ミニスカキャラから白タイツキャラに変わっていったのも、先述のリンクを筆頭とする男のミニスカ生脚キャラがことごとく消えたのも(かつては非常に多かったのですが)、ちょうどこの頃だったと思います。 そうして、僕好みの文化やキャラクターが消えていったと感じます。 そんな訳で、程度の差こそあれど、かつては日本にもそういう文化はなかったこともないと思ってます。 全く関連性はないかも知れませんが、同性愛の概念が広まれば広まる程、男性を性的に魅力的に描くのが減って行くという逆ざやが起きていると感じました。 一体どうしてだろうと思っています。 >このとき、必ずしも他者に向けて支配的にならなかったタイプもあり、それが質問者さまに近い存在なのかもしれません。 これは確かにそう思うかもです。 なんというか、異性愛者同性愛者関係なく、いわゆる教科書通りの人って、僕とはどこか方向性が違うよなといつも思ってしまいます。 上で例に挙げた二次元キャラが好きっていう人も、単純にそのキャラを愛でる事は好きだが、それに憧れや同一視を求めることはしないという人が殆どですし、質問文でも書いたスク水だのなんだのというのも、着ている人を見る、彼女に着てもらうのは好きだけど、自分が欲しい訳じゃないという人が多いですよね。 >質問者さまの持っている、プロレスラーや競パンなど~の憧憬だと思います。 これは5割当たり、5割外れってところですね。 当たりの方から行くと、競パンやプロレスのリングコスチュームって、機能美的にも美しい、いわゆる戦う男の格好なんですよね。 そういった面は好きですね。 次に外れというか、それ以外の面での話に行きますね。 質問文にも書いたのですけど、競パンに関しては小学生から中高生の頃まで水泳に行ってたので使う機会も多かった訳です。 そうこうしているうちにフェチにハマったと思います。 その頃は単純に「競パンへのフェチ」でしか無かったと思うのですが、後々スイミングは卒業して行くことも無くなってからは、それが更に徐々に変化していったと思います。 ただ単純に競パンにというよりは、あの頃の想い出を取り戻したいという気持ちが出て来る事になりました。 だから同じ競パンでも、スイミングに行ってた時に使っていた競パン、スクール水着系の競パン、という風に好みがより一極集中化していきました。 よく競パンフェチというと、ちっこいのを「ぴっちぴち」に、何かはみ出すぐらい穿くのが目に付きますけど、あれは好きじゃないですね。 なぜって、スイミングスクールの頃の想い出と、僕らがどんな感じで競パンを穿いていたかには合致しないからですね。 ぴっちぴちに穿くよりかは、むしろボテッと穿いてる方がまだ遥かにマシというか、逆にそっちの方が想い出の中には近い物があると思います。 というかあまりぴちぴちに穿くと脆化が進み易くなって、直ぐに穿けなくなると思いますし、そういう穿き方は基本僕らはありませんでしたね。 成長期に買換えが追いつかなくなった一部の人だとあり得ましたが、その場合はむしろ逆に先に大きめを買って最初はポテ気味に穿いて、成長とともに段々小さくなってちょうど良くなる人の方が多かったです。 また逆にぴっちぴちなのって、競パンよりもむしろタダのエロを無理矢理誘ってる感があって、あざとい感じもするので尚更です。 で、次にプロレス云々の話にいきますけど、ショートタイツっていわゆる「競パン」をもう少しなんというかぽてっとさせた感じですよね。 むしろ普通のありがちな競パンよりは、上で挙げた様なスクール水着系の競パンに形とか、肌への密着度とかは近いかなと思います。 そんな訳で競パンの延長としてプロレスのショートタイツも好きになり、更にそれに「格闘」という物が加わったのでよりエロスを増したのだと思います。 >世間一般に同性愛というマイノリティ~一種のジレンマだと思います。 本当にそう思います。 そしてまた、同性愛に限った事じゃないのですが、マイノリティが更にその中にあるマイノリティを抑圧する図式もままあるので、ジレンマを感じます。 >理屈っぽい部分ばかり例示してしまいましたが いえいえ、それで構いませんしむしろその方向での回答の方が分かり易いです。 こういうのがあるといいと思っていました。 >多少の差異はあれど、感覚的に、私が質問者さまに共感できることだけでもご理解いただければ、と。 ありがとうございます。
補足
あ、そうそうあと一つ。 質問で書き漏らしていたことですが、性に対して理解できない点に「本能だからしょうがない」「そうじゃないと子孫が残らない」と言うのでしっくりこない、という事を書きましたが、その点を一つ追記しておきます。 なんで性的興奮を得ることやリビドーを得る事が、そういった「子孫を残す為のセックス」と一緒くたにされているのかという点がありますね。 それ以外の方法で性的興奮やリビドーを得る事、また僕は基本セックスレスですが、同じセックスでも「子孫を残すためのセックス」と「それ以外の意味でのセックス」が共存する事は考えられないのか、後者には何らかの意味はないのか?と思う訳です。 性的興奮がセックスにただくっついてる人、セックスが子孫繁栄にくっついている人が結構多いですけど、それ以外の手段や目的を考慮していない点が理解不能になっています。