恐ろしく難しい問題にぶち当たりましたね~
これがスラスラ解けたらお釈迦様もキリスト様もいらなくなるでしょう。
「命を頂く行為」と書かれておられますが、この辺がヒントでしょう。
ただ、この考え方は日本人特有の考え方だということをお含みおき願います。
家畜といいますか獣肉を食べてきた、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も天という思想を持つ中国人もこのような考え方はしません。
日本の釣りマニアは昔から
釣った魚は綺麗に食べることが供養である。
食べ残したり、食い散らかすのは魚に失礼である。
ということを言い伝えてきました。
ヨーロッパやアメリカの釣りマニアは釣ったらオシマイです。
命懸けで逃げようとする魚を捕らえることだけが楽しみです。
同じようにハンティングという道楽で動物を撃ち殺します。
命などいうことを考えません。
後は情緒にまかせた可哀想、可哀想だけです。
家畜は屠殺してもイルカやクジラを殺すことを非難して糾弾するのはこの為です。
子羊のなんとやら、子豚のなんとやら、といって平気で子羊や子豚を殺して食べます。
これに対して日本の畜肉処理場すなわち屠殺場には必ず慰霊碑があって供養という儀式をします。
冒頭の「命を頂く」という考え方に基づいています。
人の命であろうと、家畜の命であろうと全く同等のものとして扱います。
家畜の命を頂いて、人の命を永らえさせているという考え方です。
命を引き継ぐと言い換えてもいいかと思います。
供養という儀式は、命を渡してくれた動物に対する感謝の意の表し方の一つです。
こう考えれば、鯨一匹も白魚一匹も同じ命です。
命に数はありません。
この辺は、生物の発祥起源に遡れば分かり易いかと思います。
生物と無生物は化学の考え方だけであれば、どちらも単に連鎖的に化学反応を繰り返しているだけです。
溶鉱炉の中も人の体の中も同じ化学反応であって反応している物質が違うだけだと言えます。
昨今流行りのDNAなるものもdeoxyribonucleic acidなる化合物の名称の頭文字を取っただけのものです。
つまり、この化合物の構造の違いを継承することを遺伝と呼んでいるだけです。
この考え方には「命」という考えは含まれていません。
化学の世界を離れれば、生物と無生物との差は命の有無です。
発生学的には、太古の何時の日にかこの命なるものを獲得したものがいてそれが生物の始祖と考えられています。
つまり初めは一つだった命が、時代を経るに従って、多くの個体へと分散しながら引き継がれていったと考えます。
このように考えれば小魚の群れの命も鯨一匹の命も同じ命であって、宿っている形態が違うだけだということになります。
鯨一匹の命を分け合って受け継ぐのも、一人で小魚の群れの命を引き継ぐのも同じことだということになります。
この辺のことを直感的に言っているのが「人は生きているのではなく、生かされているのだ」という言葉です。
後は宗教人であれば宗教としての補足説明をしているだけです。
以上回答にはなりませんでしたが、ものは考え様ということです。
今一度視点を変えて考えてみて下さい。
お礼
やはり無意識に日本人としての考えが身についているってことですかね。戦後、伝統的な日本人の価値観が徹底的に破壊されましたが根本は変わらないと。しかし今後も日本人の死生観や価値というのは破壊されていくでしょうね。 現在、私はそうした国としての意図に迎合しないということで「危険人物だ」とみなされ、公安部(とその実行宗教組織)に集団ストーカーされています。もちろん戦前に戻れみたいには思いませんし煽動する意志も力も無いのですが。集団ストーカーを通して戦後史や国家情勢を知ることが出来、得られるものは多いです。 他の方も回答ありがとうございます。