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忘れえぬ昭和の雑誌とあなたの思い出
- 昭和時代の雑誌は、テレビやラジオだけでなく、情報を得る主要なメディアでした。
- 様々なジャンルの雑誌があり、それぞれが人々の興味や個性を表現していました。
- 私の思い出の一つは、東京オリンピックの開催年に創刊された「平凡パンチ」で、そのエッセイやグラビアに興奮しました。
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お礼を有難うございます。 中原淳一記念館は 前 河口湖に在ったのですが いつの間にか広尾に移ってショップになってしまいましたね。 車で広尾近辺をドライブしていて見つけました。 絵とセータ- 食器等を買って 絵は飾ってあります。 後 最近亡くなった 内藤ルネという人の記念館も河口湖にありましたが・・・ 雑誌の話ですが、少女雑誌で一番古いのは 少女クラブ でしょうか。少女ブックというのもありました。 その他 主婦の友 主婦と生活(この雑誌には投稿もしました。) 懐かしくなっていろいろ思い出してきますが、この辺で・・・・
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- hyakkinman
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★週刊競馬報知 現在の【ギャロップ】です。 昭和47年から、中学生の分際で毎週買っていました。 アカネテンリュウという名前の馬の、かっこよさに惹かれて競馬ファンになりました。 競馬を、スポーツとして観戦できるタイプです。 昭和52年の有馬記念の時(高校生でした)は、ゴール板前に一日中いて、テンポイントvsトウショウボーイの一騎打ちを生観戦してました。 ★月刊平凡 同い年の芸能人【山口百恵】さんは、女神でした。 だんだんローライズになっていくビキニから、お尻が見える日を楽しみに、買いつづけましたね。 そして、ついにその日が来たときには、【平凡は偉い!】と、賛美したものです。 ありがとう、平凡。
お礼
昭和の時代、大橋巨泉の11PMとかで競馬コーナーがあり、カタカナの馬の名前や増沢 末夫などの騎手の名前が熱っぽく語られていました。それを聴いてもチンプンカンプンの私です。ハイセイコー、シンボリルドルフ、とか聞いたことあるなぁという程度でまことに恥ずかしいかぎり。 男と生まれたからには中山でも府中でも休みの日には、ハンチング被って予想誌片手に電車に乗る。これはちょっと憧れていました。 阿部寛がブルーリボン優秀男優賞、能年玲奈ちゃんが報知映画賞新人賞をとった映画『カラスの親指』で馬券の詐欺がでてきますね。私は自分が競馬の世界を知らないことがひょっとしたら人生の重要な楽しみを知る機会を逃しているのではないかと感じた次第です。そののち作家・浅田次郎の競馬エッセイなど読んで、これは近づかないほうがいいと思いなおしました。 >競馬を、スポーツとして観戦できるタイプです。 うらやましいです。馬事公苑のすぐちかくに3年ほど住んでいました。学生時代乗馬部というものがあって、その人たちは心底馬が好きな人たちだったのを覚えています。 >同い年の芸能人【山口百恵】さんは、女神でした。 そうですか、hyakuさんはわたしと6つも違わないのですね。 >だんだんローライズになっていくビキニから、お尻が見える日を楽しみに、買いつづけましたね。 こんなの見つけました。 http://geinoukame.blog.fc2.com/blog-entry-4667.html あの女神が手ブラの写真を残していたとは・・・ >そして、ついにその日が来たときには、【平凡は偉い!】と、賛美したものです。 パンチでなく芸能誌月刊平凡に載ったというのがすごいですね。 明星対平凡のレース。歌本のコードで明星の勝ちと思っていたら、逆転しましたね。 私の知らない昭和の美学を教えていただきました。 ご回答ありがとうございます。
- smi2270
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exhivisionist2 さん こんにちわ! SMIは1967年生まれですが・・・なんとなく 対立していた様な気がします。 平凡パンチ VS 明星 や ジャンプ VS マガジン VS チャンピオン 若い頃の情報源は 雑誌でしたね~~ 懐かしく感じますぞ~~☆
お礼
SMIさんは40代でいらしたのですね。 昨日は40代の友人と酒を飲んでました。楽しい酒でした。 雑誌は革命的先駆者のような雑誌が出て、それらは大半借金抱えて赤字で廃刊という 運命なのですが、たまに平凡パンチのように大当たりする(もちろん、戦略もスタッフもデザインもコンセプトも時宜を得たからなのでしょうが)と追随した模倣誌が出始めるようです。後発が工夫して先発のやらないことをやって部数を伸ばす。こうなると先発もマンネリ打破を目指して変わる。いい意味で切磋琢磨する状況が生まれます。 雑誌もファンがついてジャンプ派とマガジン派は読んでる漫画が違うから話も通じないし話してもおもしろくないってのはありましたね。それと雑誌の連載もの自体が途中から読んでもわからない「スラムダンク」や「ドラゴンボール」みたいなのがあったりしましたね。 ご回答ありがとうございました。今年もよろしくおつきあいください。
- kamejrou
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こんにちは。 >忘れえぬ昭和の雑誌とあなたの思い出 TV、ラジオもさることながら一番の情報メディアは雑誌であった仰るとうりでしょう。 古いことを言うと思われる方もおられるでしょうが、 私はあなたとは年齢も近い・・・ 場所は違えど同じ時代の空気を生きた者として少しお話してみたいと思います。 私の子供の頃は娯楽としては漫画しかありませんでした・・・ TVなどは富裕な家にあるかどうかの時代です。 遊び疲れれば子供向けの世界と日本の小説と漫画が私の友達でしかなかった・・・ 当時はこのEXさんなどは知っておられると思うが、 漫画雑誌と言うものは随分分厚いものでした付録も入っておりましたからね、 これを十字に縛る・・・ 「少年」「少年画報」「少年クラブ」「日の丸」「ぼくら」・・・ 月光仮面、赤胴鈴の助、まぼろし探偵に胸ときめかしたのです・・・ 私も中学の頃より「スクリーン」「近代映画」などは良く眺めておりましたね。 映画が好きでしたし、今のように手軽に情報を検索も出来ませんでしたし・・・ 「キネマ旬報」なども懐かしい。 当時は双葉十三郎さんなどまことに詳しい方がおられた・・・ 淀川さんなども映画評論に名前を連ねておられたが、あのようになられのは少し先・・・ 小森のオバチャマが一番活躍さてていたのではないかな? ジェームズ・ディーン、命とか言ってましたがね、アハハ 私もあの頃一番印象に残るのは「平凡パンチ」かも知れませんね・・・ 何しろあの大橋歩さんのイラストが素晴らしかった・・・ EXさんなどは御存知でしょうが、 あの当時「みゆき族」なるものがいた、今の「みゆき通り」のあの界隈でしたか? 彼女らがあの大きなズタ袋?あれを提げながら小脇に「平凡パンチ」を挟んで・・・ 雑誌と言うものが彼ら、彼女のお洒落の一部であったこと・・・ 今思えば大橋歩さんのイラストと自分を重ねたのでしょうか・・・ さて最後に少しEXさんに教えてほしいことがあります。 質問とは関係のない話で申し訳ないのですが、 私はたまに模写と言うものをやります・・・ B4サイズの画像をH1050W750くらいにそのまま模写出来る機械? そのようなものはありますか? 去年、このサイトのお知り合いの何人かの方にお聞くきしたのですが、 やはり升目を作るしかないのでは?これが結構大変で・・・ 完成はさせましたが今年は別なものに挑戦してみようかと思いまして。 建築関係に携わっていたとお聞きしましたので御存知でしたら。 病人の方がおられるようです、私からもどうぞお大事にとお伝えくださいなアハハ
お礼
177dさんのあとにkamejrouさんのご回答を読んで、なんとなくわかってきました。 私の中には少年倶楽部の戦後版のようなものをイメージしていました。ちょうど中原淳一のそれいゆみたいな読み物雑誌があったのではないかみたいな。 たしか小学館の学習雑誌は戦前からあったはずでしかし、だれもなつかしがる人はいないみたいです。 >「少年」「少年画報」「少年クラブ」「日の丸」「ぼくら」 思い出しました。同級生の間で購読誌をきめて回し読みしていました。 「少年」が一番人気。なにしろ鉄腕アトムと鉄人28号を連載。創刊も昭和21年。まさにそれいゆと同時期。調べてみると最初は読み物中心の編集だったようです。 「少年画報」はなんといっても桑田次郎のまぼろし探偵 辻なおき ゼロ戦太郎 手塚治虫 マグマ大使 「少年クラブ」は、あの亜細亜の曙、海神二十面相の「少年倶楽部」だったんですね。 戦後は 川内康範 桑田次郎の「月光仮面」前谷惟光「ロボット三等兵」 手塚治虫「ふしぎな少年」時間をとめられるサブタンはTVドラマ化されました ジャガーの眼は月光仮面のあとのTVドラマにもなったようです。 「日の丸」には手塚治虫のナンバー7がありました。 http://tezukaosamu.net/images/upload_images/comic/00324CSI.gif 「ぼくら」には竹内つなよしの少年ジェット のほか狼少年ケンやウルトラマンなどTVの漫画化作品もありました。 妖怪人間ベム、タイガーマスクなど有名作品も >月光仮面、赤胴鈴の助、まぼろし探偵に胸ときめかしたのです・・・ そしてこれらがみなメンコの図柄になったのですね。 >映画が好きでしたし、今のように手軽に情報を検索も出来ませんでしたし・・・ 私が育った田舎町にも映画館が町の中心部に3館もありました。それぞれ、東映‣東宝系 日活などと別れて封切館でした。一つだけ小さな劇場がピンク映画やお化け映画専門でした。洋画のロードショーをみるには隣町のデパートのある大都市にいく必要がありました。 当時、映画の手描き看板や映画のポスター、劇場のショーウィンドーに貼ってあるスチル写真をよく眺めてました。 >当時は双葉十三郎さんなどまことに詳しい方がおられた 寡聞にしてこの方の名を知らず、早速『外国映画ぼくの500本』をとりよせました。 >何しろあの大橋歩さんのイラストが素晴らしかった・・・ 創刊編集長の清水達夫さんが選んでずっと1964年から1971年まで変えなかったというのもすごいけど、清水→木滑と編集長が変わってマンネリ打破というときに書き手も 換えずにテーマを女性にしたことが大きいですね。 手元に『平凡パンチ大橋歩表紙集』があります。最初の頃は、まさにみゆき族を描いたファッション画だったのが途中から宇野亜喜良風のテイストが混じってきます。 同時期の雑誌「話の特集」が横尾忠則、和田誠の手になる表紙が、紙面のアイデンティティを混乱させ、読者に受け入れられることに失敗したのかなと思います。 >あの当時「みゆき族」なるものがいた、今の「みゆき通り」のあの界隈でしたか? 彼女らがあの大きなズタ袋?あれを提げながら小脇に「平凡パンチ」を挟んで・・・ 雑誌と言うものが彼ら、彼女のお洒落の一部であったこと・・・ 1964年当時、わたしはまだ11歳。しかし大橋歩さんはファッションを目指して、ことにメンズファッションのスタイル画を書きたくて、当初はメンズクラブに持ち込み、その絵が清水達夫さんの目にとまって‘61から’71まで表紙絵を描く機会を得たのだといいます。 >今思えば大橋歩さんのイラストと自分を重ねたのでしょうか・・・ カッコよさのひな形としてみゆき族があった。何をするわけでもない。服を着てふさわしい場にでる。まさに日本の服飾文化の限界を象徴しています。ライフスタイルがあって服飾があるという順序が、服飾でライフスタイルをけん引しようとしたのが昭和のファッションビジネスなのではないでしょうか。 ありがとうございます。おかげで自分より前の世代に何があったのか、いままで懸案だったことがわかりました。その流れは自分も汲んでいるという当然の認識なのですが。 父に世代にあった少年倶楽部のアンソロジー本が我が家にありました。その後この雑誌がどうなったかわからなくて、それは漫画本の少年クラブ(十字に縛られた)につながっていたことが確かめられてうれしかったです。 最期になりましたが、今年もよろしくご指導願います。
補足
>B4サイズの画像をH1050W750くらいにそのまま模写出来る機械? 画像データならオフィス付属のパワーポイントなどでJPEG保存して お近くのDPEショップにデータをUSBメモリーで持ち込めば 指定のサイズで(H1050W750くらいに)出力してくれるそうです。 建築設計事務所なら「XYプロッター」というA0版まで出力できるプリンターの 元締めみたいなやつがありますが 同様のものがDPEのショップにあるか(ある場所にデータを送って出力代行してくれます) 料金は1枚1万円以上はしそうですが、プリントショップにお尋ねになれば教えてくれると おもいます。 ・・・とこれは、拡大複写の話です。 模写となるとアナログでしょうか。例えば小さい原画を壁画にするには写真版をとって プロジェクターで描く壁面に投影し、直接下描きを描き続けて上塗りをする。 その際上塗りの段階で先ほどの拡大複写を脇において見本にする。 小さいものを大きく模写するときは、当然細部の書き込みがことなりますから、お手本の 画像は高精細であることが求められます。ご注意ください。 取り急ぎご回答のみ またのちほど。
FMレコパル FM番組見て,2トラ38でエャチエックしました。 ジャズ全盛期でした。 家にあった主婦の友。 木暮実千代さん・花柳小菊さん・高峰秀子さんなど見て綺麗な人だなとファンになり 映画館に通いました。 主婦の友は,復活のニュ-スがありました。
お礼
FMレコパルは 1974年創刊ですよね。177d0037さんはたしか、戦中派であられたと記憶しています。これはもう20歳前後の思い出だと拝察いたします。 1974年、私はまだ東北の地方都市で貧乏学生でした。その後1977年に上京して吉祥寺や渋谷道玄坂のJAZZ喫茶、サムタイムや音楽館やミンガスに行き、感激したことを思い出します。 >FM番組見て,2トラ38でエャチエックしました。 >ジャズ全盛期でした。 1977年に東京の某大企業にもぐりこんだ私は、初給料をもらうと同期のKと秋葉原に直行。悩みに悩んで買ったパナソニックのシステムコンポ。 36回月賦のシスコン代金と毎月買うジャズのLP。キースジャレットのケルンコンサートもこの頃の新譜でした。カネが足らずにテープデッキはあきらめましたが、買っておいたほうがエアチェックでもっと音源が増えたでしょう。 ジャズにも憧れてましたが、それよりオーディオのある生活というのに憧れていました。しかし、当時の社員寮はまだ二人部屋で、私の同期がクラッシックファン。私はモダンジャズ。結局高性能スピーカーなど無意味な買い物でした。 >家にあった主婦の友。 >木暮実千代さん・花柳小菊さん・高峰秀子さんなど見て綺麗な人だなとファンになり >映画館に通いました。 淡々と語られますが、戦争でお父様をなくされご苦労されたご様子が浮かんできます。 私は酔いどれ天使に娘役で出ていた久我美子が好きでした。 >主婦の友は,復活のニュ-スがありました。 1917年創刊なんですね。創刊100年記念事業の復活。すてきですね。 しみじみと味わい深いご回答ありがとうございました。
- mota_miho
- ベストアンサー率16% (396/2453)
「ガロ」。 → 「カムイ伝」が有名だが、個性的な漫画家の作品も多かった。水木しげるの「墓場の鬼太郎」も連載されていた記憶がある。 「話の特集」。 → 初期のころだったか、横尾忠則の絵やイラストが毎号載っていた。そのころの横井のセンスは独創的で素晴らしかった(後の彼の絵は、頭で考えて描かれた作品になっていった印象)。 「ビックリハウス」。 → 「ビックラゲーション」、「ヘンタイよいこ新聞」、等々、ユニークな連載が満載だった。
お礼
mota_mihoさん こんにちは さすが、子供時代からいい趣味されてましたね。>ガロ 私は、近所の床屋で待ち時間にガロがあってカムイ伝を読むのが楽しみでした。 たしかに墓場の鬼太郎はありましたよ。床屋には貸本屋の本がたくさんおいてあって さいとうたかを作品はそこで知りました。横山まさみちも憶えています。変なトレンチコート着て拳銃ばかり撃ってました。 ガロってしばらくみないうちにえらいことになっていたのですね。 出来の悪い息子があとをついで店を潰しちゃうパターン。南君の恋人みたいな作品でくいつないだりグロでナンセンスな猫漫画出したり。 長井さんが大変にリベラルな思想を持っていてその力が白戸を引き付けたというのはわかりますが、リベラリストは部下の育成も後継者を育てる力もなかったし、MSやWKなどの番頭格に力も運も才覚もなかったということでしょうか。 といってもガロは、おっしゃるように白戸三平、水木しげる、つげ義春がすごいのであってあとはゲテモノ三流漫画しか残らなかった。 私はてっきり辰巳ヨシヒロはガロに描いていた人かと思っていました。貸本屋系列から才能で世に出た人なんですね。 「話の特集」 思いだいました。矢崎泰久。 https://www.google.co.jp/search?tbm=isch&hl=ja&q=%E8%A9%B1%E3%81%AE%E7%89%B9%E9%9B%86&gws_rd=ssl#imgdii=_ このページから各ブログをたどると矢崎ワールドが楽しめます。残念ながらwikiに長文の記事はないです。矢崎さんの本が当時の苦労話が読める唯一の記録。注文したいけどまだ未読の書籍が机に山積み。かみさんがうるさいのでまたにします。 この雑誌最初は売れなくて苦労したみたいです。借金の証文がヤー様にわたって埠頭の倉庫につれていかれて監禁されたという矢崎さんの体験談もでてきます。でもやりたいことやって会社潰した男の爽やかさみたいのものも感じます。 やっぱり平凡パンチと話の特集は志向性や執筆者が被っていたのでしょうか。まんだらけで古本売ってますからいつか手にとって検証してみたいですが。その瞬間に1965年にタイムスリップしたりしそうです。 矢崎泰久さん、今思えば内輪の趣味のサークルで固まるような傾向があるのではないでしょうか。それと平凡出版との資金力の差。あとは平凡パンチの清水達夫さんはもと広告代理店。やっぱり告知の重要性、お金の掛け方がわかっていたのかもしれません。 パルコ出版・・・これはアクロスとかマーケティング雑誌を出していました。 http://www.web-across.com/observe/ こういうのを誌面でやってました。 後に下流社会の著作で名を馳せる三浦展は入社4年目の1986年に「アクロス」編集長 ここでバブル期の流れを第四山の手と呼んで注目を集めます。かれは三菱総研に移りその後独立。ビックリハウスは昭和50年代のお洒落な雑誌。 サブカルはキッチュでもいいけどお洒落にやるべしという見本のような雑誌だったと記憶しています。糸井重里とか執筆陣も品がよかったです。 さて、mota_mihoさん。私の正月の思い付きの質問をここまで深く掘り下げていただき深く感謝いたします。#17のスイングジャーナル♪も。
- isoken
- ベストアンサー率32% (596/1825)
ex さん、こんにちは。 新年早々インフルエンザでトホホ状態、熱こそ下がりましたが、今週いっぱい出勤自粛で暇を持て余しております。 >忘れえぬ昭和の雑誌とあなたの思い出 さて中学生の頃はアイドルに夢中でしたから、 「 平凡 」 と 「 明星 」 は必読書、おまけに付録の歌本を舐めるように見てましたから、1970年代初期~中期の歌謡曲は今でもそらで歌えちゃいます。 中でも桜田淳子は別格中の別格で最愛のアイドル、新宿厚生年金会館や NHK ホールでのコンサートには何回行ったか分からないほどですが、先年サン・ミュージック相澤会長の告別式に現れた彼女を見て、我が目を疑いました。 トドを思わせる豊満体型とそれはもう立派な二重顎、あのような形での残念な引退でしたから、永遠にメディアの前には現われて欲しくなかったというのが、元熱狂的ファンとしての率直な感想なのですが・・。 一方「 平凡パンチ 」 「 プレーボーイ 」 も当然欠かせませんでしたが、その内もっと過激な 「 GORO 」 なんてのが出て来ちゃって、特に篠山紀信大先生の 「 激写 」 には随分と御世話になったものです。 ところで数年前の事、これは以前に何方かへの回答でも書かせてもらったので既に ex さんのお目を汚しているかも知れませんが、成田から海外へと飛ぶ際には、空港周辺で最安値 ( ¥500 / day ) の有人パーキングへ車を放り込んで行くのがいつものパターン。 その時は嫁さんとバンコクへ行った帰りでしたが、パーキングよりの迎えのバスを待っていた折偶然一緒になったのが、かつて 「 GORO 」 の巻頭グラビアでぴちぴちのボディーを晒していた水沢アキさん。 御存じの通り若い頃の彼女は、コケティッシュなお顔とグラマラスな肢体でとっても魅力的、私としても度々おかずにさせてもらった記憶がありますが、こう言っては悪いが目の前の化粧気がない彼女は疲れ果てたただの老婆、何だかな~、そんな感じでしたねぇ。 次いで 「 ロードショー 」 と 「 スクリーン 」 、別段洋画に興味があった訳じゃなくて、パツキン女優のヌードが目当てという不純な動機でこれは立ち読み専門、何せ高かったですから・・。 そういえば 「 映画の友 」 なんて雑誌もありましたが、こちらは日活ロマン・ポルノなんかも掲載されていたほぼエロ本、お袋に見つからないように大事に隠していた記憶があります。 遥か後年就職してゴルフに夢中になると、 「 ゴルフ・ダイジェスト 」 「 アサヒ・ゴルフ 」 「 パー・ゴルフ 」 を毎週3冊、ところがやたらと知識を詰め込んだ反動で理論のみが身に付いてしまい、以後苦労する事となり未だにヘッポコ・ゴルファーから抜け出ておりませんが。 以上、だらだらと挙げてしまい失礼しました。
お礼
isokenさん 本年もよろしくお願いいたします。 >1970年代初期~中期の歌謡曲は今でもそらで歌えちゃいます。 すごいですね。私は 1971年 17歳 南沙織 1974年 ひと夏の経験 山口百恵 1975年 卒業写真 荒井由美 1976年 ペッパー警部 ピンクレディー あの日に帰りたい 荒井由美 くらいですかね。歌詞見なくても歌えそうなのは >中でも桜田淳子は別格中の別格で最愛のアイドル、新宿厚生年金会館や NHK ホールでのコンサートには何回行ったか分からないほどですが、 いいですね。東京の子は。そうですか。桜田淳子ちゃんはちょっと暗い歌のほうが 私は好きでした。中島みゆきが楽曲提供した 「しあわせ芝居」 ”恋人がいます 恋人がいます 心のページに綴りたい だけど綴れないわけがある♪” 少し鼻にかかったセクシーな声が胸を打ちます (タンゴのリズムで) ”私、みんな気付いてしまった 幸せ芝居の舞台裏 電話してるのは私だけ あの人から来ることはない” 名曲ですよね。 黄色いリボン の歌詞も阿久悠作詞ですが、今読むと驚くほどに 可憐な詞ですね。 ”このリボン見えるでしょう ラブサインなの待っててね” >先年サン・ミュージック相澤会長の告別式に現れた彼女を見て、我が目を疑いました。 トドを思わせる豊満体型とそれはもう立派な二重顎 そのお話に比べると、私の青春のアイドルは比較的保全状態は良好です。 関根惠子さんは高橋伴明さんの奥さまになられあいかわらずキレイですし、キャンディーズの蘭ちゃんは水谷さんの奥さまで仲がよさそうだし、私と一つ違いの秋吉久美子さん。 5年前にお惣菜屋さん主催のパーティでお会いしてお話をさせていただいた時全然かわらない容姿に感動しました。 >もっと過激な 「 GORO 」 なんてのが出て来ちゃって、 そうですね。あれは下宿の部屋においておくと麻雀しにきた友達が帰りにもっていったりして。文句いうと 「どうせ何回も読むもんじゃないだろ」 「そりゃそうだけど」 「 GORO 」 の巻頭グラビアでぴちぴちのボディーを晒していた水沢アキさん。 https://media.image.infoseek.co.jp/socialnews/img/article/239662.jpg 私の大好きな秋吉久美子さんと同い年ですよね。確か。還暦過ぎても化粧して皺伸ばしてアンチエイジングの限りを尽くして綺麗でいてほしいですね。 >「 ロードショー 」 と 「 スクリーン 」 、 以前も書いた気もしますが、ナタリー・ウッド >日活ロマン・ポルノなんかも掲載されていたほぼエロ本 私も憶えています。日本映画は日活ロマンポルノの前の武智鉄二の「黒い雪」「白日夢」とか映画本の解説を熟読していました。田中真理「白い指の戯れ」とかなんのことはないスリの集団の映画ですが >「 ゴルフ・ダイジェスト 」 「 アサヒ・ゴルフ 」 「 パー・ゴルフ 」 このあたりは、係長時代(1983~)本社の幹部連れて全国の視察をやる太鼓持ちの役目でいち早く新幹線の駅でこの3冊ほか週刊誌を買って渡したらオッサン連中がうれしそうにしていました。 ゴルフ雑誌は朝日ジャーナルと同じく買ってもよまない横綱でした。 >以上、だらだらと挙げてしまい失礼しました。 いえいえ楽しかったです。いくら書いても最後は女の子の話になっちゃうのが楽しい。 ところでルフトハンザの彼女大事になさってください。 もとい、インフルエンザのお体大事になさってください。 そうそう平凡パンチのシンボルマークにもなったアウルさんがよろしくとおっしゃってました。 病床からお返事厚く御礼申し上げます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
その時期の雑誌でよく読んでいたのは、1971年から 10年ほど発行された、工作舎の「遊」ですね。 哲学と芸術、天文学や物理学をクロスオーバーした、 特異内容は、ちょっとオカルトがかってましたが、 発想を広げるインスピレーションに充ちてました。 編集長の松岡正剛さんは、その後独立されて文化人と してご活躍されています。
お礼
psytexさん ほんとうにいい雑誌をご紹介くださいました。 しばし沈黙してそれから現実にひきもどされました。 ネットで調べていて笑ってしまったのは「工作舎は秘密結社っぽかった」という発言がでてきて、同じことを思ったひとがいるんだなとw こんなにペダンチックで難解で読みづらく、ビジュアルに凝った雑誌は、必ず裏に主教団体かフリーメーソンがついているにちがいないと思っていました。 松岡正剛さんは電通と組んだCIプロデューサーの中西さんが連れてきてNTTの企業博物館の企画をやったあたりではすっかりメジャーになりましたよね。その後も付き合う人も浜野安宏さんとかやわらかくなって最近の千夜千冊の「長倉節さん」について書いてものなんかよむとすごく面白いし読みやすい。かおつきもふくめていいオジサンになりましたね。昔から尊敬しています。 この人がいなければ浅田彰も知らなかったし、ジャック・デリダもミッシェル・フーコーの本も買わないで済んだ。(読んでません。何度読んでも眠くなるw)ただ、当時建築デザインやっていて「脱構築」とか言われて「え?」とか聞き返したらそれだけで土俵の外にポイって雰囲気でした。遊は捨てたけど、『言葉と物』は本棚の仕切で今も活躍しています。 平凡パンチの清水さんが「生涯一編集者」を標榜したように知の鉄人正岡正剛も生涯一編集者をモットーにされていますね。千夜千冊は今後も続く一生の労作だと思います。 松岡正剛にオカルト色を感じるとしたら横尾忠則が一時期心酔した精神世界の影響だろうと想像します。70年代のカウンターカルチャーの時代、ドラッグやらずに本を読んでトリップしていました。 失恋した勢いで小室等の「比叡下ろし」を一晩で作詞作曲しちゃうなど聞いただけでその人を大好きになりそうなエピソードがいくらでも出てくる人。一言でいえばカッコイイ。人も本も。 年齢は自分と10歳も違わない。量子力学を読み漁り精神世界にはまった(おそらく)時期も共通しているけど彼我の差は地球と土星以上の距離がありそうです。 思い出だけでなく人を勇気づけるのが編集者ですね。松岡正剛。長い道のりの道路標識のように「遊」の一文字で「大丈夫。キミも結構カッコイイぞ」と励ましてくれるようです。 オシャレで高踏的な昭和を思い出させてくださり、ありがとうございました。発想を広げるインスピレーションにつながりました。
- localtombi
- ベストアンサー率24% (2911/11790)
中学生の頃に夢中になったのは「ラジオの製作」という雑誌です。 当時はトランジスタや抵抗、コンデンサーなどの部品を半田でくっつけて、ラジオとかチューナーとかを作る回路図が必ず載っていたので、それを持ってアキバのラジオセンターに通ったものです。 中学の夏休み課題では、その回路図で「電子サイコロ」を作りました。 サイコロ型に組んだ発光ダイオードがピカピカ流れて、ボタンを押すと1~6のいずれかの数字を表すものです。 やがて、トランジスタや抵抗などは集積回路(IC)になりましたから、1個1個半田でつけて・・・みたいなことは、いまでは考えられないでしょうね。 大学~社会人で毎回読んでいたのは「ダカーポ」です。 堅い記事から柔らかい記事までコンパクトにまとめられて、1冊読めば一通り世の中の出来事が分かるような感じでした。 サイズもコンパクトで、手軽に読めてよかったですね。
お礼
localtombiさんこんばんは 中学時代にこのような高度なことをされていたのですね。 パソコン雑誌の次にラジオ・無線の雑誌が来るなんてタイムリーなご配慮ありがとうございます。というか同じ時間に回答くださってます。ググってわかったことですが「マイコンBASICマガジン」は「ラジオの製作」の別冊付録が発祥なのだと書かれていて二度びっくり。 雑誌のなかで、釣り雑誌、自動車雑誌とならんでエレクトロニクスの雑誌は崇高で神秘的な世界でした。仕方ないので隣に並んでいるオーディオ雑誌を眺めていました。 はじめてゲルマニウムラジオなるものを組み立てたとき、http://www.zea.jp/audio/ge3/ge3_01.htm こんな簡単なしくみで「放送が聴ける」ことが不思議でたまりませんでした。こんなものhttp://www.shamtecdenshi.jp/make_radio/germa_radio/germanium_radio_finished.jpg がラジオになるなら、カボチャと糸巻と綿棒でなぜダメなんだろうと思いました。この世界は「一つのことを受け入れるとその先果てしないファンタジーの時空が広がる」ということを感じました。私の場合最初の扉が「オームの法則」だったと思います。 ラジオの制作という雑誌がすごいのは「だれでもできる」と誌名に冠したことで、創刊の昭和30年当時部品をあつめてきて作れば安く手にいれられるということを広めようという趣旨から創刊された。きわめて民主主義、大衆支援の雑誌だったのですね。これは、平凡パンチで奈良林祥が「童貞君クリトリスというものはチンチンが退化したものなんだ」と教え、くろすとしゆきが「おしゃれなんてIVYのルールに従えばだれでも簡単」と啓蒙したのに似ています。 マーケティングなどというレベルでなく自分が知っていることを人に教えたいという啓蒙の衝動が雑誌を支えていたような気がします。 そうですね。ダカーポは、平凡パンチと同じマガジンハウスの発行で、1981年の創刊趣旨はまるでインターネットのポータルサイトを予見するような、「現代そのものが圧縮されているリトルマガジン」だったですね。 電子サイコロってプログラミングと発行ダイオードの組み合わせじゃないですか。こういうものを中学生で作っちゃうってのがすごすぎます。 http://www.zea.jp/audio/dice/dice_01.htm 昭和の時代、雑誌の情報は全国くまなくいきわたってもモノやヒトは東京に偏在していて、都会の子はこんなことしていたんだと驚くのも昭和の一面ですね。 ラジオからパソコン、ゲーム、美少女、AKBという秋葉原の歴史と昭和の経済成長の源泉をうかがわせる大人のご回答ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
そうですね…私的には『マイコンBASICマガジン』通称ベーマガですね 高校に入学した際、入学祝としてシャープのX-1と言うパソコンを買って貰いました その際に情報収集及び、パソコンの勉強の為に買い始めたのがベーマガです 思えば、初めて買った月刊誌でした そしてベーマガに投稿されたプログラムをひたすら打ち込んでは遊んでいました 今なら付属でCD-ROMが付くとか、サイトでダウンロードだとかですが 当時は全て手入力でしたね 後に、X-1のオプションで、FM音源ボードが出た際 MMLをBASICで制御出来るプログラムが投稿されており 何日も掛けて、ひたすら打ち込んでいたのは懐かしい思い出です (16進数の羅列は思いっきり萎えます) そんなベーマガも時代の波に呑まれ遂には廃刊となってしまいましたが 私の青春時代(ド死語)を代表する雑誌でした 他に挙げるとすれば ・テクノポリス ・ポプコム ・Beep ・I/O ・Oh!X ・コンプティーク ・ASCII ・LOGIN てな、所でしょうか(今も生き残っているのは数冊ありますが…)
お礼
そうなんですね。まだウィンドウズ95どころかMS DOS ベーシックなんて世界ですけど 1980年代はコンピュータとゲームソフトの黎明期 それを支えた雑誌の数々を忘れてはいけませんね。 お待ちしていました。 80年代はコンピュータ黎明期ですよね。 私の時代は70年代後半に大学の汎用コンピュータにカードでデータを読み込ませ今ならパソコンか気の利いた関数電卓でできる「多変量解析」をやってました。指導教官の論文の手伝いにすぎないのですが。以来フォートランだとかすっかり忘れてしまいましたが就職したあとも設計はコンピュータでやる時代になっていきました。 この時代、コンピュータをどう使うかをみんな考えていましたが、使える人がふえるより早くマシンが進化するのが早く、機械語のプログラミングなんてできる人はさらに便利なツールを使いできない人は人が作ってくれるもの買うという流れになって、ソフト自体も待てばよくなる、そのうちOSも格段に進化するとなっては指をくわえてまっているしかないのが門外漢の常でした。 ゲームというのは、当面コンピュータが行き着いた踊場みたいなもので、RPGやアクションゲームをしながら本当に仕事に役立つソフトが開発されるのを待っているようなところがありました。 しかし、パソコンの世界にポプコム(講談社)のように漫画やイラストを多用しはては三遊亭圓丈が執筆するなんてくだけた雑誌があったとは知りませんでした。90年代には日経BPから日経クリックなんてやわらかい雑誌もでていますが、それ以前に試行錯誤があったのですね。 https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9D%E3%83%97%E3%82%B3%E3%83%A0&es_sm=93&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=05GuVOOOH6e8mgWqkIAo&ved=0CCUQsAQ&biw=1168&bih=931 Beep ゲーム雑誌 I/O 自作派のためのコンピュータ技術情報誌 Oh!X この辺は読者に読解力が要求された コンプティーク 美少女キャラが表紙になるパソコン・ゲーム・美少女などを取り扱うメディアミックス雑誌。 ASCII これは私には敷居がたかい。 ログイン ASCII別冊でもこちらはパソコン誌パソコンゲーム誌 これらがことの発端が1980年代であったことが驚異的です。 昭和の最後の10年の貴重な雑誌シーンを教えていただきありがとうございます。
こんにちは(^-^) 子供の頃買っていた「月刊スヌーピー」と 「週刊マーガレット(少女漫画誌)」です。 岩館真理子さんという漫画家さんの大ファンで、 毎週の発売日が楽しみでした。
お礼
coffee-beanさん 本年もよろしくお願いいたします。 スヌーピーは単行本の世界だけと思っていたら月刊誌まであったとは知りませんでした。これビックコミックのゴルゴ13の増刊号みたいにすごくお買い得な感じがします。知りませんでした。 週刊マーガレットは私の従姉が愛読してました。記憶に残っているのは池田理代子さんのベルサイユのばら。美内すずえがなぜ「花とゆめ」でなく週刊マーガレットで連載しなかったのか私にわたりません。少年誌におけるマガジンとジャンプの違いみたいなものでしょうか。 岩舘真理子さん。こんなに多くの作品を残している人なのに一度も読んだことがありませんでした。知ってよかった。爽やかで深みがある。 61年も男をやってるとこういうやさしく美しい世界からめっきり縁遠くなっています。いつまでも終わらないガラスの仮面に見切りをつけて岩舘真理子の世界を探訪してみます。林真理子も小池真理子もファンですが岩舘真理子が一番好きになりそうな予感がします。 未知の昭和の抒情的世界をご紹介下さりありがとうございました。
お礼
お礼を有難うございます。 >中原淳一記念館は 前 河口湖に在ったのですが それもまたロマンチックなロケーションですね。 昨年生生誕100年でそごう美術館で開催された展覧会のポスター http://www.museum-cafe.com/special/9712.html 「イラストレーター、ファッションデザイナー、ヘア メイクアーティスト、スタイリスト、インテリアデザイナー、プロデューサー、人形作家、作詞家といった多彩な分野において天才的な才能を発揮し、いずれの分野でも現代へとつながる先駆的な役割を果たした」 こんな賛辞のつくアーチストは日本にそうそういないです。 堀内誠一とか長澤節くらいでしょうか。 http://dacapo.magazineworld.jp/culture/9106/ 私の中で中原さんを筆頭に昭和の偉大な3人と呼ぶことにします。 >その他 主婦の友 主婦と生活(この雑誌には投稿もしました。 送話の時代こ投稿する読者が誌面をつくっている部分がありましたね。読者が雑誌に励まされ 読者が編集者を励ますみたいな雰囲気のある雑誌の雰囲気が好きでした。 また、お話をきかさてください。ありがとうございました。とてもうれしかったです。
補足
最も昭和らしい中原淳一のそれいゆを教えていただいた purimuro-zuさんにBAを差し上げます。 明日 1月15日は 母の13回忌です ありがとうございました。