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昭和から平成に変わったときの思い出を聞かせてください。
昭和から平成に変わったときの思い出を聞かせてください。 諸事情により再登録したので改めて聞きます。 昭和から平成に変わろうとしていた時、皆さんにはどんな思い出がありましたか? 覚えている範囲で聞かせてください。
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 以前にも回答したような気がしますが同じ方なのでしょうか? 昭和63年12月中旬~平成元年5月中旬まで大きな手術をする過酷な入院生活をしていました。 病室にはテレビが無く、ラジオが頼りだったので長期間番組変更があり辛かったです。 手術をしたのが2月末で手術を待つ間も苦しかったので 不謹慎ながら『自分の方がどうにかなれば良い』状態でした。 あれから20年以上経った今、おかげで元気に過ごしています。 当時術後直ぐはガリガリに痩せて160cm40kgまで減りました。 お腹が出てきたのをきっかけに3年半ほど前からフィットネスクラブへ月の半分以上通って 今は、体脂肪率15%前後を維持しつつ筋トレの量も増やして160cm56kg(ウエストは72cm)です。 同年代の人間のと比べても良い体型になれました。 今となっては懐かしいけど当時は最低だった思い出です。
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- domaine-espoir
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こんにちは。 再度、アンケート式で回答します。 昭和から平成に切り替わるとき、入院していました。 そのとき、 死という事柄は、客観的に自分に移りませんでした。 自分には寄り掛からないものとおもっていました。 いつものモノが来たという感じで、ソレと同居していたような感じでした。 しかも自分の年齢が、死というものに対する意識をほとんど持っていませんでした。 去年、実際に死に直結しそうな出来事をもらって個人的には明確に判別できるのですが、 それはまた別の話なので、さておき。 いまおもうと、 あのとき自分の生死と重なり合うかもしれないという状況をもし察知していたら、 いったい自分は何をおもうのだろうと、たとえば別人として何を示唆できるだろうと思ってしまいました。 このときは自分がはじめて人前で意識的に涙を流して抱きついた葬儀のほぼ一年後でもあったので、 今後、そういった客観的な状況と自分の状況が重なったとき、どんな心境になるだろうとも思います。 結論としては、 この出来事は、個人的にとても漠然とした、けれど具体的な印象のある思い出になっています。 ここから、脳みその中の意識と無意識の境界線上にたたずんでいる幾つかの事柄が出てきました。 そうやってもらったことに、感謝です。
お礼
遅くありましたが、ありがとうございました。 またいつかそういう事態は起こりえますが、そのときに備えた心構えも必要かもしれないですね。
- domaine-espoir
- ベストアンサー率11% (202/1743)
こんにちは。 入院していました。 確か年末年始でしたね。 当時は年に度々、入院していました。 学校をまた休むことになった、よかった とか、 勉強はまた追いつくから大丈夫だ とか、 テレビではこの情報一色になるだろうな とかです。 時期はこのときかどうか自信がありませんが、 ちょうどこの年代の寒い時期に入院していたとき、 叔母がサンドウィッチを買ってきてくれたのですが、 当日は食べきれなかったので、 部屋に冷蔵庫もないので、 夜、窓の外にビニール袋に包んで吊るして翌朝食べようとしました。 翌日来訪した人(祖母?だったかな)に処分されました。 何かどこか、かなしかったですね、なぜか。 まあ・・・、こういう記憶がまだあるということは、それはそれで貴重です。
お礼
ありがとうございました。 以前当時入院されていた方から回答がありましたが、その方は昭和天皇より自分の命が気になっていて、昭和が終わるまで自分が生きているかどうかさえ保障できないような状態だったそうですが、そういう気持はなかったのでしょうか?
- tyagayu
- ベストアンサー率24% (488/1996)
恩赦を期待した。
お礼
ありがとうございました。 一般人にはめったに縁がないですけどね…
- Free20
- ベストアンサー率20% (25/123)
特に、これといった思い出はありません。 丁度、高校受験直前だったこともあり、最終的な志望校決定(願書提出)等で忙しかったからかな~。 なので、思い出と言ったら、受験準備ですね。
お礼
ありがとうございました。 天皇どころではなかったみたいですね。
- marumets
- ベストアンサー率42% (199/463)
当時、入社数年目で、一人暮らしでした。 自炊の設備は全くなかったのです。 どこの店も自粛ムードで、晩飯を食べるのに、車で1時間近く彷徨いました。 結局、マックしか開いていなくて、さびしい食事をしました。 帰りには、路面が凍結していて、危うく事故るところでした。
お礼
ありがとうございました。 その頃のマクドナルドは、さみしい食事というイメージだったのでしょうか…
一番印象に残っているのは NHKの教育テレビだけ普段通りの番組を放送してたこと。
お礼
ありがとうございました。 テレビ東京にも同じようなうわさがありますが…どうでしょうか?
その当時、いくつかのイベントに関わっていました。 前年の9月くらいから、天皇が亡くなったら、イベントがトブと言われており、1月9日に予定していたイベントが、本当にトンデしまい、有給休暇が突然1日増えました。 テレビでも、派手な番組が一斉に自粛されて、レンタルビデオ店に人が集まっていたような記憶があります。 ☆ ☆ ☆ 年号には特に興味が無かったのですが、その後、ある調査をしていたときに「平成」という年号を考えた人を信奉する団体に出くわし、その中途半端な露出の仕方に、日本らしいなー、という印象を持ちました。
お礼
ありがとうございました。 派手なものの自粛はトレンドでしたね。
- 大空 二千翔(@oozora2000)
- ベストアンサー率48% (296/616)
来るものが来たと思いました。 人は誰でも年を取ります。天皇陛下だろうと、隣のきれいなお姉ちゃんだろうと、自分の身内であろうと、そして自分自身も・・・人類に例外はありません。どんなに死と縁がなさそうな人にもいつかは、死が訪れます。 天皇制に対して批判的だったり無関心だったりする人も多い現代だと思いますが、やはり良くも悪くも、「天皇」という存在は、特に昭和以前の人間にとっては、まさに「日本国の象徴」以上のものであり、昭和天皇に対する思い入れは、時には家族に対して以上のものがあるでしょう。 それは、私の世代の何割かの男性が好きな女性に対して感じていた「美人はトイレに行かないのではないか?」という一見バカバカしい「思い込み」のようなものだったのかもしれません。「神聖にして侵すべからず」といわれた「天皇」や皇室の存在は、そう簡単にドライに否定する訳には参りません。 そういう訳で、私は、昭和天皇の容態が思わしくなくなった昭和62年頃から、いつも心から天皇陛下の容態に気を懸けていました。 その頃、私は結婚し、やがて子供が生まれ(長子は昭和、次子は平成生まれとなりました。)、仕事も忙しくなりました。 とうとうその日、昭和64年1月7日朝、家を出る時陛下が危篤状態と聞き、会社に着く頃には、周辺の会社が白黒の模様の幕を掲げており、「ああ、亡くなったのだな」と思いました。 偶々当時東京丸の内に勤めており、皇居が近かったので、皆でお悔やみの記帳に行ったのを覚えています。 昔だったら「不敬」と言われたと思いますが、当時勤務していたビルからは皇居を見下ろし、直後に引っ越したマンションからは直下を通行する天皇陛下の霊柩車を見下ろし、申し訳なかったと思います。
お礼
ありがとうございました。 どれだけ平均寿命が伸びようと高齢化が進もうと死は必ず来ますが、死を悼む気持は日本の象徴とあればさらに大きくなるようですね。
- nishikasai
- ベストアンサー率24% (1545/6342)
小渕さんがその頃官房長官(?)かなんかで元号を色紙に書いたのを開けました。 そのとき逆さになっていたら大変と思ったのか、まず自分で逆になっていないか覗き確かめてから開けました。 「新しい元号は平成で(ここでちょっと切った)あります」と言いました。 普通なら 「新しい元号は」ここで間を置いて 「平成!」ここでもう一度間を置いて 「であります」 となるところですが、小渕さんは前述のように文章を切りました。 (真面目な人で、飾らない人で、かっこつけない人なんだな)と思いました。その後総理になって(大丈夫かな)と思っていたら次々に法案を通し力がある総理だと思いました。
お礼
ありがとうございました。 余談ですが、小渕氏は元号発表役になっていなかったら総理にはなってなかったかもしれないという話があります。
- cucumber-y
- ベストアンサー率17% (1846/10420)
あ、たった1年違いで、この先永く『昭和入社の人』と呼ばれるぞ!! 同期で集まって対策会議・・・の名目で飲み会やった覚えがあります。 現在の会社に昭和63年入社です。(^^)v 予想は見事に当たってました。(笑)
お礼
ありがとうございました。 昭和入社はこれから誇りになるかもしれませんね。
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お礼
ありがとうございました。 体重40kgですか?そこまで体重が減ればつらかったでしょうね。 当方なんて、正直今体脂肪率15%もあるかどうかわからないんですよね(これより少ないとやせすぎ)