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宗教とは芸術ですか

上に同じ

みんなの回答

  • hikaricom
  • ベストアンサー率25% (195/772)
回答No.4

まず、言葉の定義を明確にしなくてはなりません。 例えば、 「人生は芸術と成り得るか?」 という表現です。 この表現は、言葉として成立しています。実際に、ごく稀に、その人の人生を芸術そのものであったという賛美を耳にしたりします。これは実際に、その人物への賞賛であり、真実でしょう。 宗教とは、多くの人が神様を崇拝する行為と思っているかも知れませんが、この定義は、不明瞭でしょう。実際に彼ら信者の方たちは、その教義、宗教の教えと人生とを沿うように、人生そのものを体系として学んでいるのです。ですから、神様を崇拝することが宗教という訳ではありません。人生とこの宇宙との調和を通し、心の平安を得ること、幸せを追求すること、それは、確かに哲学と呼ぶべき一つの学問なのです。そこで、先ほど、例に上げたように、宗教を通しての人の行いや生き方が芸術と呼べる領域が、確かにあると思います。芸術とは、ART・アートという単語の邦訳ですが、このアートとは、技術を意味します。高い領域での技術的行為がアートと呼ぶならば、知識、行動、人間性、その生きる知恵と技術とを用いるならば、人は崇高な領域で生きることは、可能ですし、人間として自らの理想を追求することは、とても人間として本質的だと思います。宗教が芸術たり得るか?という言葉は、適切ではないと思われます。なぜならば、宗教とは、言ってみれば他の学問同様に、ある答え、道と言った方が良いかもしれませんが、行くべき道を示す教科書、知恵の道具なのですから。その道具を用い、人生が芸術の域に到達する、と言うならば、それは、実際に有り得る現実です。 いかがですか? 考えることは大切です。 あなたは、何かをそのように追究されている、探究心はとてもピュアで貴いものだと思います。大事ですね。立派です。 言葉を知るということ。正しい意味、定義を得ること。学ぶことなの基本です。どうか、幾つかの辞書をいつも手元に置いて、いつも考えに詰まったり、疑問を感じたら辞書をまず引くようにしましょう。言葉の意味を学ぶことは、全ての学問の基礎ですから。 あなたの考える力や好奇心は、何よりも大切な宝です。分かりやすい物を選び、辞書という道具を使い、言葉の意味をたくさん理解するよう勉めるて下さい。

回答No.3

 こんばんは。  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。  ――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を アートマン(霊我)ともブッダター(仏性)ともあるいはプネウマ(神の霊)とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。仮りに表象し表現してみるのである。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら   ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと   して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも   なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった命題を得る。  この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。   《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》  という戒律としてまた道徳として 神の霊への信仰(つまり 非思考)に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられたからである。  利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。  あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。  ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?    (その中に 哲学もあれば科学もあり それらの中核はおそらく信仰であり中軸は自由意志による意志行為であり 信仰なる蝉のその抜け殻が シュウキョウである)。

  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.2

宗教とは信仰に培われた哲学です。

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.1

あなたや他の人を陥れたいわけではないのですが、馬鹿には分かりません。 宗教は教えであって真理でも知でもありません。ああだこうだと言っても馬鹿には分かりませんといいました。他人を馬鹿にしたいわけではありません。 ある程度の馬鹿は真理を感じ得ましょう。これが真理だなんて馬鹿のほほえましいことです。 でもましだとも言えましょう。 宗教が芸術だなんて馬鹿が考えることです。芸術を持ちえた人が宗教にのっとって行う。 宗教が芸術を興すのではなく、その人がもともと持っていたものなのです。 あなただけではなく馬鹿には分かりません。 あなただけではない馬鹿はそもそもこのような疑問を持つものです。馬鹿を自己に許しているからです。 私を責めてもしょうがない。

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