この解釈は間違っていますか?
先日、“人の道”さんに贈った文章の後に始まる「論」の私の解釈の可否、あるいは誤解の可能性の確認をしたいのです。
タイトルは「大圓鏡智」です。
観念態
一、法身の絶対的観念態
法身(ほっしん)一大観念態
吾人が現に寫象(しゃしょう)する處の世界の天体の星宿より、乃至山河大地動植物等に至る迄の森羅万象の相と顕われてをる物と、また一方に外界の万象を寫象する処の主観なる心との二面を為してをるが、客観界の一切万象は主観の心がなければ写像することが出来ぬ。客観と認むる物と、また吾人の主観の心とは、それが一大根元がなくてはならぬ。此の根元を法身の一大観念と云う。
法身自体は主観客観の相対的でなく、之を統一する処の絶対的観念態である。夫(それ)が世界の相対的の方面には物象心象の二現象と為るも、本質は同一観念態の相対的現象と云わざるべからず。故に此の一大観念も物心二象の本源なりと云うことを得。
吾人の主観なる心も客観なる物象も、本は同一法身の絶対観念態の分類現とす。故に此の物心二象の本質同一なりとの理を明かす為に四種の観を以てす。
今、華厳法界観の會色帰空観等の四観を物心即一観に転用せば、
(一)會色(物)帰心観
客観の万物の本質は心なのである。万象は主観の心に帰す。主観の心と客観の物象とは同一本質である。氷炭相容れざる如きもので無い。向こうに見ゆる山河大地等の物象は自己の観念が客観化して現じた相である。実は自己心の相を向うに見てをるのである。向こうの物夫れ自体は何であるかは、物の象と現れたのは自己の観念の相である。若し自己の心が無ければ、外界の相は如何なる象相なるかは認識することが出来ぬ。故にすべて客観の相なるものは必ず主観の心に帰すべきものである。【このあとに、色心不二観、物心無礙観、物心無寄観、と三つの項目で論じられています。】
私の受け止め方は、以下のようなものです。
(一)會色(物)帰心観に論ぜられていることは、いかにもこの世の世界は夢、幻なのだと行っているように思えます。また釈尊の「空」観をそのように捉えているような考えをしばしば見受けます。
でも、此処は客観の相は実在しないと言っているのではなく、あくまでもその実際の現象をとらえている心に現れている相は“主観”なのだ、その主観そのものを我々は実在と思っているのだと言っているのではないでしょうか。(上手く表現できないもどかしさがあります)
なぜって、実際にモノが在るからこそ、見たり触ったりする事が出来るわけですから。
☆ この世の事は総て夢、幻、なんかではないのだ!
よろしくお願いいたします。
お礼
ありがとうございました。 私も6は音楽が好きです。