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目には目を 歯には歯を
目には目を 歯には歯を 私はそう習いました。 私は 死刑はむしろ報復ではなく、自分のした責任を自分で取る、ということだと思います。 人を殺した以上は、自分の死を以て償う以外にはないと思いますね。 むしろ、酷い殺し方をした人は、同じように残虐な方法で殺されるべきだと思います。被害者が受けた痛みや恐怖に勝る罰はないでしょうし、日本の死刑執行方法では罰として軽すぎるくらいですよね?
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目には目を 歯には歯を、これはハムラビ法典のことを言われているのだと思いますが、この一文だけではなく全文を見て考えなくてはいけませんし、当時の慣習や宗教的な背景も考慮して解釈しなくてはならない、と考えます。 この一文、復讐を薦めるものではなく、過大な報復を禁ずること、復讐心を持って人を裁いてはならない、との解釈が多数あります。重すぎる刑を禁ずるためのもの、との解釈もあります。その考えに基づくなら、妥当と考えます。(私は死刑は望ましくないと考えていますが)
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- Nebu3
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>目には目を 歯には歯を 私はそう習いました。 肯定的な意味合いで学ばれたのですか? 仰ることの意味合いは理解しますが、普通日本では このフレーズは否定的に使ってきましたよ。 さてこの「ハンムラビ法典」はメソポタミアの地で ハンムラビ王が制定したものだけど、現代の僕たちが 捉えているのとは逆の発想でした。つまり彼の地の人々は 一族間の対立で被害を受けたら必ず復讐(しかも3倍返し) があり放っておくと際限なく復讐合戦が続いたそうです。 で、王は復讐を禁止し国家が裁くこと及び倍返しはダメ 被害を受けた分だけ加害者に罰を与えるというもの。現代に も通ずる合理的なもの。 そして、現代。政府(司法)が与える罰は復讐の手助けでは なくてあくまでも国家秩序の維持が目的です。それを許しちゃあ 国としてお終えだと裁くのです。 私見で言えば、日本が他の先進国とくらべた場合の気になる ことがあります。1つは性犯罪に対する罰の甘さ、長年この国を 治めてきたおっさんたちの「それくらいたいしたことじゃない」 の意識が透けて見えます。明治~昭和の発想では強姦罪は傷付け られた女性の人権を救済するためではなくてあくまで夫や父の 所有物=財産である妻や娘を侵害した罪なのです。そして、処女 強姦は傷物になって良い所に嫁にやれないから損害大と罪は重く 非処女強姦は罪が軽かった。往々にして女に非がありと無罪に。 改まったとは言え政治家のおっさんたちの頭の中は旧態依然。 さて、死刑について。前述した通り、刑罰は被害者にかわり復讐 してあげるものではない(近年少しだけ被害者感情が加味されてきた) 国家が見せしめのために(同様の犯罪抑制を狙って)実行されるもの。 なぜ、世界の先進国の多くは死刑をやめたのか?2・3の理屈が こねられるが間違って無実の人の命を奪わないようにである。どの 国も冤罪で死刑は度々おこした。もちろん、日本だって多々やった。 恐らくは誰も冤罪と思っていない人をも殺してしまっていると思う。 一人の無実の人を殺すのと極悪人を殺さないのとどちらを選ぶかが 問われている。 日本には大勢の死刑囚が刑を執行されないまま実質、終身刑になる。 もちろん、国民感情として厳罰の気持ちはあるけれどいつ死刑になるか わからない怯えのなかで何十年も独房に押し込められているのは相当な 罰だと思う。多数の死刑囚は反省し穏やかな性格になり突然の刑執行を 迎える、とても残酷に思える。 再び私見。輪姦事件で主犯が懲役数年、従犯が執行猶予、協力者は 罪にも問われない。 この国には「ハンムラビ法典」が必要だと思うこのごろ。
お礼
回答ありがとうございます。 議論と看做されると 削除される恐れがありますので、詳細なコメントは見送らせて頂きます。
- KappNets
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死刑の是非を議論する際のポイントは(世界的に)えん罪が多いことをどう考えるかですね。
お礼
回答ありがとうございます。 >死刑の是非を議論する際のポイントは(世界的に)えん罪が多いことをどう考えるかですね。 中国の場合は たとえ司法は冤罪に気付いても絶対に認めません。それに、中国では犯人が捕まらない方が大問題ですのでスケープゴートも時には必要です。死刑を維持するためには 国民の知る権利を犠牲にしても 中国に見習うべきでしょうね。
- okwavechiii
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うーん、難しい話ですね。。 もちろん私も被害者の家族だったり身内だったらそう思うと思います。 死刑云々の話とは少しずれますが、人付き合いでも『目には目を』の法則で私は、『やられたら同じことをやり返す』ようにしていましたが、最近少し違うのかな、と思います。やり返したところで、分からない人は分からないし、やり返して満足したことってあまりないです。向こうがしてきたことに10ダメージを受けたとして、同じことを仕返したところで向こうは10ダメージを受けるとは限らないです。私もこの件についてはまだ自分の中で納得いく答えが見つかっていないのではっきり、こうだ!といえませんが…
お礼
回答ありがとうございます。
- mrst48
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殺人の中でも 酷い殺し方をしたケースでも 全く同じものではないと思います。 事件の関係者、その背景等鑑み それぞれの事件での判決を出すものではないかと。 殺した側、殺された側の関係も 「酷い殺し方」だとしても 殺されて当たり前。とかの状況もすべて 考慮されるべきだと思います。 死刑のやり方は、これまでの執行から 考えれば、現状で良いと思います。 執行方法ではなく、死刑が執行された時点で その死刑囚への判決が終わると思うから。
- duraphat
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被害者遺族感情としては当然そうでしょうし、等価であるべきと思うでしょう。何の落ち度もない人の人権が不当に侵害され、殺人事件の場合には被害者は二度とこの世に戻ることが出来ぬというのに、何故その人権を不当に侵害した張本人である加害者が刑期を終えてのうのうと社会に戻って生活するのだと。加害者が幸せに暮らすのは許せない。残虐な殺戮を行った者にどんな情状酌量の余地があるのだと。何故無期なのだと。おっしゃるように目には目を、歯には歯を、というのは感情論としてはとてもよく分かります。 基本的には等価賠償であるべきと個人的には思いますが、人が人として法という一定のルールに従い人を処罰する上では、完全に等価賠償、目には目を、歯に歯を、というのは難しいとは思います。法は犯罪者にも基本的人権を認めていますから、やられたとおりの残虐な処刑は出来ません。もしそれが出来るとなれば法が法として成り立たなくなります。最高刑として死刑があり、その死刑方法は定められたものでなければならない、そういうことです。犯した罪に対する処罰として法の下での死刑があり、それは貴見のとおり報復ではなく、自分のした犯罪責任を自分で取る、ということに他なりません。 免罪の可能性等、死刑制度にいくつか問題点があるにしても、無期懲役の仮釈放中の再犯の可能性や遺族感情等を慮れば、最高刑としての死刑を否定、廃止を唱える輩達は偽善者としか思えませんし、正直意味が分かりません。また死刑執行方法は犯した犯罪によっては軽すぎるぐらいだというのは個人的には同じ気持ちです。
- nobugs
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>目には目を、歯には歯を、 >私はそう習いました。 質問者さんは、イスラム教徒のようですね。 残念ながら、にほんはイスラム法は採用していないので、 そうはなりません。
お礼
回答ありがとうございます。 でも、日本人 右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ みたいにキリスト教的な考えの人より 目には目を、歯には歯を の考えの方が多いと思うんです。日本人の多くは 命は命で償うという考えの人ばかりなので そもそも日本人自体 キリスト教とよりイスラム教徒に近いのかもしれませんね。
お礼
回答ありがとうございます。