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人の本性は善か悪か
授業で「性善説」と「性悪説」というのを習いました。 ◎「性善説」 孟子 人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ ◎「性悪説」 荀子 人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ これを聞いて私は、難しくて一概には言えないけど、 性悪説の方がしっくりくるなと思いました。 人は子供の頃は善悪の分別がつきませんし、 だからこそ残酷なことも平気で出来るわけですが、 成長とともにしっかりとした教育を受けて、分別のある大人に なるのかな?と思いました。 なので性悪説の方を支持するのですが、皆さんはどう思われますか?
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善も悪も人の都合で決めたものでしかないので、 そもそもの人そのものがどちらかなのか、ということは 論じても意味がないのではないかと思っています。 人は、結果としていいか悪いかは別として、 自分にいいと思ったことしかしないものです。 悪い結果を引き起こすとわかっていても、 それが悪い結果以上に価値のあることと 思い込んでいれば、してしまいます。 そういう自分、自分こそが人の本性だと思います。 個人的には、性愛説とでも言いたいところです。 いわゆる性愛とか愛とかではなくて、 自分が自分であると思っていること、 そう思い込んでいることが愛だ、という意味です。
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どう考えても「悪」でしょ。 人間が成長とともに善行を覚えるなら、あんな分厚い六法全書なんていらんわ。 人間は悪として生まれ、悪のまま死ぬ。
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回答ありがとうございます。 確かに、全ての人間が同じように善行を 学ぶなら、犯罪なんて起こらないと思います。 だからこその偽善なんでしょうね。 人は全て悪だけれど、善の真似事はできる。 …そう考えてしまうと、世の中の全てが偽善に 思えてしまいますが。
意地悪い人間は悪人です。 心優しい人間は善人です。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね、とてもわかりやすいです。 でも、悪を装った善人、善を装った悪人も いますから、見極めが難しいですね。 なにか判断できる決定的な共通点があれば いいのでしょうけど…。
- doorakanai
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どちらも違う。 そもそも善悪というのは、人間が社会を運営する上で 不都合な事を悪、好都合な事を善と決めたに過ぎない。 後天的に学習するものであり、 学習する機会がなければどちらにも転ばない。 儒教な中国だったか 親が飢えた時、子供は自分の身を親に与え食わせるのが美徳とされていたが 今の時代の日本では、こんなもの誰も善としないどころか すっげーカニバリズムとしか思わない。 善と悪は時代と国によっていくらでも変わる。 そんなものを生まれ持っては来ない。
お礼
回答ありがとうございます。 善悪の判断はとても難しいです。 おっしゃるとおり、時代や国、その人自身の思考で 簡単に変わってしまう。 生まれ持つものか、後天的に得ていくものなのか。 そもそも誰が善だ、悪だと判断するのか。 …結論を出すのは難しいですね。
- ice rub(@icerub)
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これは一生「悪」です 悪だから戦争が起こります それも知識ある大人が戦争のリーダーになります 善であったら、戦争など起こるはずがありません
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね、みんなが善人であったなら、 戦争なんて起こらなかったかもしれません。 何かしらの悪い心をもっているからこそ、 人のものを奪ったり壊したり平気で出来るんでしょうね。
- destroyer93
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何をもって「悪」とするかによって考え方が変わる気がします。 子供って本能のまま生きるから基本「わがまま」です。 でも集団生活をすることで「学び」ます。 やって良いこと、悪いこと。 それを学んで身を律せる人は「性善説」よりなんでしょう。 それを学ば無い人は「性悪説」よりだと感じます。 それで思うんですが、犬にも盲導犬や警察犬に向く 犬種や性格の差があるように、 人間も基本的な性能(個性)のようなものがあると思っています。 ただし人間の場合後天的な要素(しつけ等の教育)で どちらの方向(善悪)へも簡単に変わってしまう気がします。 性格は変えることができるか!? と同じぐらい、自分の持った性質はなかなか変わらないものだと思ってます。 気が短い、気が荒いなど、持って生まれた性質をそのまま 大人になっても保持し続ける人の方が多いのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、善悪もその人の個性として 捉えることもできそうです。 必ず全ての人が善であるわけでもないし、 悪であるわけでもない。 善として生まれても、後天的に悪になるかもしれないし、 その逆も有り得ますね。 でも、生まれ持ったものを「個性」とするなら、 たとえ逆の性質になろうとも根っこの部分は 変わらない。 …なんか、難しいですね。
そうですね、既に回答が出ていますが、ここはアンケートなので私も参加することに意議があるということで。 孟子さんの居たころは子供は多分慈しまれ、愛されて育てられたのだろうと思います。よき時代、子供は天使だとか思われていたのかもしれません。荀子さんの生きていたころは、反対に子供はなぜかしょうもないゴク潰しだと思われ、虐待されていたふしがあります。多分不幸な時代だったのでしょう。 善も悪もその時代の人間の恣意的な多数決で決まるものですから、それぞれどちらかが間違いだということは出来ません。おそらくその時代の賢人の仰ったことですから間違いではないと思いますよ、その時代としてはね。 >人は子供の頃は善悪の分別がつきませんし そういうことでしょう。子供は天真爛漫、まことに自分に正直に、素直に環境に対応する生き物です。まことに、残酷なこともずばっと言ったりします。その反対に、誰の心もとろかすような笑顔をみせることもします。そのような行為は悪、あるいは善という範疇にはありません。自身の感性に忠実な、いはばそれ以前の天然ぼけに由来するのでしょう。ですから、強いて言えば善でも悪でもないニュートラルな性中庸説とでも言えばいいかもしれません。 精一杯マジ回答しました。
お礼
回答ありがとうございます。 時代背景とかそういうものも考えると、 現代にまで反映して考えるのは違うのかもしれませんね。 時代や国によって、人の考え方も変わるでしょうし。 偉い人の言葉や考え方は、よく現代にも当てはめて 使われますが、若干の違和感を感じる時もありますもんね。
最近話題になった「半沢直樹」 その原作の「俺たちバブル入行組」、「俺たち花のバブル組」では半沢の流儀は性善説の方です。 私もこっちかなと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 性善説派の人はなんだか貴重ですね。 半沢直樹、私も見てましたよw どんな悪人にも善の心はあるということですね。 確かに、どんな汚いことをしていても、 全く1ミリもいい所のない人はいない気がします。 …人に対して少し希望が持てそうですね。
長谷川平蔵 曰く「人は悪いことをしながら良いことをし、良いことをしながら悪事を働く」
お礼
回答ありがとうございます。 なんだか深いですね。 善と悪、その矛盾こそが「人間らしさ」 なのかもしれません。 恥ずかしながら、長谷川平蔵さんを知らないので、 ちょっと調べてみます。
- gouzig
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そうですね。どちらでも同じではないですか。 私は両方いいし、どちらでもいいと思います。 例えば、子供が生まれます。それは初心ですね。お母さんのおっぱいが大好きです。可愛いです。 でも4歳くらいから自己主張が強くなっていきます。中学生になったらお母さんのいうことも聞かなくなりますね。 でも、それがお母さんから離れて強く生きていくための勉強なのですね。 それらを見ると、性善説か性悪説かどちらともとれますね。 別にどちらかに決めて生きていく必要はありませんね。 両方を考えながら生きていくのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 うーん、なんだか難しいです。 でも確かに、どちらかに決めつけることでは ないですよね。 善でも悪でも、どちらも持っているから 「人」なのかもしれません。
性悪説でしょ。 人は汚れてことぐらい、明らか。 支配欲や攻撃本能があるから、子供社会でも虫を殺したり、 いじめがある。 分別っていうと聞こえはいいけど、 要は自分を抑えてるだけ。 抑えるということは、悪の心があるということ。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね、私も同じ考えです。 誰だって悪い心はあると思います。 逆に、何もないなんて言う人はただの偽善かな、と。 子供の頃は思うがままに生きていましたが、 それでも子供同士の狭い社会の中でも、 抑えなきゃいけない部分は分かっていたように思います。 そうしなきゃ孤立してしまいますからね。 大人になってからはもっとです。 それを嫌だとか思うこともありますが、 でも全く抑えずには生きられないのも事実なんですよね。
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お礼
回答ありがとうございます。 >>人は、結果としていいか悪いかは別として、 自分にいいと思ったことしかしないものです。 悪い結果を引き起こすとわかっていても、 それが悪い結果以上に価値のあることと 思い込んでいれば、してしまいます。 なるほど、すごく納得です。 確かにそうですね。自分にとってはいいことでも 他人にとっては悪いことだ、とわかっているのに やってしまうことって結構ありますよね。 人そのものがどうのじゃなくて、人の行いや それに対する評価について善悪を考えるべきなのかも しれません。