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誰をパートナーにしますか?
(1)と(2)の人物がいると仮定します。 (1)「大樹」に寄りすがり、事なかれ主義者になる。つねに「結果オーライ」。 (2)自我、自尊心を重要視する。「自分らしさ」を熟知し、それをアピールする (1)と(2)の人物のうち、パートナーにしたいのは、どちらですか?
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- kamikazek
- ベストアンサー率11% (284/2372)
ぜったい どちらか。 でしたら・・「2」かな。 損が多いですが。 賭けが多いですが。 1と2が合わさり 理想的なのが、 なにものにも属せず、なおかつ絶対的な存在感のある人が理想ですね。
間違いました。恋愛ですよね。仕事かと。。 恋愛の相手では、(2)はちょっと大変な面があります。 (1)が楽です。 しかし、人の個性として、どっちがいいのかはお好み次第です。 相性でしょう。
お礼
たしかに、仕事ということであれば、(2)でなければ困りものです。 それにしても、「人の個性」もそうですが、相性ほど、難しいものはありません。勘合符よりも難しいのですから。
- yumi0215
- ベストアンサー率30% (1335/4411)
NO2です 感性や居心地の良さは交際していて作られたものではなく結果そうだった、でした。 多少のずれやなどはあっても話し合って修正出来るし、何かが発生してもそれを解決する手段が同じ方向だったので二人の間でトラブルということはほぼないじょうたいです。結婚25年ですが。 思うこと、考えることのタイミングが合いお互いの足りない部分を補い合える。二人でいることが何よりも幸せと思える。そんな人と出会えたということですね。楽しいことうれしいこと辛いこと悲しいことが共有できる相手であった。夫と一緒にいる自分が幸せだと思える。そんなところでしょうか。
お礼
あなたのコメントを拝見して思うことは、パートナーと出会うこと、そして、その関係を維持することそのものが、「奇跡」だということです。きっと、「奇跡」にめぐまれた人々がいる一方で、わたし自身のように、「奇跡」にめぐまれず、「奇跡」に頼らずに幸せを手にしなければならない人々も多くいると、おもいます。
- hirotan1879
- ベストアンサー率20% (512/2470)
日本に居るなら1のほうが有利で 其れが出来ないから海外に出ています、 するとこんどは 2でないとやって行けないので そればっかで今度は疲れます。 中庸を行くというか 臨機応変というか 一つ間違えたらいい加減(笑)とか言われて大変ですね、何処行っても人間は面倒くさい
補足
(2)の生き方のほうが、いろいろと楽なのかもしれませんよ。わたし自身の考えですが、(1)の生き方ほど、辛く、苦しいものはありません。なぜならば、つねに、他者の「まなざし」に苦しむことになりますから。
(2)です。 (2)は人一倍努力して仕事をするとおもいます。 (1)は、結局は何も始めませんし何も残しません。
お礼
なるほど。 とはいえ、実際の日本社会においては、何かと「言い訳」をつけて、(1)のほうに軍配をあげる人が多いこと多いこと。困ったものです。
- yumi0215
- ベストアンサー率30% (1335/4411)
どちらも嫌です。 (1)先を見据えられない人は不安が付きまといそう (2)一緒にいて疲れそう お互いが居心地がよく成長できる、感性が合いこの人とならどんな困難も乗り越えられると思える人ならどちらでもいいですがそこまで思えないならないですね、私には。 年を取り親の介護や相手の介護などが必要になった時、負担に思わず介護をすることが出来るか。失業して生活に困った時でもその人との生活を守るために頑張りぬけるのか。相手の実家と何かしらの問題が発生した時に自分の家庭を守るために頑張ってくれる人なのか。などこの人となら一生を共にしていかれると思える人ならいいと思いますよ。 私は義母の介護は大切な夫のお母さんだからと頑張れました。義姉の金銭トラブルも同じです。結婚相手として考えるならずっと先のことまで視野に入れて選ばれてみてはいかがでしょうか。
お礼
色々と考えさせられる内容だと思います。 「お互いが居心地がよく成長できる、感性が合い」という点については、何をすれば、居心地の良い関係になるのか、感性が合うのかとか、さまざまな疑問がわきます。
(1)堅実。 (2)自己中。 物は言いようですね。
補足
「物はいいよう」ではありますが、事なかれ主義者を「堅実」であると考えていることについては、どのようにお考えでしょうか? (さまざまな)リスクにおびえている、現代日本人のような印象を、わたしは受けます。
お礼
恋愛そのものが、人生のおける「究極のギャンブル」なのかもしれません。そのようなチャンスにめぐまれない、わたし自身にとっては、「ギャンブル」のリスクがない分、喜ぶべきなのか、あるいは、「ギャンブル」ができない不幸に泣くべきなのか・・・