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「打つのを見ました」と「打ったのを見ました」
- 清水さんがホームランを「打つ」のを見ました。これと同じような意味で、清水さんがホームランを「打った」のを見ました。
- この二つの表現はほぼ同じ意味を持ちますが、微妙なニュアンスの違いがあります。
- 日本語を勉強している外国人には結果の状態を示す「打った」の方が理解しやすいかもしれません。注意点としては、文脈や話者の意図によって使い分ける必要があることです。
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A.清水さんがホームランを「打つ」のを見ました : 「打つ」という行為を見た、という意味。 過去の出来事ではあるが、【打つという行為そのもの】に言及したかったので過去形にはなっていないのだと思います。 紛れも無く「打つ」という行為が遂行(実行)されるのを見ました、といったニュアンス。 B.清水さんがホームランを「打った」のを見ました : この「打った」は、過去の事実、あるいは、行為の完了、どちらにも取れると思います。 いずれにせよ、打つ行為そのものではなく、【過去にあった事実】あるいは【完了された事実】として伝えたいのでしょう。 「打った、まさにその瞬間を見ました」のように、完了表現と捉えるほうがメリハリの利いた表現になると思います。
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- TANUHACHI
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こんにちは、少しばかりお邪魔します。 Aの「清水さんがホームランを「打つ」のを見ました」とBの「清水さんがホームランを「打った」のを見ました」両方の文章の骨格が何であるかを主眼にして考えてみると理解し易いかもしれません。 この文章の主題が「(省略されている主語)が見ました」との部分であることに異論はないでしょう。では問題の「清水さんがホームランを打つ」と「清水さんがホームランを打った」の性質を考えると、それは「話題の提示」となります。ということは「何れでもかまわない、問題はない」と答えても格段に問題はないでしょう。 過去の試合で「清水さんがホームランを打った」ことも、たった今「清水さんがホームランを打った」ことも、本質的には「過去の事実」であり、「ホームランを打っている」こととは少し異なりもします。 なぜなら、打球が外野のフェンスを越えた時点でホームランと認定されるわけですから、最初からそれがホームランであるなどとは厳密な意味ではいえません。 こう言ってしまうと揚げ足取りの印象を持たれる可能性も多分にありますが、状況として「ホームラン」を説明するには、現在形では不自然となります。 とはいえ通常の言語感覚からすれば、ホームランを「打つ」も「打った」もニュアンスとしては同じでしょうね。 日本語には「完了形」を具体的な時間として説明する考え方はありませんから、英語の感覚で説明するには難点があります。
お礼
詳しく突っ込んだご回答、ありがとうございました。 参考にさせていただきます。
- bgm38489
- ベストアンサー率29% (633/2168)
「現場を見た」とは的確な表現ですね。Aの場合は、「清水さん」と「ホームランを打つ」は同等に扱われていますが、Bの場合は「ホームランを打った」ということが主体的に扱われています。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 なるほど、そのような観点からの比較もできるようですね。
- ayataichi
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以下の回答は、まったくの個人的な見解です。 ホームランを、 「打つのを見た」 「打ったのを見た」 普通に考えれば、ホームランだと判るのは「打った後」なのだから、「打ったのを見た」が正しい気がします。 ところが、「打つのを見た」 で違和感が無いのはなぜでしょう? 考えるに、「見た」という過去形表現が、その前の状況を全て統括しているからなのでは。 何かを「見た」のなら、見たものは現時点以前の「過去のもの」である、ということを、日本語を常用している我々は理解しているから、「打つのを見た」 でもおかしいと思わないのかなぁ。 「なるほど!」 と思える回答を期待しています。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 私見ですが「打つ」は瞬間的な行為なので、行為をしている場面を示す場合は「打った」も「打つ」も変わらない気がします。その点についてはどうなのでしょうか(私は妙な方向で考えているのでしょうか)。
- bgm38489
- ベストアンサー率29% (633/2168)
「打つのを見ました」は、まさに打ったその現場を目撃した、ということを強調したい時に用います。英語の現在・過去・完了形などとは違う意味合いで使われ、また、学校で明確に習うわけでもありませんがね。 「伺うことにいたします」は、現在、そう決めたということを表します。「伺うことにいたしました」は、過去にそう決めたということ。あるいは、「いたしました」は、「いたします」と同じ時点のことを表すこともありますが、やや控えめに言いたい時に用いたりします。 文法的というより、意味的に言えばこんなところですね。注意すべき点は、先ほども言いましたが、英語の時制表現とは異なるところです。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 すると「打ったのを見ました」は、「現場を見た」に対する強調の度合いが弱いということなのでしょうか(追加のコメントをしいただければ幸いです)。 「伺うことにいたします」と「伺うことにいたしました」については、ほぼその通りだという気がいたします。
お礼
ご回答、ありがとうございました。 なるほど、Bは行為の完了ともとれるのですね。その用法をすっかり忘れていましたので、その意味では目からうろこでした。いったん固定概念とか先入観にとらわれてしまうと、こんな単純なことまで気が付かなくなってしまうものなんですね。
補足
どうでも良さそうなことですが、お礼のコメントを間違えていましたのでこの欄を借りて訂正いたします。本当は以下のように書きたかったのです。 Bは行為の完了とも過去の事実ともとれるのですね。過去の事実の用法をすっかり忘れていましたので、その意味では目からうろこでした。