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権利と義務の掘り下げ
- 権利と義務の次元を掘り下げることはできないか?存在の奥底にある生きる権利とは何かについて考える。
- 人権とは、一人の人間として人生をおくる際に犯してはならない基本的な権利のこと。生まれながらに持つ普遍的な権利について。
- 基本的人権は個別的な権利の保障へと展開することが多い。この総称としての基本的人権の根拠や存在が存在であること自体の要請について考える。
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bragelonneさん、こんにちは、ユーチューブでクラッシックを聴きながら、読書しながら、この問題について思索していたら、回答できるくらいある程度まとまったので、回答を投稿します。 トマス・ホッブス(1588~1679) ジョン・ロック(1632~1704) ジャン・ジャック・ルソー(1712~1778) アダム・スミス(1723~1790) ショーペンハウアー(1788~1860) マルクス(1818~1883) 哲学は時代によって思想家たちが影響し合ってますから、年代順に並べました。 私はホップスやロックの本は読んだことがありません。 しかし、かなりヒットしたので多くの人の手にあると思いますが、「国家の品格」 藤原正彦著の68ぺージに簡単に著者の見解が述べられています。 「究極の自由とはホッブスが言った自然権です。「各人が自己生存のためになんでもする自由」のことです。しかし、この自然権を認めたら万人の万人に対する闘争が始まり、 無秩序と野蛮と混沌となる。これを万人が放棄してある機関に委託する。この機関こそが国家である。」 ロックは「他人の自由と権利を侵害しない限り自由」と言ったそうですが、藤原さんの見解は否定的です。 さて話しは飛びますが権利について憲法第25条について私の私見を述べます。 第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 これを考えるにあたり哲学のルソー、アダム・スミス・ショペンハウアーの意見を私は肯定します。 ジャン・ジャック・ルソー「人間の不平等の起源と根拠についての論文」より抜粋 「他の人々(プフェンドロフとロック)は自分の所有するものを保持するという、各人が持っている自然権について語ったが、所有するということを、どう解しているのかを説明しなかった。、また別の人々(ホッブズ)は、まず最強者に最弱者に対する権限を与え、すぐに権威とか政府という言葉が人間のあいだに存在できるようになる前に、経緯したに違いない時間を考えなかった。((結局、みんなたえず、欲求や貪欲や迫害や欲望や傲慢について語って、社会の中で得られた考えを自然状態へ持ち込み、野性の人について語っているにも関わらず、社会人を描いていたのであった。))」 と見解を述べ、この論文の中で、 「憐れみは自然の感情であることは確かで、各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している」 と見解を述べてます。 書くのが疲れますので省略いたしますが、アダム・スミスも「道徳感情論」の中で人間の本性は憐れみの心と述べています。 ショーペン・ハウアーは、ニーチェは否定しましたが、やはり同情(Mitleid)を自己の倫理学の基礎としでます。 私も人間の奥底には憐れみ(同情)の心が備わってと思ってます。自分が苦しい体験をしたら他人の苦しみもわかるものです。 ですから憲法25条は当然の権利として守らねばならない。 憲法を守るのは市民ではなく権力者(政治家)であると池上彰さんが、憲法についての番組で最近のべてました。 さて義務ですが、私は、マルクスの考えを取り入れ、労働の義務があると思います。 労働しない人はマルクスが使った「疎外」であり、人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何者であるかを規定し返す。生産関係の中で作り出したものを媒介して、人間はおのれの本質を見て取るというのがマルクスの考えのようですね。 生活保護やフリーターなどの非正規社員と正社員の格差社会の中でもう一度、マルクスを考え直しても良いのではないか? 日米安保闘争の経験をされた世代の方に回答をいただきたいです。 あー疲れた。今日の労働はおしまい(笑)。 bragelonneさんの見解もお聞かせください。
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まぁ、そういうことです。社会の要請から発生した概念だと思います。むかしは自由は領主である国王のもので、領民の自由なんてぇのは小さな範囲だったはずです。それが自由の範囲が広がって、自由のせめぎあいの中に埋もれてしまう不自由を何とかしなくてはという社会の要請が生まれたんだと思います。おとなしい人でも守られる一定の範囲が確保されるべきであるという考え方です。裁判を受ける権利、基礎的な教育を受ける権利、宗教を選べる権利、差別的な扱いを受けない権利、といったものです。基本的人権が「当然のようにある権利」と言っても、やはり自然に存在するという意味ではありません。普遍的であると言っても、それは「法に先立ってあるもの」としておかなければ、恣意的な法律によって容易く壊されてしまう恐れがあるからそう言っているまでのことです。
お礼
そうですね。まづは がぢぇっと0061さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 前回と同じようなお応えになるかと思います。 ☆☆(No.18お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 互いに自由のもとに 交通する。経済活動としても取り決めあう。これこれの労働条件において雇用契約をむすぶ。 被雇用者は その条件を満たすように仕事をする。雇用者は その働きに応じて条件どおりに報酬をあたえる。 ここには 権利と義務とがあります。確かにこの契約をめぐって《社会の判断もがはたらいている》のでしょうが そこでは ひとりの人間が社会生活の中で仕事をするといったおおむね自然に従うような考えと行動ともあると見られます。 その限りで 契約という行為も 何がしかは《自然に存在する》と言える部分もあるのではないでしょうか? その《根拠は 社会です》と言いますか 《根拠は 社会に生きる人間としてのその生活をめぐるもろもろの条件から要請されて来るところである》とも言えるのではないでしょうか。 もしそうだとしますと これを 権利と義務という言葉で捉えるその前に 何かもっと非人為的なつまり自然な表現はないものか? こういう問いです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち ★ 社会の要請から発生した概念だと思います。 ★ 基本的人権が「当然のようにある権利」と言っても、やはり自然に存在するという意味ではありません。 ☆ この結論には まだ納得が行かないでいます。 たとえばNo.21のお礼欄で 婚姻をめぐる権利と義務の問題を取り上げました。(軽く触れただけですが)。 つまり その場合の権利は ★ 普遍的であると言っても、それは「法に先立ってあるもの」としておかなければ、恣意的な法律によって容易く壊されてしまう恐れがあるからそう言っているまでのことです。 ☆ と言い切れましょうか? 権利と義務を法律で付与する以前に 互いに人生の連れ合いとなるという言わば自然的人間的な事実があると思われます。これは 《法に先立ってあるもの》ではないでしょうか? あるいは そのような人定法より前にあるということは 自然法の内容を成すこととして 人間の意志行為がある。ということだとも考えます。あるいは 人間法と言ってもよいかと。取り決めであり しかも或る種の仕方で人間存在に普遍的な交通のあり方だとそれぞれが心で思っている人間関係なのではないかと。 基本的人権が 昔は見るも無残な情況の中に置かれていたし それは認められていなかった。という場合 けれども 人間存在にかんしてなら そのような昔の社会においても 潜在的には人権が誰にもそなわると いまから見て通史的にみとめられるのではないでしょうか。 しかもその人権の潜在性より前に・と言いますかそのときの潜在力が 必ずしも《権利》として捉えるのではなく 人間どうしの自然の・ふつうに人間的な交通関係において持ち合わせている姿ではないか。 人権は 昔は法律にはみとめられていなかった。これと対照的なのは 姦淫という或る種のマジワリに関しての人びとの考え方です。 昔は 慣習法としてでも 罪でした。犯罪を構成していた時期もあります。 いまでは 法律の規定からははづされました。 そのゆえかどうか分かりませんが 不倫は文化だという命題もかかげられたようです。 ちょうど最近 婚外子に対する相続分が嫡子に対するものと差別されているのは 憲法違反であると・すなわち 人間のマジワリのあり方として マチガイであるという最高裁の判決が出されました。 つまり何が言いたいかと言えば 法律で権利と義務の体系としてうたっているのでなければ もうそれに先立つ生活上の事実は 何もないのか? 法律の条文がすべて 法律以前の生活の内容をも規定してしまうということなのか? です。 姦淫ないし不倫は 法律に違反するかしないかにはかかわらないと捉えられているのだと思いますが それでも先ほどの《婚姻をめぐる権利義務のあり方》がもしふつうに自然で人間的なかたちをも――法律には先立って――持つとすれば 明らかにそれは 《連れ合いへの裏切り行為》であると考えられます。 これは 人間どうしのマジワリ関係ないし倫理にかかわっているはずです。 言いかえると 婚外子は 裏切りという意志行為によって成った存在です。そのあたりをどう考えるのか。法律のくわしい問題は取り扱えませんが 法の哲学として基礎的な議論はおこなえるのではないかと考えます。 家庭をまもることと家庭をむしろ崩壊させることとが 婚外子を持った親には そのおのれ一人の心ないし意志に同居していることになります。 法律上の権利と義務の仕組みの以前に 人間の交通関係論として そのあり方が考えられてしかるべきだと思われます。
- kurinal
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>「カコカラノ タビビトヲ ヨンデル ミチ」 ヒットしましたか。
お礼
ヒットしました。いまも新鮮です。 ご回答をありがとうございます。
歌の歌詞に「権利」という言葉が出てくるのはごく稀です。どう考えたって権利という概念は自然に存在していません。社会的な概念です。社会が成立するには、最低3人必要です。貴方と私と、ジャッジできる第3者です。どちらの言い分が正しいかを第3者に判定してもらわなければなりません。多くの人が『そりゃそうだよね』と認めたものが権利です。自然には存在しません。 自由と自由のせめぎ合いなんですよ。弱肉強食で独占企業が出てきても、『自由なんだから、いいでしょ』とはならないのです。誰かの可能性を排除する状況(自由を奪う)に対しては“制限”が課せられます。 金八先生によると江戸時代には「愛」という言葉がなかった、だから愛もなかったそうです。では「自由」は。自由も権利の一種だけれども、「権利」はそれ以上のことも含んでいます。 権利は制限に対する容認です。社会の判断が働いていて、自然に存在するものじゃありません。根拠は社会です。
お礼
がぢぇっと0061さん あらためましてこんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 歌の歌詞に「権利」という言葉が出てくるのはごく稀です ☆ これは おもしろい観点ですね。盲点を突かれたような。 たしかにそうですよね。ですから ★ どう考えたって権利という概念は自然に存在していません。 ☆ つまり ★ 社会的な概念です。 そこで ★ 社会が成立するには、最低3人必要です。貴方と私と、ジャッジできる第3者です。どちらの言い分が正しいかを第3者に判定してもらわなければなりません。多くの人が『そりゃそうだよね』と認めたものが権利です。自然には存在しません。 ☆ ううん。そうかも知れないような。まだ そこで締めくくるのは 早いような。・・・ ★ 自由と自由のせめぎ合いなんですよ。弱肉強食で独占企業が出てきても、『自由なんだから、いいでしょ』とはならないのです。誰かの可能性を排除する状況(自由を奪う)に対しては“制限”が課せられます。 ☆ つまり 表現の自由には 答責性(責任)が伴なわれるということでしょうし 自由な意志行為にはその実際の履行が義務づけられる。こういった義務のことでしょうね 《制限》とは。 ★ 権利は制限に対する容認です。 ☆ つまり 制限としての義務は その履行されることを内容として相手側から見れば 《権利》だとなる。履行を請求する権利である。 ★ 社会の判断が働いていて、自然に存在するものじゃありません。根拠は社会です。 ☆ ん? ちょっと待ってください。 互いに自由のもとに 交通する。経済活動としても取り決めあう。これこれの労働条件において雇用契約をむすぶ。 被雇用者は その条件を満たすように仕事をする。雇用者は その働きに応じて条件どおりに報酬をあたえる。 ここには 権利と義務とがあります。確かにこの契約をめぐって《社会の判断もがはたらいている》のでしょうが そこでは ひとりの人間が社会生活の中で仕事をするといったおおむね自然に従うような考えと行動ともあると見られます。 その限りで 契約という行為も 何がしかは《自然に存在する》と言える部分もあるのではないでしょうか? その《根拠は 社会です》と言いますか 《根拠は 社会に生きる人間としてのその生活をめぐるもろもろの条件から要請されて来るところである》とも言えるのではないでしょうか。 もしそうだとしますと これを 権利と義務という言葉で捉えるその前に 何かもっと非人為的なつまり自然な表現はないものか? こういう問いです。
- kurinal
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bragelonne様、どうも。 >「ただ いまひとつよく分からないのは 《権利》は 権利としてうったえなければ もう何にもならないということなんですかねぇ。 言いかえると うったえなくても 権利以前の権利としてのように 何がしかの便宜だとかの待遇を受けるにあたいするというかたちは 残されているのか? こういった問題点になるのではないですかねぇ。」 「うったえ」・・・そうですね。 (裁判所に、という場合、「うったえ」と表現されます。) >「言いかえると うったえなくても 権利以前の権利としてのように 何がしかの便宜だとかの待遇を受けるにあたいするというかたちは 残されているのか? こういった問題点になるのではないですかねぇ。」 ・・・そうですね。まさに、基本的人権と、その「侵害不可能」という、ことと考えます。
お礼
くりなるさん 今回は 分かりません。タテマエを述べて済ませようとしていませんか? そうでないかも知れませんが そうだとしても よくつかめません。飲み込めないの前の段階で どういう答えなのかがつかめません。お手上げです。 ★ 裁判所 ☆ はまだ別として話をする余地がある段階だとも思っています。 基本的人権の 堂々めぐりになるかに思われます。 ご回答をありがとうございます。 ですが こういう状態です。 ★ 異邦人 ☆ ???
自由を得る代わりに責任を負います。義務とギブ・アンド・テイクで他者に権利を主張します。権利は制限によって成り立ちます。他者の作為の制限(殺人の制限など)、不作為の制限(生活保護など)です。制限の根拠は何か。それは“共感”だと思います。『わかるでしょ!、わかるよね、ウン。いちいち理屈を並べなくても。』という、人として共通して持っている感覚がその根拠だと思います。他者への制限を当然のことのように求めることができ、それを他者も認めるのは、ミラー・ニューロンによると言えます。
お礼
がぢぇっと0061さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 権利は制限によって成り立ちます。 ☆ というとき 制限とは 責任のような意味合いにもなるように受け取ったのですが その: ★ 制限の根拠は何か。それは“共感”だと思います。『わかるでしょ!、わかるよね、ウン。いちいち理屈を並べなくても。』という、人として共通して持っている感覚がその根拠だと思います。 ☆ というふうに見ておられるのですね。 《共感》をもう少し 持続的な内容にふくらませるなら おそらく《共同主観 つまりコモンセンスとして 同感》のことかと理解したのですが どうなんでしょう。つまり この共感ないし共同主観において 人びとのあいだに交通(まじわり)がおこなわれるときには 《権利と義務》といった概念装置がそなえられるというのは どういう事情やら根拠やらから来ているのか? こうなるとも思うのです。 つまり 共感のさらに基礎となる――権利と義務を仕組みとしてそなえることの――理屈ですよね。 ★ 他者への制限を当然のことのように求めることができ、それを他者も認めるのは、ミラー・ニューロンによると言えます。 ☆ といったふうに人びとのあいだでは まじわりにおけるさまざまな事柄を共有することが出来て 話をすすめることもできる。そこに権利と義務との仕組みもととのっている。 では その権利を交通(まじわり)の方式として取り出して来たのは どこからか? どういう事情において必要とされたのか?――この事情としては そうしなければ 世の中は弱肉強食が支配してしまうからだという回答がありました。つまり もし強い者勝ちの世の中において 思いやりを持って発揮した場合 これは それでは どこから来ているのか? 思いやりといったところでそういう心をめぐる問題は これもすべて 権利と義務の体系の中に組み込まれていて そこからしか出て来ないものなんだ。となるのか どうか? なんですけれどねぇ。
- kurinal
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(B様) >「ただただ自然淘汰だけの世の中にしないために考えだしたのだと見なければならない。 つまり 自然でふつうの生活というものは 実際上にはない。 そういう意味では 世界は《権利とその獲得競争》から成る。そこには 義務も取り決めあわれているので 弱者も生きて行けるのだ。 こんな感じでしょうか?」 ちょっと違う、と思うんですけどね。 ・・・じゃあ、ちょっと視点を変えると、 「それぞれ得意なことに特化すべし」 という、「古典経済学」?なことになるでしょう。 でもその「得意なこと」を(ことさら(笑))否定しなくてもいいです。
お礼
ていねいにお答えいただきありがとうございます。 ただ いまひとつよく分からないのは 《権利》は 権利としてうったえなければ もう何にもならないということなんですかねぇ。 言いかえると うったえなくても 権利以前の権利としてのように 何がしかの便宜だとかの待遇を受けるにあたいするというかたちは 残されているのか? こういった問題点になるのではないですかねぇ。
NO.11 です。拙答にまことに迅速なお礼を頂き、恐縮至極です。 >その思いやりから出た行動をすれば 人からよく見られる だから得である というような理屈と切っても切れない間柄なのでしょうか どうでしょうか? その通りではないか、と私は思っています。これは最近流行の構造主義にいかれてしまっている私の思いにぴったりの方向でもあります。真理などどこにもない。あるのは制度だけで、その制度に合わせてその時代の人間が作ってきたものだけなのだ、ということです。日本人が思いやりの深い民族なのも、それが日本ではぴったりの行動様式だったからそうなったのだ、ということでしょう。敬虔なブラジュロンヌ様にはみもふたもない考えだ、と思われるかもしれません。でも、昔は権利という言葉も義務という言葉も無かったのですから、古代人がそれについて考えることはまず無かったと思います。これも構造主義的な考え方かもしれません。目下私はこの考えから抜け出すことが出来ないで居ります。 ブラジュロンヌ様のブレークスルーを期待してこの項を終わります。
お礼
こまあす88さん 済みません。いま気づきました。このご投稿を見過ごしていました。(心に動揺があったからかな)。 ご回答をありがとうございます。 そうですね。 《現実》が 功利主義一辺倒だとは思いませんし 構造主義について 一方で関係の絶対性を言うところに共感しつつも 他方で《主体なき過程》というとき理性信仰ではないふつうの行為主体はあるという物言いを言い続けているのですが この話題は いまここでは措いておきまして 昔の人びとの思想について考えてみます。 ★ 昔は権利という言葉も義務という言葉も無かったのですから、古代人がそれについて考えることはまず無かったと思います。 ☆ 果たして そうか? その昔――と言っても 神話のお話ですが―― スサノヲは アマテラスらのタカマノハラを追われたどりついたイヅモの地でやっと すがすがしき心になりました。 治水事業に力をつくし 生活を安定させ少しづつゆたかになって行きました。 薬草の研究にも取り組んだのは 子孫のオホクニヌシです。 話を端折ります。 それなりの繁栄をきづきあげたイヅモの国を見て タカマノハラなる国のアマテラスらは 次のように思ったそうです。アシハラのミヅホの国が イヅモの国です。 ▼(古事記:アシハラの国の言向け) ~~~~~~~~~~ アマテラスオホミカミのみこと(命)もちて 豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国は 吾が御子・マサカツアカツ カチハヤヒアメノオシホミミのミコトの知らす(治める)国ぞ と言寄さしたまひて アマクダシ(天降し)たまひき。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり いまの言葉で言えば イヅモの国を統治する《権利》は おれ(わたし)たちにある。こう言っています。同じことだと思えるのです。 ちなみに ではどうしてアマテラスに 高天原(タカ〔ア〕マノハラ)の統治権があるのか? それは 父親のイザナキが命じたからです。 ▼ (古事記・上巻)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 〔イザナキのミコトいたくよろこびて〕・・・アマテラスオホミカミに賜ひて詔(の)らししく 汝がミコトは 高天の原を知らせ と 事寄さして賜ひき。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 特に何も理由を述べず 条件も無しで 命じているようです。 親の意向が ひとつの権利のみなもとなのでしょうか。 同じくちなみに スサノヲは 父のイザナキから《海原を知らせ》(たぶん 死者の国の司祭になれといった意味合いもあるとか)を命じられて これを怠りました。ヒゲが胸先に伸びるまでいっさい何もしなかったと言います。 このさまを見て 父イザナキは いったいどうしたんだ なぜ命じたことをおこなわないのかと詰っています。つまりここでは いまの言葉でスサノヲに《義務》が生じているということだと考えられるのではないでしょうか? かんたんな議論ですが 権利や義務なる制度もその言葉もなかった時代にも ほぼ同じ概念はあったと見られます。実際に機能していたと考えられます。 (親からの命令や遺言なら 権利義務が有効に生じるのか? ですとか あるいは そこは俺の土地だ 寄越せといった帝国主義の考え方が果たして有効に 権利義務を成り立たせるのか? などなどの疑問は いま触れません)。 ★ 日本人が思いやりの深い民族なのも、それが日本ではぴったりの行動様式だったからそうなったのだ、ということでしょう。 ☆ この場合の《ピッタリ》という意味には いろんな場合があるのではないでしょうか。 たとえば《くにゆづり》の物語では スサノヲ〔の子孫〕よ 弟のスサノヲらは姉のわたしアマテラスに従いなさい イヅモのくには わたしたちの物だ といった心つもりと宣言が 権利を成り立たせるのか? こういった疑問が起こります。 つまり物語の内容とは違った筋のことが むしろ《思いやり》の心から出て来ると考えることも出来ます。そのように・むしろ反対方向に《ピッタリ》だという場合もあり得ます。 《海原――もしくは根の国 または 黄泉の国――をおさめよ》と命じられたスサノヲは そのような葬式や供養などといった死者のとぶらいは 生きている人間のすることではないという考えを持ったかも知れません。 日本における権利義務なる制度にピッタリの行動様式という場合 必ずしもその制度に沿った考えや行動だけではないと思われます。権利義務の意味内容が変わるかも知れません。反体制の中身のほうが ピッタリとなる場合だってあるかも知れません。 けれども 《思いやり》などの心の命題は 変わらないのではないでしょうか? 思いやりやあるいは ゆづりあいが心の根っ子に持たれているから その時々の権利=法 の体系が さまざまに考え出され しばしば改革・変更がおこなわれて行きます。 この《思いやり》なる交通様式も その《関係性》だけによって成っているとは考えられません。 関係性のネットワークは その網としての つなぎの線(つまり関係)の部分だけから成るのではなく 必ず結節点があります。この結び目は 一人ひとりの人間です。それとしての行為主体です。 なぜなら たとえその社会その時代にただ一人だけだったとしても スサノヲは 思いやりが過度に死者のほうに向いてはならないと考えたかも知れません。あるいは 社会というものは アマテラス一党独裁であるのは 人びとの思いやりという現実の土台に もし立とうとするのならば 決して褒めた統治方式ではない。とやはりただ独りだけとしてでも考えたかも知れません。 そのスサノヲは やがて爪をはがされ タカマノハラを追いやられました。けれども 自分の思うような社会をつくりたいと考えていたのでしょう それをイヅモで果たしました。わが心 すがすがしと宣言しました。 わが日本の伝統は どこにありましょうか。 権利と義務といった――ここでは――言葉の使い方が どうも生活にとってそぐわないという疑問からの質問です。そういう意味合いになると思います。
- kurinal
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ん、とですね。 >「自然の・ふつうの思いや生き方というものなどは あってなきがごとしだ。観念としてあったとしても 実際には見向きもされないものだ。あるのは 権利であり 権利追求のすがたである。と なりましょうか? そうなんですか? 世の中のことについて無知だから こういう問いを持ったのでしょうか。」 そうまでは、言ってません。 >「☆ 《人間だから》 権利を得ようとするし 得た権利を都合よく利活用しようとする。自然の・ふつうの思いや生き方というものなどは あってなきがごとしだ。観念としてあったとしても 実際には見向きもされないものだ。あるのは 権利であり 権利追求のすがたである。と なりましょうか?」 極端な見方である、と思われると同時に、「他者の権利(人権)を侵害しないでね」と言っておきたくなる ・・・そんな感じです。
お礼
ええっとですね。 要するに――No.11のこまあす88さんのように―― 《権利と義務》なる仕組みを社会生活からはづしてしまうと あとは 生まれつきそなえた自然本性だけの存在になると思われるのですが それだとけっきょくは弱肉強食の世界になってしまう。つまり 弱肉強食の世界しか生まれない。そうではないようにするためにそもそもの初めから 権利と義務なる交通体系を人びとは考え出したのだ。これを抜きにして 世の中を捉えることは出来ないし この権利と義務のその根底に何があるかと言っても そうではなく ただただ自然淘汰だけの世の中にしないために考えだしたのだと見なければならない。 つまり 自然でふつうの生活というものは 実際上にはない。 そういう意味では 世界は《権利とその獲得競争》から成る。そこには 義務も取り決めあわれているので 弱者も生きて行けるのだ。 こんな感じでしょうか?
補足
ご回答をありがとうございます。
- kurinal
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B様、どうも。 >「生活の隅々にまで《権利と義務》が行きわたっている。でしょうか。」 ・・・そうである、と愚考いたします、けどね。 >「 では その権利とは どういう考え方から出て来ていますか? たとえば一つの考え方として おのおのの仕事のはたらきに応じて資力があたえられるといった仕組みだとします。 そのときには その資力に応じて 生活に必要なものを得るということです。相手側として 供給するという仕事に就いている人びといるということにもなりますが。 だとしますと そのようなモノやサービスの融通というのは ひとが特別に《地位や身分や資格》を得てからその仕組みに参加することが出来るというわけのものでもない。――こうなりませんか? つまり もともとは ふつうに仕事をし社会生活をいとなむというその基礎の領域において 成り立っている交通(まじわり)です。権利だの義務だのと いちいち 言わなくても人びとは ふつうに自然に そのように生きています。 だとしたら そのような権利のみなもと これは 何でしょう?」 「だとしたら そのような権利のみなもと これは 何でしょう?」 人間だから、で。どうですかね。
お礼
K さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「だとしたら そのような権利のみなもと これは 何でしょう?」 人間だから、で。どうですかね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《人間だから》 権利を得ようとするし 得た権利を都合よく利活用しようとする。自然の・ふつうの思いや生き方というものなどは あってなきがごとしだ。観念としてあったとしても 実際には見向きもされないものだ。あるのは 権利であり 権利追求のすがたである。と なりましょうか? そうなんですか? 世の中のことについて無知だから こういう問いを持ったのでしょうか。
ブラジュロンヌ様こんにちは。 権利とか義務とかいう言葉はあくまで弱肉強食の世界が人間社会ではうまくいかなかったことから生まれた約束事なんじゃないでしょうか。 >権利だの義務だのと いちいち 言わなくても人びとは ふつうに自然に そのように生きています。 お言葉ですが、そんなことは無いのですよ。ふつうってなんでしょうか。自然って人間には楽しくないのではないでしょうか。人間はふつうということが出来ない生き物なのです。ライオンがどれだけ強くても世界制覇は出来ませんが、人間は出来るのです。 原子爆弾をつくってしまう生き物ですから、一人の世界王が出来てあとの人間を皆ぶっ殺す事だって可能なのですよ。でもそれは困る、と思った賢人がこの理屈を組み立てた、その恩恵で今の人間社会の繁栄がある。そう思います。 私は極単純にそういうふうにこの問題を考えました。お考えの方向とそぐわないようで、間違ってたらごめんなさい。 ご参考の一助になれば。なりませんか。
お礼
こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 なるほど。 ひとりの人間が《生まれて来て生きること》と《社会的に曲がりなりにも天寿をまっとうするようにして生き切る》こととのあいだには 段階などはないんだ。前者だけだとしたら すでに弱肉強食の世界となる。そうではなく すでにただちに後者の情況を実現するべく人びとは《権利と義務》なる概念装置をつくりこれを社会の仕組みとして 共生するに到っているのだ。――それ以外に考え得る人間社会の情況は ない。と。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 原子爆弾をつくってしまう生き物ですから、一人の世界王が出来てあとの人間を皆ぶっ殺す事だって可能なのですよ。でもそれは困る、と思った賢人がこの理屈を組み立てた、その恩恵で今の人間社会の繁栄がある。そう思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ だからこそ アウシュヰッツとヒロシマナガサキまでだと言うことが出来るのだと。 生まれつきそなわった記憶や知性や意志 これらの自然本性のまにまに生きるという《自然な生き方 もしくは ふつうの生活》 こういう見方は 概念として作って持っているだけであって じっさいには 《言ってみれば 権利と義務から成る非自然(あるいは メタ自然)としての文化》による社会生活があるだけだ。 ルウソの言うがままに《自然に帰った》ら それこそ狂信的な市民宗教が現われて敵対する者を誰彼かまわずころしてしまう。血と国土などというナツィスだって 同じことだ。うんぬんとなりましょうか。 ここでは理屈をこねることはやめにします。 ただ ひとつお尋ねしたいと考えました。 日本人に見られる助け合い もしくは ゆづりあい あるいはまた 相手の情況や気持ちを思いやりその思いやった内容に沿って接するそのまじわりの仕方――これらは どう位置づけ どう捉えたらよいでしょう? すなわち 権利と義務とから成る観念で考えたり行動したりはしていませんよね そういった場合には。 あるいはやはりぎゃくであって 《思いやり》は もしそうだとすると(――つまり 決して自然の・ふつうの生活感情なのではなく そうではなく権利・義務の体系に組み込まれているのだとすると――) その思いやりから出た行動をすれば 人からよく見られる だから得である というような理屈と切っても切れない間柄なのでしょうか どうでしょうか?
お礼
あめんほてぷ2000さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ▼ (藤原正彦) 究極の自由とはホッブスが言った自然権です。「各人が自己生存のためになんでもする自由」のことです。 ☆ これは そういう想定をするということだと捉えます。そしてその想定は まづありえないものだと わたしには思えます。 なぜって それは 《人間は 自分の好き勝手をどこまでもおこなう生物だ》と見てしまっているからです。 人殺しも詐欺偽りも何でもおこなうという人間像です。 だから ○ ひとは人に対して 狼である。Homo homini lupus. ○ 世界は 万人の万人によるたたかいBellum omnium contra omnis. である。 といった想定も派生します。つまり ホッブズ流の人間像にもとづくなら なるほど ▼(藤原) これ(* 何でもありの自然権)を万人が放棄してある機関に委託する。この機関こそが国家である。 ☆ ということにもなるのでしょう。絶対主権のような存在としての国家 ということだと思われます。 ところが――いまでは 主権は 国民ないし市民に在るとうたってもいるように―― ★ ロックは「他人の自由と権利を侵害しない限り自由」と言ったそうですが ☆ というごとく 最小限の生存の権利は 誰も国家にゆだねたわけではないと言いました。言いかえると 人びとが自然権を国家に対して放棄したのは その一部であるに過ぎないと。 だったら 権利義務の体系の制度としての成り立ちの前に(それ以前に) 自然なふつうの市民的な生活があって そこには《権利以前の権利》のような実態もあるであろう。と帰結されるのではないでしょうか。 この点について みなさんにここでは問うています。 ▲ (ジャン・ジャック・ルソー「人間の不平等の起源と根拠についての論文」) 憐れみは自然の感情であることは確かで、各個人において自己愛の活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している ☆ ここでおそらく《あわれみ》は Sympathie / Sympathy のことで 《もののあはれを知る》そのことだともまた《思いやり》のことだとも捉えられますが これが 社会文化的かつ権力体系的な《権利・義務》の仕組みの以前に 《自然の感情》としてあるのだ。となるかと思います。 《自己愛の活動を和らげ》とは 利己心を 相手のそれとの互いの競合や衝突の具合いを考慮して うまくゆづりあう といったことではないかと思います。 この J.-J.ルウソの Sympathy は確かに A.スミスにあっては 《同感の原理》にまで用いられたと言われます。 ★ アダム・スミスも「道徳感情論」の中で人間の本性は憐れみの心と述べています。 ★ ショーペン・ハウアーは、ニーチェは否定しましたが、やはり同情(Mitleid)を自己の倫理学の基礎としでます。 ☆ わたしは ショーペンハウアーは読んでいないので知らないのですが sym- ( syn-) pathy = Mit- leid = 〔together-feeling 〕という言葉の対応としても見て取れるのではないかと考えます。思いやりだと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私も人間の奥底には憐れみ(同情)の心が備わってと思ってます。自分が苦しい体験をしたら他人の苦しみもわかるものです。 ですから憲法25条は当然の権利として守らねばならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということは 基本的人権のその法的な決まりなどの概念体系の以前に 自然の生活感情としての《あわれみ・思いやり》がある。ということですね。苦しみ( pathos ≒ Leid )を共にする( syn- ≒ Mit )と言っているようにだと思われます。 ★ 人間は行動を通じて何かを作り出し、その創作物が、その作り手自身が何者であるかを規定し返す。 ☆ 海から獲った魚介類であったとしても それが食べ物として安全であるかについて その漁労従事者やけっきょく社会全体が 責任を持ちます。持たなくなったなら それは 生産行為〔やそれをつうじての社会的な共同生活〕からみづからを疎外してしまったとなると思います。そういうことだと見ます。 食物についての安全を確保するのは 義務であると同時に 自分たち自身の生活のためでもあるからには 権利でもある。と同時に さらには そもそも初めに生活をしているその次元において 自然にふつうに《思う》ことである。しかも 社会的な共同生活をいとなむからには 相手のあることであり そういった人びとのことについても《思いやる》。 かくして 《あわれみ・共生・共苦・同感・仲間意識》もじゅうぶんに現実である。 ○ 権利と義務のみなもとは 思いやり・あわれみである。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 生活保護やフリーターなどの非正規社員と正社員の格差社会の中でもう一度、マルクスを考え直しても良いのではないか? 日米安保闘争の経験をされた世代の方に回答をいただきたいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 質問者からも そのお願いを同じくする意味で かかげます。
補足
べストアンサーかな。 ただし 西欧の人間の論理的な議論だけではなく 生活の中に根差してその実感をも感じさせつつ 思いやり≒あわれみ≒共生の感覚などなどをさらに明らかにして行くこと これを高望みしてみます。 つまり 権利と義務なる世の中のそれとしての現実ともじっさいにからみ合ったそういった人間と社会との理論および実践 こうなりましょうか。どうでしょうか。