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自分と他人の主従関係のねじれ解消|30歳男性の悩み
- 30歳男性が自分と他人の主従関係のねじれを解消する方法について悩んでいます。
- 数年前から自分は他人や社会の評価のために物事を決めてきたことに気付き、本当にやりたいことや意欲を失った状態になりました。
- 他人の評価に左右されず、本当に自分がやりたいことを見つけるためのアドバイスを求めています。同じような経験や悩みを持つ方の参考にもなればと思います。
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質問者が選んだベストアンサー
>他人に認められようとしているのも自分なんだから、他人に認められるために生きればいいじゃないか。ということですか? 違います。 心理的な動き全体を見てくださいということです。 結局、あなたを含め私たちのやっていることは一人芝居なのではないでしょうか。 そのことに気付けば芝居をすることを辞められると思います。 他人の目に変わる新たな登場人物はもういらないんじゃないでしょうか。 >仮想的な他人の目ではなく自分の目で自分を見る方法(イメージ)とは? テクニックという意味での方法はないです。 必要なのは方法論ではなく一連のプロセスにたいする理解です。 方法論は新たな分離を産むだけだと思います。 >「あるがまま」に生きるとはどういうことなのか 心を分離しないこと言うことです。 心の中の観察者がいないことです。 貴方は今まで他人の目という観察者を作ってきました。 種明かしされた今、今度はあるべき自分という観察者を作ろうとしていませんか? 見る者と見られるものは同じだということを理解するしかないと思います。 見る者と見られるものとの葛藤を終わらせる事ができればあるがままに生きることができると思います。 >具体的な腑に落とし方があれば教えてほしい 内観による自分自身の理解しかないでしょうね。 貴方は理屈は分かっているのだから自分自身の中でそれが事実であるかを一つ一つ確認すればいいのではないでしょうか。 体感すれば納得できると思いますよ。
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- shift-2007
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多面的にみるべきだと思うので話がちょこちょこ飛びますけどご容赦ください。 私たちはよく「無意識」という言葉を使います。 でも実際は「無自覚」ではないでしょうか。 目の前にボールが飛んで来れば無意識に目をつむります、これは反射という立派な無意識です。 でも今回の例でいえば他人の目という仮想現実を作ったのは間違いなく貴方の意識ではないでしょうか。 ただ、そのからくりを自覚していなかったため結果的に騙された感があるのではないでしょうか。 そしてそれは本当の自分ではないと今感じている自分がいる。 でも心の中に本当とうその自分という二人の人格があるでしょうか。 自分の行動に自信がないとおっしゃいますが、今までの擬似的自己制御もあなた自身で行ってきたことではないでしょうか。 やり方は回りくどいと思いますが貴方はあなたなりのやり方で自分自身の制御をしていたわけです。 貴方はそのからくりを自覚していなかっただけではないでしょうか。 気付いた今、そのからくりをうその自分にしてしまいました。 そして本当の自分というコアを探して育てようとしている。 でも嘘も本当もなくてただあるがままがあるだけじゃないでしょうか。 他人の目という仮想の目の裏にいたのは間違いなく貴方ですよ。 そこを認めないと本当と嘘とに心が分離してしまうんじゃないでしょうか。
お礼
はい。全てshift2007さんのおっしゃる通りですよ。 「無意識」ではなく「無自覚」ともいえます。 そもそも、言葉はどちらでも大丈夫です。 心に人格は二つあったりしませんよね。 いろんな自分がいて、それ含めて「あるがままの自分」ですよね? それが「腑に落ちない」のが悩みの根本です。 僕は「本当の自分」とやらを探したりはしてません。 どこから混ざったのか読み返してみましたが、 shift2007さんが#4でおっしゃった 〉仮想的な他人の目ではなく自分の目で自分を見ればいいだけじゃないでしょうか というところからです。 「今自分を見たその目が、仮想の他人の目でなく、自分の目であるか」 の判別方法が知りたかったんです。 これ、再度の質問になりますけどどうやるんですか? それを「本当の自分」として書き換えてしまってから混ざったみたいです。 ですから、 「偽りの自分と本当の自分」があるというこだわりはありません。 「どうにかすれば本当の自分が発見できるはずだ、 そうすればこの不全感は消えるはずだ」 とそう考えているわけではないんです。 正直言って、以前はそう考えてました。でも、色んな方にアドバイス頂き「それは違うんだよ」と。 「あるがまま」まさにこれです。この境地になりたいんです。他人の目を気にするのも自分。 この「あるがまま」、頭のうわべでは理解してるつもりです。 ただ、腑に落ちないんです。 そうか!そうだよな!と心から思えないんです。 心から思えたら体が動くじゃないですか。 「納得」できないんです。 だからその状況で自分に素直にあるがままやろうとすると、 最初の質問文で書いたように、新しく何かをやろうという気にはならないんです。 できるとすれば他人に認められるために動くことです。 でもそれでいいのかよ?という悩みです。 〉他人の目という仮想の目の裏にいたのは間違いなく貴方ですよ。 そこを認めないと本当と嘘とに心が分離してしまうんじゃないでしょうか 認めています。 実例として、コンビニでお菓子を買うとき、 前の職場のAさん(美人)が脳内で 「いい大人の男がそんなお菓子買うの~?ケラケラ」 と笑っているのも、完全に自分が作りだした妄想ですよね。 でも腑に落ちてないということです。 被害妄想だと、信じているのですが、「信じ切れない」。 そう言えば伝わるでしょうか。 「信じ切れない」のはそれは「認めている」ことにはならないんでしょう? それが悩みの根本なのです。 これまでのshift2007さんが仰ってることをまとめると、 ・他人に認められようとしているのも自分なんだから、 他人に認められるために生きればいいじゃないか。 ということですか? また、僕の質問を再度まとめます。 ・仮想的な他人の目ではなく自分の目で自分を見る方法(イメージ)とは? ・「あるがまま」に生きるとはどういうことなのか (仮想の他人も結局自分、というのがイメージが湧かない、腑に落ちきらない) ・具体的な腑に落とし方があれば教えてほしい
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
私たちは普段から「私」という一人称を使いますが、 「私」というコアは本当にあるでしょうか。 例えば 私の家は私でしょうか 私の車は私でしょうか 私の家族は私でしょうか 私の体は私でしょうか 私の命は私でしょうか、 すべて「の」がつくものは私の管理物または所有権を表しているに過ぎず、私本体ではありません。 すべては私を構成する一部であるという考え方もできますが、車検が来るごとに交換する私のパーツなど想定したところで意味はないでしょう。 だとすれば私というコアはどこにあるでしょうか。 本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。 しいて言えば私とは「記憶」ではないでしょうか。
お礼
〉本当はそんなものは無く、ただ意識があるだけの存在ではないでしょうか。 しいて言えば私とは「記憶」ではないでしょうか その通りだと思います。 自分の記憶に従って今後行動すればいいということでしたら、 僕もある面ではそう思います。 それこそが「自分の人生」だと。 でも、その記憶に自信がないというか。 自分で決めてない感じがする薄い記憶に、 責任が持てる気がしません。 別の言い方をすると、 「責任を持とう」と心から思うにはどうしたらいいのか、ということです。 なぜこんなことで二の足を踏んでるのか、 客観的に見たらおかしいんだと思います。 考えるとこがずれてるでしょうか? 何度も回答いただいて恐縮です。 気が向いたらで結構です。
- shift-2007
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そんなに難しい話ですかね 例えば人を殺すと法律で罰せられます、 じゃあ法律がなくなったら貴方は人を殺しますか?
お礼
それは今は殺さないとは思いますけど・・・ 世間が「殺すの普通じゃん」って風潮になったら自分も分からないです。 犬でも豚でも、食べる人と食べない人がいますし・・・ それとどう関係があるんですか? おっしゃってるのは、やはり「他人の目」のことでしょう? それともあなたは、それ以外の何かに依って 物事を決めてるんでしょう。 その依ってる対象が「本当の自分」のようなものであれば、 それをらどうやって育てていけばいいのか教えて欲しいのです。 「心が痛む」とかそういうことですかね?
- shift-2007
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#2 今更母の愛もないでしょう もっと主観的になった方がいいんじゃないでしょうか。 母親、他人の目とおっしゃいますが、それは貴方自身が頭の中で仮想的に作り上げた母の目、他人の目じゃないでしょうか。 無意識が客観(母の目、他人の目)を装って自分自身をコントロールしてきたがその種明かしがされたためにドン引き状態なわけですよね。 ネタばらしが行われた後で「で?これやってどうするの」となったのが今の状態 手品のタネを見なかったことには出来ない ならば自分の意志で自分を律するしかないじゃないかと思います 仮想的な他人の目ではなく自分の目で自分を見ればいいだけじゃないでしょうか。 本当の自分を知るスタートラインに立ったという意味で30歳は節目なんでしょう
お礼
再度の回答ありがとうございます。 〉無意識が客観(母の目、他人の目)を装って自分自身をコントロールしてきたがその種明かしがされたためにドン引き状態なわけですよね。 全くおっしゃる通りです。 それでここ2.3年は「本当の自分」を意識してやっていたんですが、 つい先日、あるきっかけから、 その2.3年の間信じていた「本当の自分」でさえもが、 他人の求める(と自分が妄想した)行動や考えで作られていたことに気づいたので、 そのことにショックだったのです。 何がだめだったのか、 「ほんとに、自分の中に『本当の自分の意思』というものはあるのか」 と一気に自信が無くなった、といいますか。 自分の目で自分の意思で律するって一体どういう感じなのでしょうか。 本当の主観と他人を意識した主観、違いがよく分かりません。 もしよろしければ、 その感覚を教えてくださいませんか。 文章では難しいとは思うんですが。
むちゃくちゃな人の小説を読んでみたらいいと思います。 中村うさぎさんの小説をお勧めします。 12か所整形し、 ブランド物を4000万円近く買いあさり、 ホストに1500万円をつぎ込み、 デリヘルにまでなった、うさぎさんの生き方は、一見むちゃくちゃです。 しかし、行動には信条と深い哀しみがあります。 それか、プーラン・デヴィさんの『女盗賊プーラン』もお勧めします。 ヒンドゥー教のカーストの教えが強い地域に生まれた彼女は、 低カーストというだけで、幼いころからレイプからなにから、むちゃくちゃされます。 そして、盗賊になり、虐げられた人々のための鬼神(ドゥルガー)として、カースト制を利用して弱者を虐げる者の男根をぶった切っていきます。 その彼女自身の回顧録が、この本です。 なにか、琴線に触れるものがあればいいな、と思います。
- shift-2007
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>これまで自分は、心底では他人や社会から認められるためだけに物事を決め、生きてきたんだということに気付きました。 なぜそのように生きてこられたのでしょう 必ず動機があるはずですしそれはご自身の欲求でもあるはずです。 それをなおざりにしたままでは先には進めないと思いますよ
お礼
なぜかと考えた結果、 多くの本などの情報からすると、 母親の愛に飢えていたのでは、ということが考えられます。 でもそれが全てではないでしょう。 また、「それをなおざりにしたままでは」とおっしゃいますが、 もし分かった上であればやることは変わるでしょうか? 今から、その仮定に基づいて、 母親の愛を得るために何かをしますか?
たしかに、「世間体のために動くな」とか、「世間の価値観にあやつられている」 ってのは、よく本に書かれています。 ぼく、思ったんです。 その価値観すら、あやつられてないかなって。 だからね。 なにも考えないで、流れに任せるのが、いいんじゃないですか。 「常に疑え。考えろ」ってのも、あやつられている気がします。 世間体のためだろうが、他人のためだろうが、自己満足のためだろうが、 いいじゃないですか。 なにも考えずに、直感で動いたほうがいいと思います。 勘違いしないでくださいね。 「ピンときたことは、即行動に移せ」じゃないんです。 これも、本でよく言われることです。 あなたのおっしゃる「無我」の状態で動くことです。 「ピンときた」っていうこと自体、思考が入り込んでいますから。
お礼
ありがとうございます。 平常時で「無我」は、おそらく不可能でしょう? 何も考えたくはないのですが、考えてしまいます。 酔っぱらったままとか寝たまま生活費を稼ぐことは難しいですしねー。
お礼
ありがとうございました。 いつか体感できることを祈ります。