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勉強は好きだが実際にやるのは嫌い
私は勉強するのは好きですが、実際にやるのは嫌いというタイプの人間です。 音楽を聴いたり理論を勉強するのは好きですが、実際に演奏するのは嫌いです。 スポーツに関する書籍を読むのは好きですが、実際にスポーツをするつもりはありません。 Webサービスを利用したりITを学ぶのは好きですが、実際にプログラムを書くことには興味がありません。 ここで挙げたのは一部の例で、すべての物事に対してこんな調子です。 人間関係も同様で、友情や恋愛の本を読むことはありますが、友人や恋人と呼べる人は一人もいません(知人はいますが)。 勉強すること自体は好きですから、生きがいがないわけではありませんし、実際にやることを通じて世の中に認められたいという感覚もないので、一生このままでよいかなと思ってもいます。 こういう人間って結構ありふれているのでしょうか? それとも珍しいのでしょうか。
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- ice rub(@icerub)
- ベストアンサー率23% (604/2626)
それって、普通じゃないですか 音楽を聴くのと演奏するとの間には、大きな壁のようなものがあるので それに気付くか・気付かないかの差だけのような気がします 今は「一生このままでよいかな」と思ってはいても、何かの切欠で没頭する事もあるかもしれませんので、そこら辺は適当にどうぞ
- afdmar
- ベストアンサー率50% (211/419)
先に述べておくと、この回答は、あなたの個性を否定するものではないので念のため。 質問文やお礼・補足を読むに、能動的に動くことを好まず、ある程度の専門領域にまで踏み込みつつ受動的に知識欲を満たすことで満足を得るタイプのようだな。 そういうタイプの人間は、いないわけではないが、少ないだろう。 >勉強するだけなら、あらゆる楽器を網羅することができるのに、「実際にやる」となると、一つや二つだけで人生を終えてしまう。 この点については、どのような物事であっても、やればやるほど奥深さを感じるという話を聞いた/読んだことがあるはずだ。勉強家であれば、そのような話をひとつふたつでなく耳目に入れているだろう。そして、その奥深さの中には、文字化・言語化し難いものも含まれる。 「勉強するだけ」なら、網羅的に学べる一方で、文字化・言語化し難い奥深さに触れることが出来ないデメリットもある。そこにも着目してみてはどうだろうか。やってみろ、という話ではない。能動的に「一つや二つだけ」しかおこなっていない人は、あなたの知りようがない奥深さを知っている、という話だ。 それでもなお「凄くもったいなくないか」と思うのであれば、それがあなたの価値観であり、その価値観を俺は尊重するよ。
- berntakii
- ベストアンサー率12% (117/957)
珍しいといえば珍しいですね。その状態が不安ですか? 自信を持っていれば珍しいからといってどうということはありません。 何かを知りたい、と思うのは人間の自然な欲求ですし、 その分野のここは興味があるが、こっちはそれほどでもない、というのも自然でしょう。 嫌い、そのつもりはない、と仰っていますが、それは単なる食わず嫌いなのか、 実際にやるのは違うと思った明確な根拠があるのか、その辺の疑問はありますね。
>勉強するのは好きですが、実際にやるのは嫌いというタイプ 一般的な享楽派:愉しむだけで、本格的に突っ込もうという気力に欠ける。面倒臭いことが嫌い。 なのか?と考えましたが、「勉強が好き」とありますから、ちょっと違うのかもしれないと。 享楽派にもタイプがあって、単にものぐさなのと、知的な興味は人並み以上あって、何かを(無意識的に)探している最中の人間は多いと思います。たまにつぼを見つけてそこへマニアックに突っ込み、好きなまま自覚的には苦労知らずで大成する。 貴方はこういった幸福なタイプなのかもしれません。人生はばらいろです。めーったにありませんがノーベル賞に当たらないとも限りませんね。
お礼
回答ありがとうございます。 > 一般的な享楽派:愉しむだけで、本格的に突っ込もうという気力に欠ける。面倒臭いことが嫌い。 「愉しむ」「本格的に突っ込む」の定義によるかもしれませんね。 享楽派: 表面だけをなぞるのが好き。 私: 深くまで勉強するのが好き。 アマチュア: 深くまで勉強しつつ、実際にやる。 プロ: 深く勉強し、実際にやった上で、生計を立てる。 という感じでしょうか。 「深く勉強する」のを「本格的に突っ込む」と捉えるなら、私は「享楽派」には該当しないでしょうが、実際にやらない点では「享楽派」とは同じですからね。 > 知的な興味は人並み以上あって、何かを(無意識的に)探している最中の人間は多いと思います 私の場合、「自分の好きなことを探して、様々なことを勉強している」というわけではないんですよね。 勉強自体が楽しくて、実際にやるのはどうでもいいです。 あくまで知識欲が満たされればそれで構わない、という感じですかね。
あなたと私は、全く逆です。 音楽を演奏するのが好き。 理論を立てるのが好き(論理的であり、発想的である)。 Web等の利用よりも、プログラムに興味あり。 人間関係:あまり重視しない。 しかし、世の中に認められようとはしません。 認められる=ノーベル賞のように、インパクトを残すと考えているから。 逆に言うと、あなたの様な人間は、ゆとり(1970年代終盤~)以降増えています。 なぜか?戦後復興を支えた世代(団塊の世代)はいわゆる詰め込みの世代です。 この様な世代は、他と差別化を行わなければ生きていけない状況に直面もしている為、自営や事業の立ち上げが多い。 どちらかと言うとクリエイティブ。能動的。 しかし、ゆとり以降は他との競争も軽薄化し、どちらかと言うと受動的となっている。(学校の授業を思い浮かべればわかりやすい) したがって、若い世代にはあなたの様な考え方の人間は少なくありません。
お礼
回答ありがとうございます。 私と逆の方のようで、興味深いです。 人間関係にあまり関心を示さず、自分の世界でものを作ることに没頭する職人型の方でしょうか。 > しかし、世の中に認められようとはしません。 > 認められる=ノーベル賞のように、インパクトを残すと考えているから。 これがちょっとよく分からないのですが、インパクトを残すのはよくないということでしょうか? > あなたの様な人間は、ゆとり(1970年代終盤~)以降増えています。 「増えています」と当然のように語られていますが、何か根拠はおありなのでしょうか。 > ゆとり(1970年代終盤~)以降増えています。 この「ゆとり」というのは、いわゆる「ゆとり世代」ではなく、「ゆとりと充実」という学習指導要領を元に教育された世代のことですよね。 > 詰め込みの世代です。 > この様な世代は、他と差別化を行わなければ生きていけない状況に直面もしている為、自営や事業の立ち上げが多い。 「詰め込みの世代だから」「差別化を行わなければ生きていけない」というのは全く繋がっていないように思えるのですが、どう繋がっているのですか? > 自営や事業の立ち上げが多い。 自営業や起業については、今も昔もさほど変わらないのではないですか? むしろ、現在のほうが起業のハードルは下がったように思います(その中で成功しているものは極わずかですが)。 > 他との競争も軽薄化し、どちらかと言うと受動的となっている 「競争が緩和されたから差別化が緩和される→受動的」というのも、かなり乱暴な議論ですよね。
お礼
回答ありがとうございます。 > 珍しいといえば珍しいですね。その状態が不安ですか? 特に不安はありませんね。 この質問を投稿したのも、「世間には私と同じような人間はどれくらいいるのか?」という疑問からで、自分を変えようという意志からではありません。 > それは単なる食わず嫌いなのか、 > 実際にやるのは違うと思った明確な根拠があるのか No.2の方に対するお礼でも少し述べましたが、私の場合、知識欲が満たされればそれでよく、自分のスキルを伸ばすことには関心がない、という思いがあります。 以前、立花隆が著書で、 「自分は勉強が好きだが、ある程度まで知ることができたら、その先はどうでもいい、次に行こうと思っちゃう」 という内容を書いていましたが、私もこれに近いです。 「知る」(勉強)ことが大事なのであって、「その先」(実際にやったりすること)はどうでもいい、次に行こうと思ってしまいます。 立花隆はジャーナリストなので「記事を書く」ことをしていますが、私はそれをしない。それだけの違いだと思います。
補足
補足ですが、「知識欲が満たされればそれでよく、自分のスキルを伸ばすことには関心がない」のはなぜかというと、 「実際にやっていたら、一つのことだけで人生を終えてしまう」 からです。 例えば、音楽をするとしましょう。 音楽を勉強するだけなら、あらゆる楽器・楽曲について勉強することは、時間はかかりますが不可能ではないでしょう。 ところが、あらゆる楽器を「実際にやる」となると、これは不可能だと思います。 プロですら、ピアノやヴァイオリン、フルート、あるいは三味線や民族楽器など、一つや二つの楽器をマスターするだけで人生を終えてしまいます。 勉強するだけなら、あらゆる楽器を網羅することができるのに、「実際にやる」となると、一つや二つだけで人生を終えてしまう。 それって凄くもったいなくないか? 世の中にはこれだけ多くの楽器があるのに、そのうちの一つや二つしか知ることができずに死んでしまうなんて、時間のむだづかいではないか? という思いがあります。