- ベストアンサー
瞳を自由に動かすのを止められた
- 以前OKWaveで《眼球の動きを止められた感じがした》および《目の動きを中心に合わせられた感じがした》という表現を書き換えて下さいと質問しました。
- 要するに「~れる」「~られる」の助動詞が使われてない表現に書き換えて下さいと質問したということです。
- 僕は《眼球の動きを止められた感じがした》、《目の動きを中心に合わせられた感じがした》のは両方ともあったと思うのです。《瞳を自由に動かすのを止められた感じがあった》ということだと思うのです。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
No.9です、お礼をありがとうございます。 前置きが長くなってしまい申し訳ございませんが、ちょっと話を戻しますね。 先ずはNo.3でいただいたお礼からの引用です。 >>『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは誰しも経験があることですからね。 : >僕もそう思います。誰しも経験があることだと思います。 >ただ“被害妄想的なニュアンス”ではなく“妄想的なニュアンス”だと思いました。 >僕は症状などが起きた時に責められている感じはしなかったと思われるので、 >単なる妄想だと思いました。 _____________ ここで「妄想」の意味について今一度考えてみましょう。 妄想とは【ないことをあると思いこむこと・想像したことを事実だと思いこむこと】という意味です。 私はNo.3で回答していた当初は、『頭の中の音楽が勝手に再生された』は妄想ではなく、 「ご質問者が知っている曲が突然、例えるならばラジオの電源を入れたりCDの再生ボタンを押したときのように、頭の中で流れるような感覚があった」 =「既知の曲が自然と頭の中で再生された感覚があった」 =(誰かにさせられているのではなく、自然と曲が思い出される感覚) =自然とそうなった(もとより意図していたことではなかったが、自分でしたことだという感覚) =【自発】の意味で解釈していたのですよね。 これだけならば誰もが経験することです。 誰かにさせられたのでもないという感覚があり、自分の中に仕舞われていた記憶(音楽)が突然溢れ出す感覚です。 音楽が流れるイメージを頭の中で感じているだけのこと、突然想起しているだけのことで、現実にはその音楽が掛かってはいないことも理解できている状態であるならば、これは「イメージを具体的に感じている(幻聴ではないし、耳元で聞こえているわけでもない)」ということであり、「妄想ではありません」。 本当に音楽が耳元で鳴っているとしか思えない、そのぐらいくっきりと現実と区別が出来ないほどの臨場感を持って聞こえている感覚があり、「こんなにはっきりと聞こえるのに、何故まわりのみんなには聞こえないんだろう?」とまで感じてしまうのなら、それは幻聴であり妄想ということになってしまいますけれども…。 *** No.3の回答を今一度読み返していただきたいのですが、このときの私の回答の元になったご質問者のNo.2のお礼には、(実際の文章には “ ” 書きはされていませんでしたが)『頭の中の音楽を再生“させられた”感じがした』『“制止”が解除された』『“制止”が解けた』の 語句があり、“ ” の部分にのみ私は反応して、被害妄想的なニュアンスを感じるという意見を述べていたのです。 また、この時点では >『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは誰しも経験があることですからね という立場(妄想とまでは感じられない)を取っています。 しかし、ご質問者は『頭の中の音楽が勝手に再生された』、その現象について、 >僕もそう思います。誰しも経験があることだと思います。 >ただ“被害妄想的なニュアンス”ではなく“妄想的なニュアンス”だと思いました。 >僕は症状などが起きた時に責められている感じはしなかったと思われるので、 >単なる妄想だと思いました。 と言葉を続けていらっしゃったので、私は ご本人が“妄想的なニュアンス”をどこかで感じている以上は、『勝手に』とは、「自然に・突然に」ということよりも「無遠慮に・何の断りもなく」の方のニュアンスで解釈する必要があるのかなと思い直したのですよね。また『再生された』とは「自然と頭の中で音楽のイメージが流れ出した:【自発】」ではなく、なかば強制的に何か自分で納得のいかない負荷が掛かったような感覚(到底自分でしたこととは思えない感覚)がご質問者にはあったのではあるまいかと…。 であるとするならば、「【受身】:(~によって)~される」の方の意味に取り直さないといけなかったのでは?と思い直したのですよね。 ―― そういう風に意識を変化させて回答したのがNo.6での回答です。 私は『勝手に』という表現は、なるべくなら使わない方が良いと思います。 何故なら、『勝手に』の意味は前後の文章で幾らでもニュアンスが変わってしまうからです。特にその後に『される』を持ってくると、対象に被害や迷惑を感じているようなニュアンスが加わりかねず(被害妄想的に聞こえてしまう)、元々言いたかったことと全く違った印象で受け取られてしまうことがあるからです。 ************************************************** ここからはNo.9でのご返信に対しての回答になります。 >単に『視線をそらす行為を止められた』『自分の頭の中の音楽を再生させられた感じがした』と止めた、再生した主を書かない表現は被害感情を伴った表現と言えるかどうかが知りたくなりました >それと僕は「~れる」「~られる」は受け身だけとは限らないという回答を以前もらったことがあります。 「~れる」「~られる」は尊敬などの助動詞の場合もあるということです。 何の事情も分からぬまま、言葉をそのまま受け取れば、どちらも他人からは被害感情を伴った表現と受け取られることでしょう。 また、『視線をそらす行為を止められた』『自分の頭の中の音楽を再生させられた感じがした』はともに【受身】であり【尊敬・可能・自発】のどれでもないですね。 「られた」も「させられた」も【受身】という形式ではあるけれど、本当のところ、ご質問者には被害感情はなく、自分の意志とは無関係なことを強調したいが為に、敢えてそう表現しているということを仰りたいのでしょうか。 誰かがしたのではなく、病気の症状があなたの自由を奪っていたと言いたいのだけれど、それを素直に自分の言葉で表現すると、「~れる」「~られる」になってしまうと、こういうことなのでしょうか。 この前は金縛りの例を挙げましたが、金縛りに遭ったときのことを 『自分の手足の自由を奪われた感じがした』という人がいたとして、これを被害感情だ、被害妄想だと決めつける人は先ずいないでしょう。 この程度であれば、『あたかも、自分の手足の自由を奪われたかのように体が硬直していた』と、こう言いたかったのだと、聞き手は言葉を補いながら解釈することが可能だからです。 しかし、『寝返りを打つ行為を止められた』と言い切ってしまっては、不味いわけです。これだと被害妄想と受け取られてしまいますね。 そうは言わずに、『まるで寝返りさせまいと、その場に居もしない誰かに体を押さえ付けられているかのように、体が全く動かなかった』と言えば、被害感情だ、被害妄想だと受け取る人はいないでしょうね。 話し相手は、「ああ、そこまで体の自由が利かなかったんだ、大変な思いをしたんだね」と受け取るのみだと思います。 身内に話をするときは省略しても話は通じますし、ニュアンスも割と通じるものですが、よく知らない人、まだ知り合って間もない人、自分だけの独特の言い回しを理解していない相手に向かって話をするときは、言葉を省略してしまってはニュアンスまでは上手く伝わりません。 心と体の動きが一致しなくなるのは統合失調症だけではありません。 てんかんの患者さんでも突然動作が止まったり、意識ははっきりしているのに、発作で手足が自分の意思に反して勝手に動いてしまうという事例がありますし、躁病や躁鬱病、バセドウ病を煩っている患者さんだと、本当には疲れているのに自分の意思では制御が出来なくなって、過剰に活発になって疲れてしまったという話はよく耳にします。 ご質問者の場合、自分がやったことではないという感情、体と脳の働きが一致しないことに違和感を感じているので、「~れる」「~られる」の表現になってしまうのかもしれないですね。 体と脳の働きが一致しなくて不都合を感じつつも、「これは自分の体であり、この脳も自分のものだ、体が突然止まったり動いたりはあっても、それが今の私の現状なのだ」という意識があれば、 『視線をそらしたいのにそらすことが出来なかった』 『自分の頭の中の音楽が再生している感じがした』 『瞼を動かす機能が働かなくなる感じがした』 という表現になると思います。 ご質問者の感覚とは一致しないかも知れませんが、これが私からの回答です。
その他の回答 (10)
- kimosabe
- ベストアンサー率59% (137/230)
〈回答〉 瞳が動かなくなった。 瞳の動きが止まった。 瞳が固まった。 〈質問者様へ) お礼は、再質問や反論めいたことは言わず、ただ「回答ありがとうございます。参考にさせていただきます」だけにしましょう。質問文も要点だけを簡潔にまとめたほうがいいでしょう。そのほうが回答がつくはずです。
お礼
わざわざご回答有り難うございます! kimosabeさんの3つの言い換えは、《瞳を自由に動かすのを止められた感じがあった》の言い換えですよね? 一応そういった経験はあったと思いますが、僕はpo-ria1さんが書き換えの文章を教えてくれたものにスッキリしました。 大袈裟と身近な人に指摘されましたが、今まで教わった言い換えは自分の中で起きていた出来事と言えると思います。 参考にさせて頂きます。 質問文をもう少し短くしたほうが回答がつきやすくなるのは僕もそう思いました。
No.8です。度々すみません。 No.8で文字の変換ミス及び解りにくい箇所があったので、今回も補足と訂正があります。 >ここでいう “勝手に” とは “突然に” という意味で解釈が可能です。 しかし、“勝手に”自体、意味が広いので裂けた方が誤解なく伝わりますので、 「制止が解けた。要するに突然起きたことである」とすると良いです。 “突然”は“突如として”に置き換えは可能ですが、芝居がかった大袈裟な印象を与えてしまうので、私はここは “突然” ぐらいが丁度良いと思います。 ~先ず、「裂けた」は変換ミスなので「避けた」に訂正させてください。 また、「制止が解けた。要するに突如として起きたことである」とするのが大袈裟だとしたのは、元々「制止が解けた」自体がかなり強い調子の言い回しなので、ここに「突如として」と言葉を続けてしまうと、くどいしわざとらしい印象になると考えたからです。文学的ではあると思いますが、診察などの日常会話で使うと大袈裟だなという印象です。 >例えば『制止が解けた。要するに勝手に起きたということである』 この文章の解釈も訂正したいと思います。 これに関しては、「感覚が元に戻った。要するに自然に調子が戻ったということである」とすると良いと回答してしまいましたが、これは私の解釈の誤りで、ここは「感覚が元に戻った。要するに自分の意思とは無関係に、体に変調が起きていたということである」ということをご質問者はおっしゃりたかったのではないでしょうか。 *** No.8で回答した、“3.『頭の中の音楽が勝手に再生された』”これについてはあまりいい説明ではなかったと思うので、こちらも補足します。 確かに、この表現の中には「された(受身の助動詞“される”の過去形)」が入っているので、その時の回答で示したように、 >「頭の中の音楽が突如として再生された」 【受身・自分が誰かから何らかの行為を受けている という認識または感覚がある】 と受け取られかねない表現だとは思うのですが、通常そこまでの印象を持たれることはないでしょう。 【受身】http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&stype=0&dtype=0&dname=0ss&p=%E5%8F%97%E8%BA%AB (※参考リンク[3]には「雨に降られる」が例文として載っていますが、「雨に降られる」という表現を被害妄想だという人がいないのと同じで、「再生された」という言葉そのものには、妄想的なニュアンスはほとんど含まれていないと思います。また、 >「【受身・自分が誰かから何らかの行為を受けているという認識または感覚がある】と上記のように示しましたが、これだと妄想=認識であると言っているようにも受け取られ兼ねない表記になっているので、“自分が誰かから何らかの行為を受けているという認識または感覚がある”の文章については、“受身”という語句の説明であるとだけ受け取ってください。) 先の回答でも同じ様なことを書きましたが、『頭の中の音楽が勝手に再生された』こういう感覚は誰しも経験したことがあると思いますし、「本当に予期せぬタイミングで起きたことである」というインパクトのある表現だと思います。 「何か印象に残っていた音楽が突然ひらめくように思い浮かんだんだな」と、そう受け取られる場合が殆どだと思います。 ただ、「音楽が思い出される・ふと、音楽が浮かぶ」と比べた場合、 “勝手に” と “された” がある分、驚きや違和感(「何故に?」や「おおっ、なんだなんだ?」という様な感じ)が強調された表現に聞こえてしまうので、話の流れによっては、やや妄想的なニュアンスを感じさせてしまうこと(“誰かから何らかの行為を受けているという感覚がある”と受け取られてしまうこと)はあると思います。 *** 「これもあれも言い間違いだ…」とあまり気にしすぎると会話が進まなくなってしまうので、「どうも大げさな表現だったのでは?」と感じたときは、「ちょっと、大袈裟な言い方だったかもしれないけれど、そのときはそんな気分だったんです」と付け加えれば、結構、人は理解を示してくれることが多いと思います。 メールのように言葉を受け取るタイミングに時間差ができてしまう場合は、伝えるという行為にはなかなか難しいものがありますが、対面の場合は落ち着いて言葉を重ねれば、例え言い間違ってしまっても案外言いたいことは伝わるものですよ。 100言えば100伝わるものと思うから難しいのであって、身内どうしでも伝わらないことはあるのですから、70~80迄伝われば成功だと思います。 補足や訂正を続けてしまったり、横道に逸れた話をしてしまいましたので長くなりましたが、一助となれば。
お礼
お礼を返すまでに間があいてしまいました。 まず最初にpo-ria1さんに理解してもらいたいことがあります。 No.2のお礼で僕は‘po-ria1さんがおっしゃるように「~れる」「~られる」を使わない表現というのは、被害妄想的なニュアンスをなくしたひょうげんと言えると思います’と書きましたが、この解釈が違っていたことに気づきました。 なぜならばNo.6でpo-ria1さんは‘元の文章が被害妄想的なニュアンスを持っているので、被害感情を無くした表現(他人からされたことではないという表現)にすることはできても、妄想的なニュアンス(何か不思議な出来事が起きていて腑に落ちずにいる感じ)までは取り切れない’と回答したからです。 No.6の回答は「勝手に」や「意に反した」という語を使った表現をした場合の解釈です。 僕は、『テレビに視線が行った時に、例えばアナウンサーに視線をそらす行為を止められた』『自分の頭の中の音楽を喫茶店の利用者Kさんの行動を見た時に再生させられた感じがした』という表現ならば被害感情を伴った表現だと言えると思いますが、単に『視線をそらす行為を止められた』『自分の頭の中の音楽を再生させられた感じがした』と止めた、再生した主を書かない表現は被害感情を伴った表現と言えるかどうかが知りたくなりました。 それと僕は「~れる」「~られる」は受け身だけとは限らないという回答を以前もらったことがあります。 「~れる」「~られる」は尊敬などの助動詞の場合もあるということです。 “勝手に再生された”と書き表したのは、妄想的なニュアンスがわずかながら残っていたし、僕は自分以外の者が音楽を聴かしたとは思いません。 po-ria1さんがおっしゃるように予期せぬタイミングで起きたということは言えると思います。 最初のうちは無意識に起きていたのです。 それと“頭の中の音楽が勝手に再生した”という表現は自分には合わないのでそれ以外の表現が複数知りたくなりました。 “頭の中の音楽が勝手に浮かんだ”という表現も自分には合わないと思うのです。 >ここは「感覚が元に戻った。要するに自分の意思とは無関係に、体に変調が起きていたということである」ということをご質問者はおっしゃりたかったのではないでしょうか。 : 「体や動作が勝手に停止したのが今度に勝手に動きすぎて自分の意思で体や動作を止めることができなかった。その感覚が起きた数日後に自由が戻った。要するに自分の意思とは無関係に、体に変調が起きていたということである」という解釈だと思います。 しかし、2月26日の火曜日に耐え難い幻聴と耳鳴りがひどく、それがきっかけなのか喫茶店から帰ってベッドに就いて間もないときに自分の意思で足の動作を止めることができなく足が小刻みに動いていたことがありました。 No.2の補足で僕は『眼球を思い通りに動かせなかった』『眼球運動が勝手に止まった』ことが起きていたと思うと書きましたが、身近な人に訊いたところ、大袈裟とのことでした。 誤った解釈を書いてしまったとわかりました。 僕は眼球の動きを止められた感じがしたのではなく、《瞼を動かす機能を止められた感じがあった》のだと思うのです。 僕が質問するのは主治医の診断に不満がある理由であることは正しいです。 「~れる」「~られる」が使われてない言い回しを複数教わり、それを参考に主治医に診てもらうレポートを作成して、主治医から答えをもらいたいのです。 コミュニケーションは一応とれてますが質問数を制限されています。 診察時間が少なく1人15分で切り上げたいとのことでした。 でも1月の診察で「体や動作を止められたり動かされた患者さんは勝手に体や動作が止まったり動いた」という答えを得た時はものすごくスッキリしていたと思います。
お礼をありがとうございます。 今回は、No.6のお礼に対する回答になります。 >実は今まで『頭の中の音楽が勝手に再生された』『視線をそらすことができなくなった。要するに勝手に起きたことである』と“勝手に”という言葉を自分が使って書いた文の概念がわからないのです。 No.6の回答でも比較に使った例文を基に考察していきたいと思います。 ----------------------------------------------------------- 1.『音楽が思い出される』 (ら)れる = “自発” を表す助動詞。“自然にそうなる”の意。 →「自然に音楽を思い出す」 【自発・自分がしたという認識がはっきりとある ・外部から強制を受けている感覚はない】 ----------------------------------------------------------- 2.『ふと、音楽が浮かぶ』 ふと = 思いがけず・不意に(突然に・出し抜けに)・ふっと 浮かぶ = 思い出される → “自発” のニュアンスを持つ → 「不意に、音楽を思い出す・音楽が思い出される」 【自分がしたという認識がある・強制を受けている感覚はない】 ----------------------------------------------------------- 3.『頭の中の音楽が勝手に再生された』 勝手に = 唐突に・突如として・突然に・何の前触れもなく 何の脈略もなく・自分の意思や意図とは無関係に・ 無遠慮に・何の断りもなく (※ “勝手に” に関しては辞書以外の意味合い、 ニュアンスを書き出しています。) された = “される”の過去形 される: “「する」の受身” (~によって)~される 他からある動作・作用を受けるの意 → 「頭の中の音楽が突如として再生された」 【受身・自分が誰かから何らかの行為を受けている という認識または感覚がある】 ----------------------------------------------------------- こうやって2と3を比較すると、“ふと” も “勝手に” にも共通するニュアンスがかなりあります。どちらも「思いがけず・不意に・突然に」の意味で使われますが、程度としては “ふと”の方が軽いニュアンスになり、意味も限定されてくると思います。 しかし、“勝手に”となると更に広い意味を持ち、ニュアンスもまた幅広く、大きな違いとしては、「対象に対して迷惑な感情を持っているときに使われる言葉である」ということが挙げられます。 “ふと” は、もっと軽い感じで使われる言葉なので、あまり迷惑だという感情とは結びつけて使われることはないと思います。 あと、気になったのが『頭の中の音楽が勝手に再生された』の “された” という表現。 これだと【受身】の表現になってしまいますから、“音楽を再生しているのは自分ではなく何者か(自分以外の意思・正体不明のもの)から無理矢理、音楽を聞かされている” という解釈が成り立ってしまいます。 そういうニュアンスを感じさせたくないのなら、『頭の中の音楽が勝手に再生した』とする方が誤解なく伝わると思います。 1~3、それぞれの表現の関係を示すと次のようになります。 「ふと、音楽が浮かぶ」 ≠ 「音楽が勝手に再生される」 【自発と受身の関係】 「ふと、音楽が浮かぶ」 ≒ 「音楽が思い出される」 【どちらも自発の意を持つ】 ※(≠ :等しくない ≒ :ほぼ等しい) *** >「勝手」というのは「ひとりでに、自然に」という意味があるのですが、 上記の用例の3では書いていませんが、確かにそういう意味がありますし、よく使われる表現です。 「ボールが坂道を勝手に下りだした」 「蟻が勝手に家の中に入ってきた」 などがそうですね。 >他人にやらされた、された感覚も「勝手にそうなった」と言うのが合っているかどうかが知りたくなりました。 これは違います。 他人にやらされた、された感覚は「勝手にそうなった」とは置き換えられません。 事実はどうあれ、感覚は感覚としてそのままでしか表現できません。 >例えば『制止が解けた。要するに勝手に起きたということである』場合、“勝手に起きた”という言葉の概念が知りたくなりました。 わかりやすい再回答がほしいな、と思いました。 ここでいう “勝手に” とは “突然に” という意味で解釈が可能です。 しかし、“勝手に”自体、意味が広いので裂けた方が誤解なく伝わりますので、 「制止が解けた。要するに突然起きたことである」とすると良いです。 “突然”は“突如として”に置き換えは可能ですが、芝居がかった大袈裟な印象を与えてしまうので、私はここは “突然” ぐらいが丁度良いと思います。 妄想のニュアンスを一切取り去りたいのなら、「感覚が元に戻った。要するに自然に調子が戻ったということである」としたら良いと思います。 しかし主治医に報告するときは、症状が出ていたそのときは本当にはどう感じていたのかも、きちんと自分の言葉、元の文章で報告すべきだと思います。 「現実はこうだったと思う」という立場からの添え書きはあって良いと思いますよ。 現実と妄想の区別をきちんとつけたい、そういう気持ちは大切だと思うから。 でも、症状が出ていたときの感覚もちゃんと書かないと、虚偽の報告書になってしまうので、あなたのためにも主治医のためにもなりません。 私はあなたが書いた元の文章も必ず主治医に見せて欲しいと心から思います。 そうでなければ、私がここで回答することは診断・診療の邪魔でしかないからです。 *** (1)~(7)については、言い換え前 → 言い換え後 の順で回答していきます。 感じ方は人それぞれなので、これこそが正解だとは思わないで、ご質問に対して感じた私個人の感想とだけ受け取ってください。 (1)インスピレーションを持った。“ひらめいた” という感覚。 妄想的なニュアンスは特に感じられず、これだけで何か問題があるとは判断できない。 → 先に同じ。特に問題は感じられず誰にでもある感覚。 (2)被害妄想的 → 誰にでも起こりうること。→ 神経系統に異常があるなどの機能不全の症状を訴える一般患者の感覚(妄想的な要素はこれだけでは感じられない)。 → 先に同じ。 (3)妄想的 → やや妄想的(理由は回答前半の3を参照してください)。 (4)それほど妄想的な表現だとは思わないが、「された」とあるのがやや気になる。唯の言い方の癖なのかもしれないが、自分でしたこととは思えずにいるので、こういう表現になってしまうのか?と少し引っ掛かりを感じる。→ これだけでは何か問題があるとは判断できない(言葉が置き換わるという事実よりも、変換後の内容の方が気に掛かる)。誰にでも起こりうることだけれど、あまりに頻繁だと会話するのに不都合を感じているのでは?と思うので、頻度の方が気に掛かる(頻繁でなければ誰にでもよくあることと考える)。 (5)被害妄想的 → 神経系統に異常があるなどの機能不全の症状を訴える一般患者の感覚(妄想的な要素はこれだけでは判断できない)。 (6)(7)・(5)と同じ。 *** 答えておいて何なのですが、ご質問者は主治医の診断に不満があるので、このようなご質問をしているのですか? 主治医を初めとした医療スタッフの方たちとコミュニケーションは上手く取れていますか? 上手く取れていて不満がないのなら、こういうご質問は思い浮かばないと思うのですが、どうでしょうか。 患者と主治医、カウンセラーとの間の信頼感は、治療の上でとても大切なことだと思います。 それが言いたくて、今回も参加したのですが、医療スタッフの方たちの邪魔はしたくないとも思っています。もし、主治医と意思の疎通が上手く取れていないのなら、ご両親と相談してセカンドオピニオンを受けると良いと思います。 それでかえって今の先生の良さが解るのなら、それもまた良しだからです。
お礼
度々ご回答有り難うございます! 後ほど詳しいお礼をNo.9のお礼欄に書くつもりです。
何度もすみません、No.6です。 解りづらい箇所・表現が適切ではない箇所があったので、補足及び訂正をします。 >元々の文章が “自発” の感情から書かれたものではないのに、“自発” の表現に変えるのには、どうしても無理があります。 上記の文章を『 』のように補足・訂正します。 『元々の文章が “自発” の感情から書かれたものではない(自然にそうなった・自然に起きたこととして捉えて書かれたものではない)のだから、有り得ないことであるのを有り得ることであるという表現に変えてしまうのには、どうしても無理があります。 この箇所はNo.4でいただいた補足、及びNo.5のご回答者へご質問者が宛てたお礼にある >有り得ないことであるのを有り得ることであるというニュアンスの表現に書き換えてもらうことは大袈裟だと聞いたことがあります。 を踏まえて書いています。 議論のような展開になってしまっていますので、もしもご気分を害されたのなら、お詫びいたします。 しかし、ご質問者の場合は自発表現で語りたいときであっても表現が独特であるなどして、相手の方から大袈裟に受け取られてしまうなど、感情が上手く伝わっていないときがあるのではないかと推測して、No.6ではこの後に、 >けれども、“自発”の表現を覚えて行くことで、ご質問者の中にある被害妄想的な感情が少しずつ薄れて行くこと(到底、自分でしたこととは思えないことであっても、自分がしたことなんだと認めることが出来るようになって行くこと)はあると思います。 また、“自発”の表現を覚えることで適切な感情表現が出来るようになり、誤解されることがなくなるのならば、被害妄想的な感情に苦しめられることも少しずつなくなって行くものと思います。 と言葉を続けました。 ご質問者は自分で自覚なさっていますが、ご質問に書かれている《 》に書かれた現象は通常なら不自然なことです。だから、この不自然なことで引き起こされる不快な感情を取り去りたいということだろうと思います。 しかし、その感情を無理に排除しようとするよりも、冷静になったとき何が起きていたのか分析できていることを良しとしては如何でしょうか。 元のご質問の直接の回答とはなっておりませんが、私から言えることは全て書き切ったと思っております。
お礼
訂正の回答有難うございます! No.6のお礼欄にお礼を書くことにします。
No.2~4です。お礼をありがとうございました。 No.3の補足でいただいたご意見ですが、 『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは確かに誰もが経験することですが、おそらくは、“勝手に再生された” とまで感じる方は、そうはいないと思います。 現象としては同じことなんですが、感じ方としては “ふと、メロディーが浮かぶ” 程度で、あまり違和感なく過ごしている方が多いのではないでしょうか。 例えば、チューリップを見ていて「さいた さいた チューリップの花が…」とあのフレーズに乗って頭の中で歌が流れるように感じている方(本当に聞こえているという意味ではありません)は多いと思います。 「そうそう、幼稚園で最初に習った歌だった。懐かしいなぁ」と思うときは、“ふと、歌が思い浮かぶ” もしくは、“自然と歌が思い出される” そんな風に感じていることでしょう。この場合の「(ら)れる」は「自然にそうなる」という意味で “自発” を表す助動詞です。自然となったことだから “勝手に” とまで意識を持っていくのは、少し大袈裟な感じがします。 集中してじっくり物事に取り組みたいのに、一々、頭の中で音楽が鳴り響いているようで煩わしい感じを伴うときは、『頭の中の音楽が勝手に再生された』という表現がしっくりするように思います。 “勝手に” とした場合は、望ましくない感情・困惑・衝撃など、「何故に?」というような強い感情が働く場合に使う方が自然な表現だと思います。 “音楽が思い出される” と “ふと音楽が浮かぶ” はニュアンスとしてはイコールの関係ですが、『頭の中の音楽が勝手に再生された』とは現象としては同じだけれどニュアンスが違います。 「“ふと音楽が浮かぶ”とはどんな意味なの?」と訊かれて『頭の中の音楽が勝手に再生されることだよ』と答えた場合、説明としては間違ってはいないけれど、ニュアンスまで一緒かというと少し違います。 “音楽が思い出される” と “ふと音楽が浮かぶ” はごく自然なこと(妄想の要素はない)ですが、『頭の中の音楽が勝手に再生された』とまで言い切ってしまうと、やや強制的なイメージがあり、ご質問者が仰るように妄想的なニュアンスが含まれてしまうと思います。 *** こちらはNo.4の補足に対する意見になります。 >“勝手に”や“意に反して”という言葉を付加した表現に書き換えても書き換えなくても他人にやられたというニュアンスをなくしたと言えるかと思いました。 これについてどう思うかが知りたいし、“勝手に”や“意に反して”という言葉を付加した表現でも被害妄想的なニュアンスが残っていると身近な人から聞いたような気がします。 このことについてもどう思うかが知りたいです。 私もご質問者の身近な方が仰ったことは一理あると思います。 理由は、先に書いたとおりです(No.3の補足に対する返信をご覧下さい)。 書き換え後の文章にも「自分でしたことなのに、自分でしたこととは思えない」という感情が読み取れるので、書き換え前の文章よりも被害妄想的な印象は薄まってはいるけれど、妄想的なニュアンスは僅かながら残ってしまっていると思います。 どういうことかというと、書き換え前の文章は“率直”に感じたことで「その時感じた生の感情」なのですよね。 だから、こちらの方が感情をよく表した文章になっています。 しかし、書き換え後の文章は、それこそ客観的な立場から書かれているので、ご質問者本人に起きた出来事なのに、まるで観察記録のような他人事のような文章になっているので、被害妄想的なニュアンスは殆ど感じられないけれど、その代わり不自然な表現にならざるを得ません。 元の文章が被害妄想的なニュアンスを持っているので、被害感情を無くした表現(他人からされたことではないという表現)にすることはできても、妄想的なニュアンス(何か不思議な出来事が起きていて腑に落ちずにいる感じ)までは取り切れない、そういうことなんです。 ご質問者が例文として挙げた例だと、書き換え前の文章と書き換え後の文章の関係は、 「症状が出ていたときは、被害妄想的な感情を持ってしまったが、後から冷静になって考えるとこういうことだった。」 そういう関係になっていて、妄想が妄想であることが解っているという主張なのだと思います。 しかし、どう書き換えても、同じ症状を書き表していることになってしまうので、他人が読んだ場合でも、妄想的なニュアンスを感じられてしまうということなのです。 元々の文章が “自発” の感情から書かれたものではないのに、“自発” の表現に変えるのには、どうしても無理があります。けれども、“自発”の表現を覚えて行くことで、ご質問者の中にある被害妄想的な感情が少しずつ薄れて行くこと(到底、自分でしたこととは思えないことであっても、自分がしたことなんだと認めることが出来るようになって行くこと)はあると思います。 また、“自発”の表現を覚えることで適切な感情表現が出来るようになり、誤解されることがなくなるのならば、被害妄想的な感情に苦しめられることも少しずつなくなって行くものと思います。 ―― この辺のことは私見であり、医者でも医療に携わる者でもない者が言うことなので無責任なことにも成りかねませんので、一度 主治医に “自発” の表現を覚えることの効用について話し合っていただければなと思います。
お礼
ご回答有難うございます! そうですか『頭の中の音楽が勝手に再生された』という表現は僅かながら被害妄想的な要素が残っているとpo-ria1さんは思うのですね。 実は今まで『頭の中の音楽が勝手に再生された』『視線をそらすことができなくなった。要するに勝手に起きたことである』と“勝手に”という言葉を自分が使って書いた文の概念がわからないのです。 「勝手」というのは「ひとりでに、自然に」という意味があるのですが、他人にやらされた、された感覚も「勝手にそうなった」と言うのが合っているかどうかが知りたくなりました。 例えば『制止が解けた。要するに勝手に起きたということである』場合、“勝手に起きた”という言葉の概念が知りたくなりました。 わかりやすい再回答がほしいな、と思いました。 それと例えば、 (1)「つなげて言う」と言った言葉が頭の中で発せられた感じがあった。→「つなげて言う」と言った言葉が頭の中で勝手に浮かんだ。 (2)視線をそらす行為を止められた →視線が勝手に留まった →視線が意志とは無関係に動かせなくなった →視線が自分の意志どおりに動かなくなってそらせなかった (3)自分の頭の中の曲を再生させられた感じがした→自分の頭の中の曲が勝手に再生された (4)自分の頭の中の言葉が変換された→自分の頭の中の言葉が勝手に置き換わった。 (5)何らかによって体の動きを止められた→何らかのきっかけで体の動きが制止[停止]した (6)行為を止められた→意に反して行為が制止[停止]した (7)体を固められた感じがあった→体が勝手に固まってしまった ――――などの表現で、言い換え前の表現は正確にはどういうニュアンスの表現でどういう要素が入っているか、言い換え後の表現は正確にはどういうニュアンスの表現でどういう要素が入っているかを知りたくなりました。 しつこいかもしれませんが、僕はpo-ria1さんからの再回答がほしく、質問を解決させたいです。
- fxq11011
- ベストアンサー率11% (379/3170)
状況がよく理解できません「れる」「られる」は尊敬語でもあります。 使役?の助動詞に限定しているように感じますが・・・。
お礼
ご回答有り難うございます! No.2~4の回答、お礼、補足に書いてあるように、誰かに何かされたと感じているニュアンスをなくした表現に書き換えてもらいたいということです。 しかし有り得ないことであるのを有り得ることであるというニュアンスの表現に書き換えてもらうことは大袈裟だと聞いたことがあります。 例えば『制止が解除された』を『制止が解けた』とか、『視線をそらすのを止められた』を『視線をそらすことができなくなった、要するに勝手に起きたことである』という感じで書き換えてもらいたいのです。 また“勝手に”や“意に反して”という言葉は文章から抜き取りたくないのです。 一度この質問および回答、お礼、補足を読んでほしいです。
No.2・3です。 ご質問者の文章を添削しておきながら、私自身が編集ミスをしていました。 誤:私見ですが、そればかりが気になって、~問題有ありだと思いますが 正:私見ですが、そればかりが気になって、~問題ありだと思いますが * 「問題有り」と文字入力した後、「問題あり」に直そうとして「有」の文字を消すのを忘れていました。間違いじゃないので別に直さなくても良かったのですが、なんとなく「問題有り」よりも字面的に「問題あり」の方が良いかなと思ったもので…。 気にならないときは気にならないのに、ふと気になってしまうことは誰にでもありますよね。
お礼
補足のご回答ありがとうございます! 「有りあり」と書いてあって意味不明だと思いましたが、間違いなのですね。 No.3のお礼で詳しくお礼させていただきます。
補足
お手数ですが、再度po-ria1さんからの回答がほしくなりました。 僕は『頭の中の音楽を再生させられた感じがした』→『頭の中の音楽が勝手に再生された』、『牛乳を飲むのを止められた』→『牛乳を飲むのが停止した。要するに意に反して起きた出来事だった。』、『視線をそらすのを止められた』→『視線をそらすのが勝手に止まった』という感じですべて他人に書き換えてもらいたいのです。 “勝手に”や“意に反して”という言葉を付加した表現に書き換えても書き換えなくても他人にやられたというニュアンスをなくしたと言えるかと思いました。 これについてどう思うかが知りたいし、“勝手に”や“意に反して”という言葉を付加した表現でも被害妄想的なニュアンスが残っていると身近な人から聞いたような気がします。 このことについてもどう思うかが知りたいです。
No.2です。 お礼と補足をありがとうございました。 >例えば『制止が解除された』『頭の中の音楽を再生させられた感じがした』というのは外部からコントロールされた感じで被害妄想的なニュアンスがあり、『制止が解けた』『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは被害妄想的なニュアンスがないことは言えると思います。 そのことについてpo-ria1さんがどう思うかが知りたくなりました。 そうですね。仰るとおりだと思います。 前述の二つの例文だと被害妄想的なニュアンスがありますが、『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは誰しも経験があることですからね。 「ふと、メロディーが浮かぶ」という現象には、被害妄想的なニュアンスはありませんね。 ただし、「制止」自体が外部からの強制力を感じさせる言葉なので『制止が解けた』に関しては、被害妄想的なニュアンスが全くないかと問われれば、ちょっと微妙です。 しかし、疲れて眠っているときに突然金縛りになってしまった人が、やっと動けるようになったときの気分は確かに『制止が解けた』だと思いますし、他に表現しようにもちょっと難しいですね。 「制止」を使わずに他に表現するなら、「(体の感覚が)正常に戻った・通常の感覚に戻った」などになると思います。これならば、被害妄想的なニュアンスは含まれないですね。 >他にも『自分以外の何かわからないものが頭の回りを悪くしてきた感じがあった』とか『誰かが心臓の動きを止めたり動かしたりして操った感じ』なども被害妄想的なニュアンスが含まれていると思うのです。 これに関しては全く同感です。 *** >ただ、自分の中で『日本もなおす』『外国もなおす』『全部なおす』などの「なおす」がついた言葉が勝手に頭に浮かんだことがあって、~自分以外の何かわからないものが日本、外国、全部操ると思ったこともあったのです。 これは被害妄想なのかなぁ・・・??疑問に思いました。 私が迂闊なことを言うのも何なので、主治医にご相談するのが良いと思いました。 けれども、日頃疑問に思っていることが、ふと脳裏に浮かぶ(思い出される)ことは誰にでも有り得ることですから、私はそれほど奇異なことだとは思いませんね。 それがキーワードのように、散文や単語で思い浮かぶ方もいらっしゃると思いますしね。 各国の首脳会談や国際情勢などのニュースを見ていて「自分以外の何かわからないもの(例えば国家権力など)が日本、外国、全部操ろうと目論んでいるんだな」と思ったり、ふと突然思い出されたということであれば、全部が全部被害妄想とは言い切れないと思います。 私見ですが、そればかりが気になって、他のことが出来なくなってしまったり、眠れぬ日々が続いたり、ご飯が喉を通らなくなったり、外出できなくなったりだと問題有ありだと思いますが、ふと思い浮かぶぐらいなら全然気にしなくて良いと思いますよ。 それと差し出がましいのですが、「れる・られる」繋がりで、上記のご質問の文章を一部手直しさせていただきました。 どうかお気を悪くなされませんように。(“ ”で括ったのが元のご質問文で、「 」で括ったのが添削文です。) “それらは実際日本、外国、全部操られない(なおされない)のに” → 「それらは実際、日本、外国、全部操れない(なおせない)のに」 *** いただいた補足の件ですが、客観的に見て、どんな状態にあったか理解していらっしゃるということなのですよね。客観的な視点で物事を考えることができ、そして理解できるということは、とても大切なことですね。自分で感じたことを伝えることも大切ですが、客観的に物事を考えながら伝えて行くことも忘れないでいたいものですね。
お礼
再度ご回答有り難うございます! >『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは誰しも経験があることですからね。 : 僕もそう思います。誰しも経験があることだと思います。 ただ“被害妄想的なニュアンス”ではなく“妄想的なニュアンス”だと思いました。 僕は症状などが起きた時に責められている感じはしなかったと思われるので、単なる妄想だと思いました。 確かにそうです、 日本・外国・全部操れないのに「自分以外の何かわからないものが日本、外国、全部操ろうと目論んでいるんだな」と思ったり、ふと突然思い出されたということと同じような経験はあったと思います。
《眼球の動きを止められた感じがした》 《目の動きを中心に合わせられた感じがした》 《瞳を自由に動かすのを止められた感じがあった》 :外部からコントロールされた感じ(非現実)・被害妄想的なニュアンスがある。 『眼球を思い通りに動かせなくなった』 『眼球運動が出来なくなり中心に合ったままになった』 『瞳を自由に動かせなくなった』 :誰かに何かされたと感じているニュアンスや被害妄想的な要素はなく、 突然起きた自分の体の不調に戸惑う感覚。 自分が持った違和感に激しい疑問を抱いて外部に原因を追い求めたり、いつも誰かに責められているような感覚がある方は《 》の様な表現を使う傾向があり、単に突然眼球が意のままに動かせられなくなってしまうという、自分の体の不都合だけを訴える方は『 』の様な表現になります。 ですから、《 》と『 』はイコールにはならず、「~れる」「~られる」の助動詞を使わずに表現しても、《 》とは、ニュアンスが全く違った表現になってしまうので、「~れる」「~られる」の箇所だけをいじっても同じ意味にはならず、適切な言い換え表現にはなりません。 ご質問者がおっしゃる、「~れる」「~られる」を使わない表現とは、被害妄想的なニュアンスのない表現ということではないでしょうか。 自分の中だけで起きた出来事・自分だけの感覚だと解っていた上で、元の表現のニュアンスを留めて表現するのなら、 『誰かから何かされたわけでも、命令されたわけでもないと頭では解っているのに、何故だか突然眼球が自由に動かせなくなり、自分の体が自分のものではないかのように、全く自由が利かなくなった』という表現になると思います。 上記の文章なら、被害妄想的なニュアンスはないし、突然起きた体の不都合に困惑しているだけです。それでも、元の表現のニュアンスを保とうとすると、「された」という表現を使うしかなく、「~れる」「~られる」の表現を外すことはできないのです。 何故なら、ニュアンスが違う文章は、言い換えとは言えなくなってしまうからです。
お礼
ご回答有り難うございます! はい、po-ria1さんがおっしゃるように「~れる」「~られる」を使わない表現というのは、被害妄想的なニュアンスをなくした表現と言えると思います。 例えば『制止が解除された』『頭の中の音楽を再生させられた感じがした』というのは外部からコントロールされた感じで被害妄想的なニュアンスがあり、『制止が解けた』『頭の中の音楽が勝手に再生された』というのは被害妄想的なニュアンスがないことは言えると思います。 そのことについてpo-ria1さんがどう思うかが知りたくなりました。 他にも『自分以外の何かわからないものが頭の回りを悪くしてきた感じがあった』とか『誰かが心臓の動きを止めたり動かしたりして操った感じ』なども被害妄想的なニュアンスが含まれていると思うのです。 これらの表現を被害妄想的なニュアンスのない表現に言い換えたいという解釈は合っていると思います。 ただ、自分の中で『日本もなおす』『外国もなおす』『全部なおす』などの「なおす」がついた言葉が勝手に頭に浮かんだことがあって、それらは実際日本、外国、全部操られない(なおされない)のに自分以外の何かわからないものが日本、外国、全部操ると思ったこともあったのです。 これは被害妄想なのかなぁ・・・??疑問に思いました。 話が質問と脱線してしまったかもしれませんが、僕はpo-ria1さんからの再回答が欲しくなりました。
補足
補足です。 僕の中では、『眼球を思い通りに動かせなくなった』とか『眼球運動が勝手に止まった』ことが起きていたと思います。 もちろん『中心に合ったまま』ということもあったと思います。
- bakansky
- ベストアンサー率48% (3502/7245)
> 要するに何も具体的な対象を見る行為ではない「眼球(=瞳)が動かなくなる」状態、ということが起きていたのです。 この説明で良いのではないでしょうか。 あるいは 「自分の意志したことでないのに、眼球の動きが勝手に固まった」 とか。
お礼
ご回答有り難うございます! それ以外の言い換えをbakanskyさんが知っていたらお手数ですが、もう一度言い換え表現を書いてくれると助かると思いました。 心理療法家さんに「眼球の動きを止められた」を言い換えて下さいと質問したことがありました。 その方も「眼球を意志で動かせなくなった」「眼球を動かす意志が弱くなった、なくなった」「眼球が動かなくなった」などの言い換えしか思いつかなかったようです。 しかし眼球の動きを止められたというのは学術用語(=医学用語)かもしれませんね。 「目の動きを止められた」は学術用語とのことを担当医師はおっしゃっていましたから。
お礼
毎回丁寧なご回答を有り難うございます! 僕の中では >『あたかも、自分の手足の自由を奪われたかのように体が硬直していた』 >『まるで寝返りさせまいと、その場に居もしない誰かに体を押さえ付けられているかのように、体が全く動かなかった』 ―――の内容と同じような経験はあったと思います。 『あたかも、自分の手足の自由を奪われたかのように体が硬直していた』ということはあったけど、後者に関して“押さえつけられている”とは思いません。 でも参考になった言い回しだと思います。 それと、 >『視線をそらしたいのにそらすことが出来なかった』 『自分の頭の中の音楽が再生している感じがした』 『瞼を動かす機能が働かなくなる感じがした』 ―――の言い換え文に関してですが、被害感情および被害妄想的な要素をなくした表現と言えますね。 個人的にはそういう文章は相応しいと思います。 僕は『喫茶店の利用者さんの行動を見ていて、自分の頭の中の音楽が自分の意図とは無関係に再生した感じがあった』と言うことが起きていたと思うのです。 この言い方は大袈裟ですかね?後で身近な人にも聞いてみようかと思います。 僕は、「被害妄想」という言葉の意味を辞書で調べてみました。 “危害を加えられる,苦しめられる,責められるというような被害を主題にした妄想。”と某サイトにあった内容を信じます。 身近な人は責められるということ限定で被害妄想について言ってましたが、僕としては某サイトの内容を信じることにしました。 なので僕が言い換えたいのは妄想的・被害妄想的な要素のない文に書き換えたい意図は言えると思ったのです。 ただ、“勝手に”や“意に反して”という語を加えた場合は被害感情のない文限定ですね。 >「られた」も「させられた」も【受身】という形式ではある : そう言えますが、「させられた」は使役も伴っていますね。 >本当のところ、ご質問者には被害感情はなく、自分の意志とは無関係なことを強調したいが為に、敢えてそう表現しているということを仰りたいのでしょうか。 誰かがしたのではなく、病気の症状があなたの自由を奪っていたと言いたいのだけれど、それを素直に自分の言葉で表現すると、「~れる」「~られる」になってしまうと、こういうことなのでしょうか。 : おっしゃる通りだと思います。 自分の言葉「~れる」「~られる」が使われた表現で担当医師に病状を伝えて病気の症状と診断されて、このことが勝手に起こったということが本当だと言う答えを得ただけでもスッキリしたので、それで良いかと思いました。 関連質問とは脱線しますが、僕は操られている感覚、自分で自分を操る感覚を失った感覚もあってそれも統合失調症の症状だと担当医師は言いました。 統合失調症の作為体験はたくさんあると言うことは僕も言えると思いました。 「~れる」「~られる」が使われてない表現がどうしても知りたいのは診断が変わると思うからです。 僕は「勝手に再生された」自体誰にもあることだとは信じません。 前回誰にでもあることだと思いますと書いたのは本当は間違いなのです。 「既知の曲が自然と頭の中で再生された感覚」は僕もあったと思います。 受け身の「勝手に再生された」というのは身近な人も大袈裟であると言いました。 ここまで回答有り難うございました。