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国語は論理じゃない
国語は論理とかいうやからがいるのですが 論理のいみわかってつかってます? せめて国語的論理とかなんが限定修飾つけないと数学的論理とかと誤解を生むと思うんですよね 数学的論理なら 可能性は百パーセント排除できますが 国語はできないものが多いです たとえば センタープレの過去問だと 僕と同じだ に傍線がありこの時の気持ちを答えよ 母に会いたいと思った と 親近感が湧いたっていうので二択になると思ったんですが この場合もフィーリングだと思うんですよね 母に会いたい行動をとる描写がのちになくてもどうしてここで会いたいと思ってないと言えるのでしょうか? 国語は論理とかいってますけど どちらかというと常識ですよね? 常識的にこれになる=論理的って言ってんですよね? 常識で解くってことはフィーリングっていうほうが適切だとおもうんですけど 普通はこうであるとかそういう風に解くわけでしょ? それ論理じゃなくないですか? 誤解を生みますよね? あと人間の言葉なんだから数学的に当てはまらなくて当然ですよね? あなた文書書くときなにかルールに従ってます?フィーリングでしょ? 当然です 意味段落だって文章によっては分け方は二通りの可能性がでたり、絶対ではないのです また人工知能に国語をすぐにさせることができないのもここに難しさがあります 誤解を生む表現をあえて使うのはそのように言った方が聞こえがいいという、まぁ商売の話にいくと思うんですよね 私がいいたいのは論理とかいうひとの意見を聞きたいのです 本当に長くなってすいませんでした。
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- TANUHACHI
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いささか興味深い質問でしたので、回答に対する質問者の対応が如何なるものかを注目していましたが、未だにコメントする気にもならないご様子ですので、一言お話しさせていただきます。 【質問者の疑問1】 「数学は論理であるが国語は論理ではない(=数学の問題は論理で解くことができるが、国語の問題を論理で解くことはできない)」 ここに使われている「論理」ですが、恐らく質問者は形式論理学での「命題論理」をイメージしての指摘でしょう。けれどもその理解の仕方も中途半端であり誤解してもいます。中途半端ですから誤解するのも無理はありません。 論理学では真偽が判定できる文のみを扱い、この様な文を命題と呼びます。そして命題論理は「その文同士の接続に関する論理」ということができます。論理学で扱う「論理接続詞」は二つの種類しかありません。「かつ」「または」の何れかです。これに対し「文章の接続詞」には「かつ」「そして」「なお」「しかし」「なぜなら」「すなわち」「または」「あるいは」等々と幾つもの種類があります。古典論理学では文が正しいか間違っているかとの真偽のみを気論するので、それに関係のない部分は無視して考えます。たとえば、「今日は寒いが、しかし湿度は高い」との文章が合った場合、どの様な解釈が成り立つでしょうか。 静電気の苦手な人だったら、恐らくはこの様に言うでしょう。なぜなら、寒いのは確かに困るが、湿度が高いと静電気のバチバチを気にしなくとも良いから。 一方この文章が「今日は寒いし、その上に、湿度も高い」となっていた場合はどうでしょう。この文章を書いた人物は、寒さが苦手で「かつ」多汗症か血圧が高いか何かで湿度が高いのも苦手で困るから、この様に書いた(論理を示した)のでしょう。 この文章を古典論理によって書き換えると次の様になります。すなわち「今日は寒い かつ 湿度は高い」と二つの事実のみを述べる無味乾燥な文章になります。この「かつ」が国語の接続詞である「だから」だったり「けれど」だったならば両者は全く質の異なる文章になります。これが「せめて国語的論理とかなんが限定修飾つけないと数学的論理とかと誤解を生むと思うんですよね」との思い違いの原因でしょう。質問者の感想は表面的に正しいように見えますが、そこに落とし穴があります。その理由をお話しします。 【真か偽か-古典論理の言葉と日本語の言葉の論理】 「花子は少女である」と「太郎は少年である」この二つの文章がある時に、「花子は少女であり かつ 太郎は少年である」との文を作ることができます。この時「花子は少女である」をAとし「太郎は少年である」をBと表記するならば、「花子は少女であり かつ 太郎は少年である」を古典論理で表現すると“A∧B”となります。 さて「花子は少女であり かつ 太郎は少年である」は「花子は少女である」が真で、かつ「太郎は少年である」が真である時にのみ「真」となります。AもしくはBの何れか一方もしくは共に逆である場合は全て「偽」となります。 「または」のケースを考えてみましょう。古典論理の「または」に相当する日本語の接続詞は「または」「か」「もしくは」「あるいは」などがあります。「彼か彼女が犯人だ」との文章があった場合、彼と彼女の二人が犯人であるという意味は成り立ちません。普通ならば「何れかが犯人である」との意味になります。 もしこれを「何れもが犯人である」との文章にするならば、日本語としては「彼 も 彼女 も 犯人だ」となります。ここまでは一般的な理解と異なりません。がしかし古典論理では異なります。 古典論理の「または」では「彼 または 彼女 が犯人だ」という命題は彼と彼女の二人ともが犯人の場合でも正しいことになります。なぜだかおわかりでしょうか。ここが肝腎な部分です。 これを先程同様、記号で表記し「彼」をA「彼女」をBとするなら“A∨B”となります。これを命題に即して図示してみるとどの様になるか。「かれが犯人である」との事象をA、「彼女が犯人である」との事象をBとしてそれぞれを楕円で図示すると「または」は楕円Aと楕円Bが重なる部分のみになり、と同時にAとBそれぞれの要素が同時に成り立っていることを示してもいます。こうしたことを念頭に置くと、 >数学的論理なら(真か偽か以外の)可能性は百パーセント排除できます などとは言えないことになってしまいます。 恐らく質問者は今年のセンター試験に面喰らったことでしょう。けれども僕の世代では何ともない設問です。小林秀雄や唐木順三、丸山眞男等の文章も全体と部分の関係やメタファを順に読み解いていくだけの作業でしかありません。筆者が組み立てるアルゴリズムをどう受け止めるかだけの問題です。それが理解できないことはそれだけの能力しかないとの話になります 爆!
- 2001nachi
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国語は論理ですね。 まず論理の『理』の文字ですが、この語源は“分ける”と云う意味です。 そして“論”ですが、これは云うまでもなく『論文』等で使うように、“繋ぐ”と云う意味になります。 即ち『論理』とは“分けて繋げる”と云うことですよね。 また、論理で読まなければ現代文は読みにくいと思うけどな。 例えば逆接が来たら文脈が反転することだったり、評論文を見ていれば一つのテーマに則して“三段法則”を取り入れていたり、“弁証法”を取り入れ、結論迄持って行くケースが多いです。 そのやり方が良いと私は思いますが、それは違うと云う考えもあると思うのでそこまでは強制しません。 しかし、本当に読みやすい文章はそういう文章であり、フィーリングでかけるとしたら超天才かも知れません(エッセイは除く)
- LinguaFranca
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国語は論理です。きちんと言えば、非形式論理です。 数学は形式論理学にのっとって議論されます。形式論理学は数理論理学や、記号論理学とも呼ばれます。 一般的に論理というのはこの形式論理学をさすことが多いです。質問者さんの論理というのもこの形式論理を指すと思います。 国語でいう論理は非形式論理のことです。(下記のURLを参考してください。ウィキペディアより)質問者さんが考えているように、非形式論理学は論理学ではないと主張する人もいます。 つまり、質問者さんの疑問の根本はきっと「非形式論理は論理か否か。」というところにあると思います。 ある人は論理だといい、ある人は論理ではないというでしょう。 しかし、非形式論理学を論理学として認めれば、「国語は論理だ」と言えます。
>あなた文書書くときなにかルールに従ってます?フィーリングでしょ? 当然です >意味段落だって文章によっては分け方は二通りの可能性がでたり、絶対ではないのです >また人工知能に国語をすぐにさせることができないのもここに難しさがあります 難しいことを言っておられますね。 おおむねその通りだと思います。でも 文章を書くときに意識せずともルールにしたがっていることはたしかでしょう。ですから こういうふうにお互いに理解し合えるのです。あなたが日本語を論理的に使っているからだと私は思います。 どんな学問でも、芸術でも、スポーツでもそうだと思いますが、フィーリングを学ぶのは基礎、常識が完全に出来て、理論(論理的なもの)が身に着いてから、それ以上の、言語で表現できない高度なところに来てからではないでしょうか。 テストでの2択、3択問題でフィーリングが幅を利かせたら、出来ないひとがふえるでしょうし、先生も正解を作るのが困難になるかもしれません。 芥川賞級の小説を書く訓練をするための勉強ならともかく、高校国語はほとんど常識で解けます。”常識”を身につけるための教育が高校の教育だろうと思います。
自然言語、つまり言葉は論理を踏まえたうえで解釈します。言ったり書いたりするときは、それを前提として言葉を発する必要があります。 散文でなく詩などでは、効果を出すため、言いたいことを伝えるためには、敢えて文法を含めた言葉の『常識』を破ることがありますが、それは『常識』があるからこそです。 もちろん、聞き手や読み手と共有している状況があれば、それは省略できます。会話であれば核心だけ言って、相手の反応に応じて補足したりもします。言葉を濁すといったことのように、敢えて言わないといったこともあります。 言葉によるコミュニケーションでは、常に全てを覆い尽くすようにはできません。それは事実ですが、だから論理ではないとすると、伝わるものも伝わらなくなります。それも承知して、他人の言葉を受け取り、自分も言葉を発するべきです。 論理ではない、ではなく、論理だけでは足りないということになるでしょうか。