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 投票行動についてよく分からないので教えて下さい。

 選挙の投票率の低さが問題となっていますが、これを上げるためには、投票行為による利益が、投票行為に要する費用を上回る必要がある、などとよく言われます。  ところがこれは結果を検証されない繰り返しゲームのようなものであり、いわゆるFreeRider問題であるので、投票に行くフリをして実際は行かなくても、誰からも名指しでとがめられることはありません。  従っていくら投票行動によって得られる利益が上がったところで、結局各個人にとっては投票所に行かないことが経済合理的となる、つまり原理的に「各個人にとっては、投票所に行かない方が必ず得」なのでしょうか?  しかし現実には投票率は0でないですが、このことをどう解釈すればいいでしょうか?単に人間が完全に経済合理的になりきれていないだけ、なのでしょうか?それともやはりこの考えが間違っているのでしょうか?

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回答No.2

『 社会 ― 政府  人体に決定機関である脳があるように、社会にも、決定を下す政府というものは必要不可欠である。権力に知性を与えてくれる”天才政治”の原則を適用した政府をつくるために、あなたがたは最善を尽くさなくてはならない。前述した人道的人類主義と天才政治を主唱する人類主義世界政党の設立に参加しよう。そして、その候補者を支持しよう。天才政治だけが、人々を黄金時代に完全にいたらしめることができる。 完全民主々義はよいものではない。全細胞が命令を下すような体では、生存できないのと同じである。知性ある人々のみが、人類に関する決定を行えるようになるべきなのだ。天才政治と人道的人類主義を主唱する候補者が立候補する場合以外は、投票を拒否することである。  普通選挙も世論調査も、世界統治には有効ではない。統治することは先を見通すことであり、羊の群れのような民衆の反応に従うことではない。彼らの中には人々を指導し得るほど十分に覚醒されている者は、ごく一部しかいないからである。覚醒された人というのはきわめて少ないので、普通選挙や世論調査に基ずく決定は、大多数の民衆の、蒙昧主義的潜在意識による本能的反応の選択にしかいきつかないものである。 選択的民主主義である天才政治のみが、価値あるものなのだ。そして、公職に付くことができるのは、生まれながらの知性が平均よりも50パーセント以上優れた者にかぎるべきであり、それを選出できるのは、生来の知性が平均より10パーセント以上優れた者にかぎるべきである。  科学者たちはすでに、われわれの知性を計測する技術を完成しつつある。彼らの忠告に耳を傾け、人類の最も貴重な鉱脈である知性の優れた子供たちが、それにふさわしい教育を受けられるよう努力しよう。普通教育は結局、普通の子供たち、つまり平均的知性をもつ子供たちのために、つくり上げられたものにすぎないのである。重要なのは、獲得した資格の数ではない。資格証書が証明するあまりおもしろくもないない能力、記憶力などは、機械で代用することができる。生まれたままの知性こそ、農夫や労働者を技術者や大学教授以上にさせるものなのである。この生来の知性は、良識や創造の才能と同列に考えることができる。というのは、発明の大部分は良識の問題だからである。  統治することは先を見通すことであり、人類が直面している難問題のすべては、これまでの政府が先を見通すことができず、したがって統治することができなかったことを立証している。それは、民衆の問題ではなく、責任者を選ぶのに使用された技術の問題である。選択の方法が有効に機能しなかったためである。だから、原始的な民主主義は、選択的民主主義にとって代わらなければならない。この選択的民主主義とは、知性の優れた人々を権力の座につかせる天才政治のことである。それはそう困難なことではないのである。  _ラエル著  』  選挙には、不正と疑惑そして失望と堕落が付いて回る。そして、その結果には、危険国家_日本のレッテルすら貼付される。  なにが、その危険を演出するのでしょうか。 上記に、" 羊の群れのような民衆の反応に~ " とある。 日本には、ひつじの群れ_選挙有権者が1億人弱いるということになる。 その、" 大多数の民衆の、蒙昧主義的潜在意識による本能的反応の選択 "、危険なのではないでしょうか。 それらに組しての選挙結果、今まで散々味わった結果であることは言うまでもない。 人びとがそれぞれ、その趣向により選択する小学校の選挙、それと国政選挙はまったくの相似である、バラエティー番組_おまつり行事なのである。その後の始末、天のみぞ知るではないでしょうか。 ひつじたちの楽しみは、草原にあるのでは。草原に何か(不調)があったらお終いである。 わたしのすきな草原が長く続くことを祈るばかりである。  一方、政治_行政_官僚、それらが一般人と羊ごっこを繰り広げること、それは許されない。1億3千万のひつじが、所狭しと生活する国、それが日本である。 その隅々まで、綿密な計算としなければ人工草原とそのひつじたちはおわりである。  投票所に行って、そのひつじたち、明日の不安なひつじたちになることは、良しとしないのではないでしょうか。

sinkingfeeling
質問者

補足

お疲れ様でした。

  • papapa0427
  • ベストアンサー率25% (371/1472)
回答No.1

そりゃそうでしょ。 >投票行為による利益が、投票行為に要する費用を上回る必要がある って要は「利益」というもは「政治や生活が良くなる」って事で、「費用」は投票に行く手間と労力という事でしょ。つまり政治家に投票しても生活が良くならないと考えている人が多いから投票率が低いのだと思いますよ。 >誰からも名指しでとがめられることはありません。 だって、投票権といって政治家をえらぶ「権利」です、義務ではありませんので。 >単に人間が完全に経済合理的になりきれていないだけ ちがうでしょ。それでも政治を変えたいと思う人がいるでしょうし、あきらめきれない人たちもいるってことですね。わたしもあきらめたくはない方ですが全権委任してもよいような政治家がいないのが残念です。

sinkingfeeling
質問者

補足

 ご回答ありがとうございます。しかしながら、私の説明不足だったようです。選挙民の政治参加に対する責任感や熱意といった倫理的要素は、ここで問題にしていません。  選挙民が自己の最大利益を追求する事を認めたうえで、それが一種の均衡状態に達したとき(つまり全ての人が最も要領よく行動したとき)、自然と投票率が上がっているようにするにはどうすればよいか?というのが私の知りたい事です。  そして、そんなものは無いのではないか?というのがとりあえずの結論です。その理由は先に述べたとおり、本質的に「ただ乗り」できるからです。その結論を批判してもらいたいのです。

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