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父との最後の時間…体験談などお聞かせください。
海外在住、男性です。 父が不治の病との連絡があり、最悪半年の命とのことでした。その半年という期日が来月に迫り、いつもより少し長い休暇を無理にもらいその来月に帰国することにしました。 自宅療養になり、電話口に出るようになった父の声は、以前に比べると力なく聞こえるのですが、一時に比べ元気が出てきたかなぁ、などと思えるようになりました。 ねっとでいろいろ調べてみると、予後のあまりよろしくない病気で、今、この元気な感じの父が、いつまでこうしていられるのかな?などと考えてしまいます。 帰国して普通に接しようとは思っています。でも、やはりこれが最後になるかもしれないと思うと、子供のころから泣き虫だったのがいまだに治らず、涙がこぼれそうになります。こちらに帰ってくるとき、涙なしで帰ってこれるかな?いい年の中年オヤジが街中で涙流しているのも変だよな、などと今から考えています。 心の準備体操に、皆さんのご体験を聞かせていただければ幸いです。
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- qwe2010
- ベストアンサー率19% (2193/11072)
94才今年父を亡くしました。 病院とか施設には入れないで、家で最期を見取りました。 頭はしっかりしていて、身体が少しずつ衰えてきて、今までできていたことができなくなるのはとても辛い物があります。 痛みはないのですが、何度も涙を流す父がいました。 私と妻、子供で介護をしました。 私には何も言いませんでしたが、時々妻に「ありがとう」と言っていたみたいです。 頭の散髪、ひげを剃ったり、身体を拭いたり、下の世話をしたり自分でできることはすべてしました。 私たちのことを、ずっと心配してくれていた、父を見ていたので、みんなで協力して介護ができました。 父が亡くなったとき、苦しみから解放されて良かったね、と心の中でつぶやきました。 涙は、でません。
- Louisville
- ベストアンサー率32% (138/420)
私も海外在住です。 丁度2年前に父を亡くしました。 かなりの高齢だったので、質問者さんとは少し状況は違うかもしれませんが・・・・。 8月に姉から連絡があり、「お父さんが入院した。医者の話ではあと、1ヶ月くらいかもしれない。」ということでした。 8月の終わりに帰国しました。 意識は全くなく、目も開けられない状態でした。 それでも、私が「お父さん!! アメリカから帰ってきたよ。」というと、泣きそうな表情になりました。 それから、1週間ちょっと、毎日、病院にいきました。 ときどき話しかけたりしていました。 看護師さんが「お父さんは答えられないけれど、あなたがいるのはわかっていますよ。」と 言っていました。 医者の話では「いつ、その日がきてもおかしくない状態なので心の準備をしていてください。」ということでした。 9月8日の誕生日を迎え、父は96歳になりました。 私もずっといるわけにもいかないので、アメリカにもどりました。 それから3週間後に父は逝ってしまいました。 飛行機の中で静かに泣きましたよ。 結局、お葬式には間に合うフライトもなく、四十九日に帰りました。 日本に向かう飛行機のなかで (あぁ、もう、日本に行っても父はいないんだなぁ。)と思うと涙がでました。 でも、夏の終わりに父の耳元で「お父さん、ありがとう。」と 何度もいいましたので、悔いはありません。 14年前、アメリカに発つ 私に「生きているうちに会えるかのぉ?」 というので、「今は海外なんて、近いものよ。」といいました。 結局、3回、会いました。 臨終にも、お葬式にも間にあわないかもしれない。 これが、海外に住むものの宿命です。 国内に住んでいれば、臨終には間に会わなくても、お葬式にはでられるでしょう。たとえ、どんなに遠くに住んでいても。 今年の年末、92歳になる母に会いに、帰国します。 涙はいつか、かわく日がきますから。 大丈夫ですよ。 「親を見送る。」 これは 順番ですからね。 「心の準備体操」のお役にたちましたかしら?
お礼
両親ともに80を超えました。母も最近心臓が悪いらしく、父に先立たれた場合、心細いかななどと考えています。 いつかはこうなる、間に合わないかもしれない、ということはたび思っていたのですが、いざ目の前にことが迫ってみると、何か心の中に重たいものが引っかかったような感じがしました。 10年ほど前に、自分自身の命がどうなるかわからなくなったときに、「せめて親より後に」と思っていたことを実現できそうです。 涙はいつか乾くんですね。そうですね。 ありがとうございました。
- mama4615
- ベストアンサー率18% (987/5267)
とても 辛い状況かと思います。 それは 貴方だけではなく お父様自身も 辛いかと思います。 私自身 数年前に 実母を アミロイドーシス と言う病名で 亡くしてます。 発覚するにも 数カ所の病院を回った、だけど不明、大学病院に行き やっと病名が分かったのです。 発症すると 予後は悪く、、、、治療法は無い。 医師からは 余命半年 と言う宣告(母は宣告は聞いてません) 言い方は悪いですが ガンであれば 治る治らないは別として 治療法はあります。 放射線、外科的、、、薬だってあります。 でも 母には それがなく、とても言える状態でもなかったので。 なるべく 母と一緒にいる時間を作りました。 もともと 引き取って暮らしていたので 時間を作る事は 距離的には問題無かったのですが、私には夫も居れば 子供もいますので、時間を作るには結構大変でした。 パート先には事情を話しし 理解をして貰い、周囲の協力を得ました。 退社も伝えたのですが 周囲は退社よりも 短時間でのパート と言う提案をしてくれたので その点では助かりました。 ただ、やはり 母は口では 元気そうな素振りをしたり言いますが 体力は日に日に落ちますし 箸が使えない程の衰えもありました。 当人は 分かっていたと思います。。。自分には先が無い。って。 親子して 騙し、騙されている と 言う生活をしていました。 体調が良い時には 2人でランチに行ったり、家でお茶したり。 嘘は良くない事なのですが これ美味しいらしいからって薦められちゃって買って来ちゃった と 言いながら母とお茶したり。 そうでもしなければ 自分が自分では居られなく、破壊されそうな感じだったのだと思います。 ある意味 嘘も方便、優しい嘘は 必要な時もあると思っているので、どうか お父様には 自分の成長を見せてあげて下さい。 きっと それは お父様の1番の嬉しさであり、安堵でもあります。 動けるうちに動いた方が良いです。 日帰りでも一泊でも 色々見られれば その時だけでも 気分は変わります。 実母の場合 3月に 半年と言う余命宣告。 何度か入退院を繰り返し、8月には 母が孫と旅行に行きたい事を実行しました。 もぅ8月の時には 腹水は多くあり 歩く事がやっとの状態。 本来であれば 病院に居れば 数日間でも長く生きられた可能性も捨てきれませんが 治らないのに 病院に綴じ込め 何をするにも気を使い、安らげる事も無いのは 辛いですからね。。。 旅先で死んでしまう 事も 覚悟してました。 どうにか 行かれ、9月には 再度入院、また退院し(医師の薦め) 10月に再度入院、11月上旬に 他界してます。もう今年7回忌です。 当時 出来る限りの事は やったつもり なんです。 でも 時間が過ぎると もっと出来たんじゃないか もっと別の言い回しが出来たんじゃないか 宣告した方が良かったんじゃないか。。 等 様々考える事は出来てしまいます。 悔いが残らない 事は有り得ません。 どれだけやっても 悔いは残ります。 出来る事は 可能な限り 悔いを残さない事です。 泣いて解決する事もなく 泣いて親が心配するだけです。 どうか 泣くのは 飛行機の間だけにしましょう。 泣いてはならない ではなくて 泣く場所は必要です。 私の場合は お風呂しか無かったので、、、、。 湯船に口だけを入れて ブクブクになってしまいますが それしか方法が無かったです。。。 一戸建てですが 泣けば娘達が心配し 夫も気を使うでしょう。 当然 母も何事か、、、と不安にもなる。 お風呂であれば わざと洗面器の音をさせてみたり 脱衣所で洗濯機を 回しながらだったり、、、。 自分が泣ける場所 だけ 確保して下さい。
お礼
ありがとうございます。 ないて解決をしようとは思っていないのですが、なぜか自然と涙が出てきてしまうときが多くなりました。 できることを可能な限りですね。やってきます。 幸い一人暮らしなので、なく場所だけは確保できています。
お辛い気持ちお察しいたします。 一年半前実父を亡くしました。 帰国時はどうぞできる限りそばにいてあげてください。 父は数十年前に癌を発病ステージ4でした。 仕事を減らし姉妹交代で一日おきに看病していました。 退院後の闘病中もできる限り支えてきた甲斐あって癌は根治いたしました。 その後も生死の境をさまよう病気を繰り返ししてきましたが無事に生還してきた父でした。 肺炎で入院中のその日、一人で静かに逝ってしまいました。 家族のだれもが間に合いませんでした。 癌発病から最後は脳梗塞の再発で寝たきりの状態でしたが 看護介護中本当によく父と話しました。 母には内緒の話もよく聞きました。 脳梗塞後は話すこと考えることが儘ならないためか面倒くさがっていましたが 昔話になると、次から次に思い出が溢れてくるようでおしゃべりが止まらなくなっていました。 寝たきりで痩せてガリガリの姿。食事を食べさせおむつを替え、元気だったころの父の面影の かけらもない状態でしたが、父娘、家族、孫と本当によく笑い合っていました。 一人逝かせてしまったことの悔しさはあります。 ただできる限りの事はしてきましたし、父との大事な時間をたくさん持つことができましたので 心残りはそれほどありません。 「無理するな」「俺の事は後回しでいいぞ」…とよく言っていました。 一個の人間としてみてくれていても、やっぱりいつまでも子供は子供なんですね。 母には我儘言いたい放題でしたから。 あなた様は海外にお住まいとか? 臨終には立ち会えないかもしれないと覚悟をお持ちなのだと思います。 泣いてもいいと思います。どうぞお気持ちのままで。 でも男同士話すことも多いのでは? 泣く間もないほど思い出話に花が咲き、お父様の当時の思いを知って新たな父の姿を見ることが できるかもしれません。 お父様に覚悟がおありなら今後の話が出るかもしれません。 父親が亡くなる悲しさより、今まで生き抜いてらした父親の姿に思いを馳せれば この度の帰国は辛い悲しいだけにはならないようにも思います。 帰国中、お父様との貴重な時間をたくさん作っていかれてください。
お礼
父も癌です。手術が無理になるくらい大きくなっていたようです。 12月に帰国するからね、と電話で話したときに「大丈夫、まだ生きているよ」と言っていました。 ここ十年の間に片手で数えられるほどしか帰国していませんが、そのたびに両親が小さくなっていくのを見てきて「ああ、いつかは来るな」と言う覚悟だけはしていました。 悲しいだけの帰国にならないようにしてきます。 ありがとうございました。
- diamond_2104
- ベストアンサー率22% (2/9)
48歳の会社員(兼業主婦)です。13年前、夏の暑い日に、65歳だった実父を癌で亡くしました。 自宅療養していた父を、母はつきっきりで看ていましたが、疲れからか帯状疱疹になり、看病がしんどくなったため、母の体調がよくなるまで父には入院してもらおうという事になり、7/21に入院させました。 翌日から私と義姉で、昼夜交代で病院へ父を看に行くことになっていたので、準備もあって入院させた日の夜は病院へ行きませんでした。でも、床へ着くと何故か父の事が浮かんできて眠れませんでした。今思えば胸騒ぎのような感じもします。 翌朝出社して、昼に病院へ行くことを考えながら仕事をしていると母から電話があり、すぐに病院へ行ってほしいとの事。何が何だかわからず駆けつけると、痰を喉に詰まらせ急遽、喉を切開された父が意識朦朧としていました。呼びかけにも力なく頷くだけで、会話どころか声も聞けない状態でした。ベッド脇のテーブルには、前日入院した時に私が売店で買ってきたバンと水が、その時に一口ずつ口にしただけの、そのままの状態で置かれていました。それを見て涙が止まらず、なぜ夕べ父の様子を見に来なかったのだろうと、悔まれて仕方ありません。13年経った今も、その光景は目に焼き付いています。 入院する時、自宅を出る前に自力でトイレに寄った父が『これで俺も終りか~』と言った言葉、今も耳に残っています。 入院してわずか一日、7/22の夜、父は亡くなりました。 時々ふと父に会いたくなります。厳しくて、特に娘の私には口うるさい父で思春期の頃は父が大嫌いでしたが、この人が父で良かったと今は思います。 別れの時は、突然であったり、静かに訪れたりすると思います。 どんなに手を尽くして看病したとしても、残された人には後悔はついて回ると思います。 でも、それを思い出す事も供養の一つではないかと考えます。その人の事を思い出す事、思い出話をする事で、残された人の心も少しずつ癒されて行くような気がします。 私は今でも、父を思い出し涙する事があります。子供の頃のように、『お父さん』と口に出してみたりもします。 取り留めのない書き方をして申し訳ありません。 形は違えど『ツライ』思いは同じだと思います。 穏やかな最期が訪れます事をお祈りしております。
お礼
ありがとうございます。 私の場合、父は考える時間をくれたんだと思います。 告知から半年。この間、いろいろなことを考えることができました。 いろいろなことを思い出し、一人で笑ってみたり、ないてみたりしていました。今回の帰国で、できればそれを父と一緒にしてきたいと思います。
- ni_si_ki
- ベストアンサー率19% (302/1586)
私の父は自由人でした。 母の死後単身で生まれ故郷に帰り、電話しても出ない、いったいどこほっつき歩いているんだと心配していると、海外からハガキが届いたり、かと思えば突然娘達の家に顔を出したり。 父方の墓参りに家族と行った帰りに近くにある国立公園に足を運んだら、父が外国の方々に英語でガイドしていて、超ビックリな時もりました。 そんな父が亡くなったのは3年前。 ボランティアで通学路の旗持ちをしていた父が、時間になってもやって来なかった。 心配して下さったお母さん達が父の家に行くと玄関先で旗を持ったまま亡くなっている姿を見つけてくれました。 持病も抱えていた父ですが、ご近所さんの優しさに助けられていたんだと、私達子供は感謝してもしきれません。 後悔ですか? 全くないです。 本人の望んだ人生だったと思えますから。
お礼
ご本人の望む人生だったんですね。すばらしいです。 私の場合は逆バージョン。覚悟が決まる前に家を出て今に至りました。空港から電話して「今から数年間海外で生活するから、また連絡するよ」と留守電に残したのはもう20年近く昔になります。 今に至るまでに、覚悟の「か」の字ぐらいを心に刻むことができていると思います。 父の望んだ人生、どうだか聞いてきます。 ありがとうございました。
- thsplusS
- ベストアンサー率23% (4/17)
40歳男性です。 少し違いますが、私は今年5月末に妻と死別しました。 何の病気も無く、GWもお弁当を持って、妻の友人家族と潮干狩りやアスレチックに出かけていました。 本当に突然の別れでした。 もう少しで半年になります。 何よりも妻に対しての後悔ばかりが先立ってしまいます。 ケンカしたこと、泣かせたこと、心配させたこと、気を遣わせたこと。 絶対、後悔は付いてきますが、一つでも少しでも後悔を減らして下さい。 お父さんの笑顔を引き出してあげて下さい。 私は妻を最期に送る際に初めて「ありがとう。」と言うことができました。 私は意識の無いまま20日間頑張ってくれた妻へ一方通行の会話ですが、声を必死でかけました。 質問者さんのお父さんへは言葉が伝わります。 いっぱい話しをして下さい。 お父さんにいっぱい触れて下さい。 帰国のお土産は笑顔とあなたの元気な姿です。 私は妻との思い出のある場所などを仕事で通りかかると自然に涙を出しながら歩いていますよ。 私は自然と出る涙は我慢せずにいます。 私も泣き虫中年です。 小学生の2人の娘達にもお父さんは泣き虫やねって最近言われます。
お礼
まだ意識も言葉もしっかりしているようですので、しっかりと会話をしてきます。 「ありがとう」の一言が言えるよう 先の方も書いたくださいましたが「涙はいつかは乾く」 自然と出る涙は我慢しないほうがいいのかもしれませんね。 ありがとうございました。
- tsuyoshi2004
- ベストアンサー率25% (665/2600)
ご家族の構成やお父様自身が病気のことをどの程度知っているのかなどがわかりませんが、 私の場合は、父自身がそうは長くはないことを自覚していたことや私自身が父の仕事の後継ぎをしていることがあったので、 私の中では「どうしたら父を安心させられるだろうか?心残りなく逝ってもらえるだろうか?」を考えてました。 当然、仕事のことに限らず、母のことや事後の処理などいろんなことを必要に応じては相談して指示を受け、それを父に約束しました。 あとは、小ざかしい話ですが、残される側としての心残りを少しでも減らすように努めましたね。 後々になってああしてあげればよかったなどと思わないようにできることはしたつもりですが、結局はやはり心残りはありました。 綺麗ごとかもしれませんが、最後のできることって「あなたの息子はこんなに立派になりました。」という姿をお父さんの前で見せることなのではと思います。 それでお父さんには見えないところで、女々しく悲しみに浸りましょう。
お礼
母に言わせると、主治医ははっきりとものをいうタイプの方だそうです。ですから父自身、自分の病状はしっかりとつかめているようです。 如何にしても、心残りはあると思います。でも、それを以下に最小限にとどめるか、努めてみます。 ありがとうございました。
私が父を亡くしたのは中学生の頃です。 父はまだ45歳でした。 とても優しく強く理想の父でした。 その日は近所の神社のお祭りで、朝早くに目覚めた私は「ごん」という変な音で、階下に行きました。 父が、朝御飯を食べ、そのまま倒れた音でした。 祖父母が父を呼ぶ声だけが響いていました。 救急車で運ばれましたが、もう息をひきとっていました。 何もかも一瞬でした。 前の日は、買い物に行く約束をしたばかりでした。 おでこが広くなった父が「もう長くないかもな」と冗談で言ったのが本当になりました。 当時は私自身幼く、どこかドラマの中のような、現実味のない気持ちでした。 ただ、母は1年くらい心から笑った顔を見たことがありませんでした。 今思えば、その日、母は朝早くから山菜を採りに出かけていて、父の死の瞬間にはいませんでした。それがよかったと思います。その場にいたら、母は気が狂っていたかもしれません。 私たち家族は、誰も父がこんなに早く亡くなるなんて想像もしていませんでした。 もし、知っていたら、もっと父に甘えたかった、旅行も行きたかった、私が可愛くていつまでも一緒にお風呂に入りたかった父…何で嫌だと言ってしまったのだろう。 あなたにはまだ時間があります。 どうか後悔されないよう、大切な時間をお過ごしください。 私は思います、大切な人を残して逝くのは心残りだろうと。せめて、残ったものは幸せにならなくては。いつも笑顔で生きていかなければ。健康で長生きしなければいけないと。 それが亡くなった人のためでもあると思います。
お礼
お父様の死は突然だったんですね。お心お察しいたします。 先にも書きましたが、父は私たちに時間をくれました。 人間いつかは、遅かれ早かれ「死」に直面する。 いかに見送るか、いかに「残されるか」大切なことですね。 ありがとうございました。
- t-r-mama
- ベストアンサー率59% (396/665)
私は、自分の結納直後に父が亡くなりました。 医師の診断ではもう少しもつとのことでしたが、 比較的若かったので進行が早かったようです(癌でした)。 職場の近くの病院に入院していたので、毎日出勤前に寄ってから仕事に向かい、 終業後にも病院に寄ってから家に帰り、 土日の片方は1日付き添いしていました。 入院が長かったので、付き添い時は日常生活状態に近く、 家で一緒に過ごしている時とほぼ同じ感じでした(笑) 自分はテディベアを作るのが趣味だったので、 病室で作っていた記憶があります。 元々、元気な時も、割と父の部屋に行って作業していたので… (理由は、エアコン節約のためですが・笑) 自身のウエディングベアも、病室で作りました。 気を遣う相手が一緒だと、病人に気を遣わせてかえって疲れてしまうので、 本当に普段どおりにしていました。 最後は幸い、「もうすぐ」というのが分かりましたので、 家族でずっと付き添うことができました。 病気の進行が、早かったとは言え少しずつではあったので、 自然と心の準備ができたように思います。 その後はもうバタバタなので、落ち込んでいる余裕はありませんでした(^^; 今でも、仕事を頑張っていた父だったので定年まで仕事させてあげたかった、 結婚式を見てほしかった、 子ども好きな父だったので、わが子を抱いてほしかった、とか、 たまに思い出しては涙が出そうになりますが…。 余命宣告を受けてから天国に行くまで、 私なりにやれることはすべてやり、 体調崩しそうなほど無理なことは無理してまではやらず(笑)、 後悔のないようにできたので、満足しています。 今まで通りの自分、立派に成長した自分の姿を見せることが、最後の親孝行だと思います。 そして私は、敢えて甘えることも…なんて思って、少し甘えたこともあります(笑) 父が自宅療養中、父を静かに療養させてあげるべきと分かっていつつも、 私が怒ってキレたこともあり、しっかり説教されました(笑) 我慢しきれず私がキレて机をひっくり返した時も 一緒に片付けようと言ってくれ、片付けるのを手伝ってくれました。 (キレたのはこの2回だけですが…後で考えると、私も限界近かったです^^;) そんなことも、いい思い出です。 弱輩者の回答ですが、少しでも心の準備の手助けになれば、幸いです。 お父様が心安らかに旅立てますよう、質問者様が悔いのないお別れができますよう、 お祈りしています。
お礼
告知時の医師の予想よりかは長生きしてくれそうです。 今はただただ、苦しみませんようにと祈るばかりです。 普通に、今回の休暇ではあってこようと思っています。 心の準備のお手伝い、本当にありがとうございました。
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お礼
ありがとうございます。 なるべく家にいてほしいと思っています。できれば最後まで。 私がそばにいて上げられる時間は限られています。その間、できるだけのことをしてあげたいと思います。 苦しまずにいてほしいと願っています。