文化人類学の専門家でもなんでもない素人です。
私は好んで、広くアメリカ舞台のさまざまな時代の映画を観て来ましたが、
特に「南部」を取り上げるとしたら、古くより、独特の土着文化や宗教・信条の特徴があるようです、
「フライドグリーントマト」の舞台も、現代よりも時代を遡った時期なので、
あえて「古風」な南部を選んで、暮らして生きている女性(家庭女性・婦人)をとりあげて、
「目覚めさせる」~革新的に意識を刷新させる~という意図や目的を呼称に付けていること自体に、
そもそも、おかしなところがあるわよね、
という、しゃれ・揶揄・苦笑~みたいな雰囲気を出したかったための台詞だと、私は感じました。
「わたしたちっていう、南部の女に対して、今さら「目覚める」も何もあったもんじゃないわよね、可笑しいったらありゃしない」
という「家庭婦人」ならではの本音と、自己矛盾を自覚しているという心理を同時に、表しているのだと。
日本に例えるなら、
東京都心という「映えある出世舞台」が在るのもわかっているのだが、
自分には出身地・田舎が合っている、地元で暮らしていたいから都会の生活に憧れもへったくれもない~という人たちに向って、
「目覚めよ、地域社会」というようなスローガンを掲げたコミュニティが発足されたら、なんだかおかしい、
(国や統治者から目覚めよと言われなくとも、自分たちは自分たちで選択し、自覚と自信を持っている)
というような事でしょうか。
私は、あの台詞のところで、皮肉っぽさが面白くてクスッと笑ってしまいますね、
ちなみに、出身地を出て都会に生きている♀(「家庭婦人」ではない)です。
お礼
お礼が大変遅くなってしまい、申し訳ありません。 そういうことだったのですね!! よくわかりました。 詳しい解答ありがとうございました。