どのようにして罪を深く感じ取るか
クリスチャン、またはその立場に一定の理解をお持ちの方に質問です。
人はどのようにして自分の罪を可能な限り切実に感じ取ることが出来ますか?
キリストの教え、なかんずくパウロの教えを私は次のように理解しています。
人は原罪と己の犯した罪を負っている。それは律法を完全に行えないことにより証明される。
律法を完全に行うことの出来ない人の罪は、
神の子であり完全なる(罪のない)人間でもあるイエスキリストの贖い、
その流された血によって洗い清められる。
そしてそれに対する信仰により人が霊的な位置において、
主の血によって罪が洗い流される。
このとき、人が罪を洗い流される必要を感じるためには
目的としては審きのときにおいて父なる神の御前に義と認められること、
そして手段としてのキリストの血の贖いと悔い改めであること。
ここで問題となるのは血による贖いも悔い改めも、
自身の罪の深さを認識し、いよいよ自身に救いが必要であると感じることです。
けれども私は自身の罪を認識はしても、
それを感情や魂の悔やみとして深く感じ取ることが出来ません。
牧師や神父はこう言うでしょう。
「あなたの神に祈りなさい、そして聖霊様に祈りなさい、
あなたがそれを正しく理解し、それを心から感じ取ることが出来ますように。」
たしかに己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めることは必要です。
しかし同時に自身のより一層の感情としての感じ取りに対して人としての
持ちうる限りの努力も必要だと思います。
人としての最大限の努力をなし得ていないならばそれは切実には求めていないからです。
祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、
人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。