説教の楽しさ
教育、躾、指導の課程に、説教や仕置があります。これは楽しいですか?ぶっちゃけ、楽しいですよね。「説教は楽しい、説教は面白い、説教は気持ち良い」これが本音本心ですよね。「他人の苦しみは蜜の味」とよく聞きますが、人間行動学では合理的結論らしいのです。だとすると、説教は楽しいですよね?これは人の汚いところで、悪趣味で受け入れ難い本性かもしれませんが。
子に対して親が説教する、生徒に対して教師が説教する、部下に対して上司が説教する、これらはよくある話ですが、される側は我慢しています。そして、される側が我慢して耐えている事を、する側は知っています。もし「この若者に説教するとは何事だ!」と説教の説教を言ってくると「教育学的観点から必要だとの判断に基づいて説教したのだ」って言い返せばカッコイイですか?「説教すると楽しいから説教したのだ」って言い返せば、説教者は罪をさらけ出しましたか?言い訳が違うだけで説教は同じなのですが。
説教は任意性の高い教育です。法律や家族や民間結社のルールを見ても、説教を義務とする条文は珍しいと思います。それより寧ろ、過剰な説教を規制するような条文の方が多いでしょう。それでも、説教は有りますし、厳しいものも多いです。つまり、「説教したい、ガミガミ文句言いたい、コイツを懲らしめたい」といった意思があって、それが形になったものが説教です。
いじめや虐待やDVや◯◯ハラスメントと似てませんか?何となく、これらと説教は共通点を感じるのですが。だとすると、合法でも説教は恥ずかしい行為なのでは?
親の説教権、教育者の説教権、目上の人の説教権、偉い人の説教権は大事な権力ですか?説教権は私の作った造語ですが、これは社会秩序の根幹に関わるくらいの権限ですか?もし教師に対して生徒が説教すると、立場の逆転なのでしょうが、どうなるのでしょうか?
もし説教が楽しいなら、「説教カフェ」はヒットしますか?説教はリアリティが大切だから、店側でシステム設定するとイマイチですかね。有料でしかも設定を予め用意してある説教をしても、「俺様の説教でこの店員は凹んでいるけど所詮は演技だな」みたいになるのかな?やはり説教で快感を得るには、恣意的に説教して相手を本当に凹ませたいですかね?
説教が規制された未来の日本社会を想像すると、若者のニコニコ笑顔とキラキラ情熱に私は辿り尽きました。皆さんはどうですか?
快感←自分は偉大で強い権利を持っていた←説教成功←説教を成し遂げたい←説教する←説教を始める←誰かに説教したい←上下関係をハッキリさせて自分の威厳を伝えたい←自分が偉大である事を確信したい←今より偉大になり威厳を誇示したい。
快感←自分の意見は正しくて通用した←説教成功←説教を成し遂げたい←説教する←説教を始める←誰かに説教したい←自分の正当性を伝えて意見を通したい←周囲のルールブックが自分である事を確信して正当性を周囲に示したい←自分にとって都合の悪いルールを都合良く変えたい。