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日本国憲法の前文が翻訳調なのは・・・。
日本国憲法の前文はなかなか奇妙な文体で、 まことに“読みやすい”文章に仕上がっています。 「どうして憲法の前文はあんなに変な文章なの?」 もしも子供にそう聞かれたら、あなたはどう答えますか?
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日本国憲法を帝国議会に提出する際、幣原首相の推薦で、内閣法制局は、 GHQ草案を文語訳した案文を口語化することを 作家の「路傍の石」の山本有三に託しました。 山本有三は、英語に堪能であったので、原文の意図を違えず、正確かつ美しい日本語にするという 困難な作業に挑戦し、短期間で、なしとげ、また貴族院議員として、原案の修正にも貢献しました。 山本有三 略歴 [編集]呉服商の子として現在の栃木市に生まれる。高等小学校卒業後、父親の命で一旦東京浅草の呉服商に奉公に出されるが、一度は逃げ出して故郷に戻る。上級学校への進学を希望したが許されず、結局家業を手伝うことになる。この頃、佐佐木信綱が主宰する短歌の結社、竹柏会に入会し、新派和歌を学んだ。また『中学世界』や『萬朝報』、『文章世界』に投稿して入選している[1]。その後、母の説得で再度上京。正則英語学校、東京中学に通い、1908年(明治41年)東京府立一中を卒業。1909年(明治42年)9月一高入学。同級だった近衛文麿とは生涯の親交を暖めた。1年の留年を経て一高を卒業し、東京帝国大学独文学科に入る。在学中から「新思潮」創刊に参加し、卒業後、1920年には戯曲『生命の冠』で文壇デビュー。真実を求めてたくましく生きる人々の姿を描いた。一高時代落第後に同級となった菊池寛や芥川龍之介らとは文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立に尽力した。しかし昭和に入ると、1934年(昭和9年)に共産党との関係を疑われて一時逮捕されたり、『路傍の石』が連載中止に追い込まれたりし、日増しに軍部の圧迫を受けるようになった。1941年(昭和16年)には帝国芸術院会員に選ばれている 戦後は貴族院勅選議員に勅任され、国語国字問題に取り組んで「ふりがな廃止論」を展開したことでも知られる。憲法の口語化運動にも熱心に取り組んだ。1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙では全国区から出馬して9位で当選。参議院議員を一期6年間つとめて緑風会の中心人物となり、政治家としても名を残したが、積極的な創作活動は終生かわらなかった。1965年には政治家としては異色の文化勲章を受章している。 「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら 人間生まれてきたかいが ないじゃないか」(『路傍の石』より)
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- 風車の 弥七(@t87300)
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「戦後アメリカ人の作った英語の憲法を日本語に翻訳しているからだよ」と答えます。
お礼
ごもっともな意見ですが、ありがとうございました! 戦前に作られた法律にまで、他国が後から制定した日本国憲法の趣旨を無理やり取り込んで法解釈する憲法偏重型の左翼弁護士もいますね。 憲法が米国の影響を受けているのに、日本では正当防衛や私人逮捕に伴う有形力行使が米国と比べ制限されています。外国人犯罪が増える中、これでは日本人が日本国内で不利になります。 そういった左翼法律家はこれをどう説明するのでしょう?「それは政治・行政学の問題だから知らぬ。」とでも言うのでしょうかね?w
お礼
ありがとうございました! 確かに素晴らしいご尽力ですが、私にはやはり翻訳調にしか見えません。(失礼) 戦前に作られた法律にまで、他国が後から制定した日本国憲法の趣旨を無理やり取り込んで法解釈する憲法偏重型の左翼弁護士もいますね。 憲法が米国の影響を受けているのに、日本では正当防衛や私人逮捕に伴う有形力行使が米国と比べ制限されています。外国人犯罪が増える中、これでは日本人が日本国内で不利になります。 そういった左翼法律家はこれをどう説明するのでしょう?「それは政治・行政学の問題だから知らぬ。」とでも言うのでしょうかね?w