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容姿がいまいちでコミュニュケーション力がなくてプラ
容姿がいまいちでコミュニュケーション力がなくてプライドが高い人間が最も孤独で救いようがないというのは本当でしょうか?
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- hyuuma8579
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孤独の出発点は、孤立です。 孤立の原因は、自他分離です。 自分と他人を分けて考える思考から発生します。 たとえば、「あなたには、あなたの人生があるし、私には私の人生がある」こういう思考のことを自他分離的思考といいます。(=相対的自我) 自分と他人を分ける思考自体は、何ら間違いではないですし、一面の事実ではあります。 しかし、ここで多くの人が思い違いをしているのは、自分のことは自分が一番知っていると思ってしまいやすいことです。 しかし、それでは、自分を知らないままに一生涯を終えることになるでしょう。 では、どうすればいいか? それは、自分を知りたければ、他人を知らなければならないのです。 だから、自分は自分、他人は他人と分けてしまえば、生涯自分のこともわからないまま死んでしまうことになるというわけです。 そもそも、自他を分離すれば、自分という存在が外界から分離することになり、即ち孤立化します。 自分、自分、自分とまさに狭い自分の世界に入って孤立化してしまうことになります。 そして、自分の弱さや無力さに自信を失っていきます。そして恐れが生まれます。 では、自分はどこにいるかといえば、他人の中に存在するのです。 たとえば、第三国の貧しい国の中で飢えていく子供たちのことが、実感としてわかる世界があります。 (=絶対的自我) このことがわかると、他人という垣根がなくなっているのがわかります。 同時に責任という意味も違った意味でわかるようになります。 もし、他人の中に自分を見出せるとこが真実なら、その逆も真となり、他人も自分の中に存在することになります。 このように、自他分離という事実以上に自他同一性の真実は、あまりに深い世界にあります。 そうでなければ、共感や同情は、できなくなるのです。 あなたの質問で関連があるのは、コミュニュケーション力だと思いますが、 自他同一性は、必ずしもそれらの力がないとできないものではありません。 問われるのは、想像力だと思います。 自分と他人の関係は、分離どころか実は表裏一体なのです。 自分の容姿が誰かと比べてどうだ・・・これはあなたの立場、自他分離(=相対的自我)です。 自分も他人も同じなら、そこに比較概念はありませんね。(=絶対的自我) 幸せになりたいのなら、自分を他人と分離比較するのではなく、心を共有しようとすることです。
- bari_saku
- ベストアンサー率17% (1827/10268)
プライドが高いなら、そのプライドの根拠となりえるものを持っているはずです。 それが何かはわかりませんが、容姿がいまいちでコミュニュケーション力がなくてもなお、高いプライドを保ち続けられるなら、よっぽどご立派な代物なのでしょう。 孤独は自分で望んでしていることですから他人が関与すべきことではありませんし、そのプライドの根拠がある限り、既に救われていると思います。
- shizumo
- ベストアンサー率12% (159/1285)
君に関する限りはそうだろう。それともまだわかってないのかな?これまでの繰り返し質問で何も学んで無いのかな。学習能力が無いってことも救いようの無さの一つだね。
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
容姿はともかくコミュニケーション力が低いのにプライドが高ければ孤独にはなりますね。 救い難いかどうかは本人がどうしたいかによります。
- k210mm
- ベストアンサー率40% (300/736)
本当だと思いますよ。 容姿がいまいちでコミュニュケーション力が無い人は努力次第で変わることが出来ます。 ですがこれにプライドの高さが付くと意固地になり人の話も聞かずとなりますので 変わりようも無くどうしようもないです。 お書きに書かれたケースでは まあプライドと言いますかそれ程の良い物ではなくて 単に陰々滅々と殻に閉じこもっている臆病者と言うのが本当のところって いう方が多いと思います。